礼拝

10月10日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  「創造者なる神」大澤正芳牧師

聖書個所  コロサイの信徒への手紙1章15節から17節まで

讃  美  歌    90(54年版)

先週、第Ⅱコリント書を読み終えました。キリスト教会のセオリー通りで行くならば、書簡の次は、福音書に戻ります。

 

しかし、その前に、十数回に分けて使徒信条に導かれながら、自由に聖書箇所を選んで説いていくことにいたしました。

 

既にみずき牧師も何回かハイデルベルク信仰問答を参考にしながら、使徒信条の言葉を説きましたが、私も、短期間に一気に説いてみることにいたしました。

 

コロナ禍で、色々と心を騒がせることが多い中、私たちキリスト教会が拠って立つ信仰の急所を、もう一度はっきりと確認したいという思いが与えられたからです。

 

使徒信条は、三要文と呼ばれる教会が重んじてきたキリスト教会の信仰の要となる三つの文章の一つです。残りの二つは、十戒と主の祈りです。

 

実は、ルターの改革以来、多く生み出された信仰問答と呼ばれる書物の多くは、その形式においてこの三つの文章を解説していく形を採っています。

 

分厚い聖書66巻の全ての言葉を詳しく丁寧に読んでいくことは難しいことです。

 

しかし、教会を生み出し、教会を育んでいく聖書66巻の要点を不足なく理解する道がある。それは、十戒、主の祈り、使徒信条という三つの要となる文章に聴いていくことだと、信じてきたのです。

 

それゆえ、教会の中に様々な問題葛藤が生じた時には、度々、この三つの文章を読み直すことによって、自分たちの信仰の姿勢を再度整え直す、信仰告白がなされてきました。これが、信仰問答と呼ばれる書物の生み出された理由でした。

 

今、世界の教会は、転換期の中にあると思います。コロナによって、大きく活動の形が変わっていっている部分があります。

 

情けないことですが、コロナがなければ、オンラインの礼拝配信もしなかったし、オンラインを使った対面での集会を検討することもまだまだなかったと思います。

 

けれども、自発的ではない、環境の変化に迫られて、礼拝の形、集会の形が、強いられるようにして新しく変わりつつあります。

 

そこで、思いがけず海外に転居した教会員、闘病中の教会員とも、一緒に集会ができるという道が開けつつあります。もっと早くから、こういうことはできたのではないかと、反省させられます。

 

しかし、私はこれはまるで、使徒言行録で起きたような教会らしい変化の仕方だとも思い、愉快になります。使徒言行録を読みますと、今私たちが、キリスト教会の著しい特徴であると考える異邦人伝道、すなわち特定の民族の枠を越えてキリストは信じられるお方であるという常識は、キリスト教会の最初からの常識ではなかったのです。

 

使徒言行録を読みますと、生まれたばかりの教会が過ごしていたエルサレムの地で、殉教者を出すほどの教会に対する迫害が起きました。その迫害によって、その地に留まることができず、散らされて行ったユダヤ人キリスト者たちが、逃亡の途中で、語った福音を証しする言葉によって、本当に思いがけず異邦人キリスト者が生まれていったのです。

 

それは教会の指導者であった12使徒達の思惑や計画を超えていたことでした。迫害によって散らされたキリスト者たちの周辺に、思いがけず誕生してしまう外国人のキリスト者たち、その出来事が起こってしまった後に、慌てて会議を開き、異邦人伝道を神の御心と理解することができたというのが、教会の姿でした。

 

そして、新しい賛美の言葉、信仰の告白の言葉が生まれました。「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださった」。

 

私たちもまた、自分たちで望んだわけではない、強いられた状況において、神の御心を祈りの内に問いつつ、長老会を中心に、新しい伝道の形を模索しています。できれば、何も変わらずに元通りに戻ってほしいと誰もが思っています。しかし、神さまの御心はそうではないかもしれません。このことにおいても、私たちに先立って働いておられる神さまのお働きがどこにあるかを発見することが大切です。もちろん、何でも新しい状況に対応すればいいというのではありません。

 

変わらないもの、変えてはいけないものがあります。新しