週報
説 教 題 「全能の父」大澤正芳牧師
聖書個所 ヨハネの手紙3章1節
讃 美 歌 77(54年版)
(説教最初の方からの録音になります。)
先週から自由な聖書箇所を選び、使徒信条に導かれながら、御言葉を聴いています。
先週聴きました「天地の造り主」という告白に引き続き、使徒信条が告白する言葉は、「全能の父なる神」を信じるということです。今日はこの告白を味わって生きたいと思います。
実は使徒信条を説く多くの言葉が、今日聞いて行こうとしているこの告白を二つに分けています。
「全能の神」ということと、「父なる神」を語ること、この二つに分けることが多いです。
使徒信条は滑らかに唱えれば、全部で30秒程度の小さな信仰告白です。しかし、その小さな言葉の中に、聖書66巻が証しする信仰をコンパクトに語っているとみなされているものです。
聖書66巻を凝縮した言葉です。そうであればあまり駆け足にならずに、一つ一つの言葉の前に立ち止まって、聖書の言葉を思い起こしながら、そこに証しされる神さまの恵みをじっくり味わうことがふさわしいと思います。
ある説教者は一つ一つの単語どころか、使徒信条の「てにをは」にまで立ち止まって、一回分として味わっていきます。
その意味では、「全能の父なる神」という言葉を、たった一回で聴こうとすることは、もったいない気もいたします。
しかし、使徒信条が、ここに含まれる二つの要素、神さまの全能と、神さまが父であられることを、一息で語ることにも大きな意味があると私は思います。
そこには、聖書の証しする神さまのこのお姿は、二つの別々の側面ではなく、分かちがたく、結び合った一つのお姿だという信仰があると思います。
使徒信条が正しくそう聴き取り、告白したように、神さまが全能であられることと、父であられること、このことが二つのものではなく、一つのものであるということは、聖書の証言の要約として、ふさわしいことであると思います。
私たちの現実の観察や、常識に基づく、頭と心の動きからするならば、この一つのものは別々のものどころか、お互いに矛盾することさえあるものとして考えられていることが多いと思います。
神さまの全能と、神さまが父であられることが、果たして本当に両立するのか?と、私たちはどこかで疑っているところがあるのです。
具体的に言うと、たとえばこういうことです。
神さまが全能であられるということは、神さまには何でもお出来になる。できないことはないということです。
そしてもう一方の神様が父であられるということは、神さまが愛のお方であり、私たちをご自分の子どもとして取り扱ってくださるということです。
しかし、私たちの実感としてこれはなかなか両立しがたいことではないかと思います。
この世界には毎日のように争いがあり、人が傷つき、死んでしまうことが起っています。ニュースを見れば悲しい出来事が私たちの生きる国でも毎日のように起っています。人間の争いばかりではありません。この世界には、自然災害や、私たちを苦しめる病などがあります。もしも、神さまが全能であられるならば、どうしてそれらを防ぎ、取り除いてくださらないのか、と思わされることだらけです。
これは、なにも、ニュースになるような事件を思い浮かべる必要はありません。私たちも日々の暮らしの中で、私たち自身が経験していることでもあります。
たった一つあるだけでも耐えがたいと思うような苦難が、これでもかこれでもかと、私たちの人生にも迫ってまいります。
神さまが全能の父なる神様であることを、疑わせるような現実です。
この現実に直面させられる時、そこから推論される神さまのお姿というのは、普通、次の三つの可能性しか考えられないのではないかという気がいたします。
一つは、こんな状況に自分が追い込まれててしまうのは、神さまが愛の神ではなく、ただ私たちの命や世界を思いのままに扱う全能の神様であるだけであるか。
それとも、私たちの神様は、父なる愛の神様であっても、全能のお力は持ってはおられないので、私たちの苦しみをご覧になって、心を痛めることしかできない弱い神様か。
あるいは、世の中の多くの人が考えているように、そもそも神さまはいないのか?この三つのどれかでしかないのではないかと、思わされます。
しかし、使徒信条は、聖書に導かれて「全能の父なる神を信じる」と告白いたします。私たちキリスト者は、現実を経験した上で導かれた、今挙げた三つの推論の内のどれも自分の告白とはしないのだと。
聖書は世間知らずな書物ではありません。聖書が記録する初代教会の人々、あるいは旧約以来の神の民の歩みを振り返るならば、それが描き出す彼らの住む世界と時代が私たちよりもずっと単純に、主なる神様の愛と全能が一致しているということは言えないと思います。
しかしなお、彼らが主なる神様の全能と愛を、一つのものとして信じ続けます。なぜ、そんなことができるかと考えますと、それは、たとえば、ヨブ記の結論部に見られるように、生ける神様の御前に立たされる時、私たちは神さまのご計画全体を見通すことのできない小さな人間に過ぎないということを思い知らされるからです。
信仰深いヨブが、どうにも曲げようのない自分自身の経験に基づく実感として、神様は全能であるかもしれないけれども、正義の神様とも愛の神様とも思えないと結論付けようとした時、突然嵐が巻き起こり、その嵐の中から、生ける神様の声が聞こえてきました。
「知識もないまま言葉を重ね主の計画を暗くするこの者は誰か。…私が地の基を据えたときあなたはどこにいたのか。それを知っているなら、告げよ。」
被造世界の大きさ、不思議さを語りながら、主なる神様は、被造物であるヨブの知恵の限界を告げます。神の全能と神の愛は矛盾するものではないか?両立しないではないか?なぜ、一息に神を全能の父と告白することができるか?「自分の経験と実感に基づいて判断しようとする限りは、謎は謎のままに残るのだ。人間であるあなたの限界のゆえに。」と、神は語られました。
しかし、それは、神さまのようには、ものを知らない人間は、造り主なる神様の前に、黙っていなければならない。謎を謎のままとして、世界の苦しみも、自分の苦しみもそのまま有難く受け取って、口答えしてはならないということでは、もちろんありません。
一所懸命に神さまを弁護しようとしたヨブの友人たちよりも、神さまに挑むようなヨブの嘆きを神様は正しい者と認めてくださったということを私たちは知っています。
また、たとえ、ヨブのように正面からあからさまに神さまに不平を言う勇気を持てない時にも、「忘れないでください。私の命は風にすぎないことを」(ヨブ7:7)と祈ったヨブの小さな祈りから始めることが私たちには許されています。
けれどもまた、神さまの全能と愛は、終わりの日まで隠され続けていて、今は、私たちの経験と実感においては、ただ信仰の事柄、言葉だけのものに留まるというのではありません。
確かに、世界の歴史と、自然世界、そして何よりも私たちの日々を見るならば、全能の父なる神様のお姿は、ほとんどおぼろげなもの、誰もが観察し、認めることができるものとは未だなっていません。
しかし、この私たちの人生のど真ん中で、神さまの全能と、神さまの父としての愛の二つが全く一つのものとしてありありと私たちの目の前に示され、目の前に示されるどころか、私たち自身が既にはっきりと、そのような全能の父なる神様の御手の内に、完全に置かれていることを自覚できる地点があります。
それは一体どこなのか?イエス・キリストの下です。イエス・キリストの出来事、神の言葉たるそのお方の歩みと、人格において、私たちは「全能の父なる神」に既にお会いしたのです。今も、お会いし続けています。
今日お読みした聖書の御言葉は、このことをこれ以上は明確に語れないほどに、はっきりと証ししています。
長老ヨハネは、御子イエス・キリストの内に、あなたたちは、これからも留まれと命じながら語ります。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実またそのとおりです。」
神さまが私たちの天の父であるという使徒信条における私たちの告白は、神さまが万物の造り主であられるという意味において、私たちの命が神様に由来するものであるという創造の信仰に基づいて、神は私たちすべてにとって父のような存在であると理解してしまっていることがあるかもしれません。
けれども、私たちキリスト者が、主なる神様のことを私たちの天の父とお呼びするとき、それは、このお方が全ての造り主であるという最初の告白とは、全然違う別の告白であります。
ものすごく特別な意味において、この私を、我が子としてはっきりと養子縁組してくださったという意味です。
この世界の造り主と造られた世界の一部という十把ひとからげかもしれない関係を抜け出して、「パパ」、「ぼうや」とか、「パパ」、「ちびちゃん」と呼び合うような幸せな親子関係が始まったという意味です。
御子イエス・キリストにおいて、御子イエス・キリストのゆえに、私たちは、神の「我が子」となりました。
そしてまさに、ここでこそ、よーく考えるならば、神は私たちにとって、極めつけにはっきりと、全能の父なる神であられるのです。
すなわち、この造り主であるお方が、風のように虚ろな者にすぎない私たちをご自分の子とするために、その全能を余すところなく発揮してくださったのです。
天を造り、地を造り、海を造り、星を造り、この宇宙全体を造られた全能の力を、傾けに傾けて、注ぎに注ぎ尽くして、私たちをご自身の子とされたのです。
私たちを子とするために、全能の神が注ぎださなければならなかった力とは、聖書の証しするところに従えば、世界創造の時の比ではありませんでした。
三位一体の神ご自身であられる御子の命を必要といたしました。
私たち人間の虚ろさ、罪深さと言われるその虚ろさは、神ご自身の命を与え尽くすことによってしか、神の御前に子として立ち得るものではなかったのです。
このキリストの出来事を、この私たち自身の福音として、現実として、聴かされ、信じさせていただいた私たちにとっては、神さまは、いついかなる時においても、私たちの「全能の父なる神」であらせられます。今日も、明日も、何が起ころうとも、永遠に。
ある教会員から教えてもらったことですが、マタイによる福音書に語られる有名な主イエスの御言葉、「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」というお言葉は、後半を直訳するならば、「その一羽さえ、父なしで、地に落ちることはない。」ということだと、聞きました。
確かに原文はそうなっています。「父なしで、地に落ちることはない」のです。地に落ちるときも、私たちの天の父が、伴われるのです。
私たちの父なる神様は、私たちの父となられ、私たちの父であり続けるためにも、その全能を発揮し続けてくださるのです。
世の終わりに至るまで、私たちの悲しみや苦しみの謎は謎のまま残さなければならないことだらけであるかもしれませんが、今ここで既に、少しも隠されていないこと、二度と、隠されることがないことがあります。
それは、神が私たちの父であることをおやめになることは、決してないということです。
そのために神は、御子の命さえ注ぎだされたということです。天地創造の時に、注がれた時よりも、もっともっと大きな力、ご自身の命を尽くして、神は、私たちの父となられました。
その私たちの父は、私たちだけではありません。一羽の雀さえお見捨てになることはありません。今はなお、謎のままに残るものも、御手の内にあったことが明らかになるでしょうが、私たちは、隠されたことではなく、明らかなことを世に告げるために、ここに建てられている教会です。
神の力であるキリストのゆえに、神が私たちと、私たちの隣人の父であることをおやめになることは決してないのです。神は、今日、ここに集まり、この言葉を聴く一人一人の全能の父であられます。
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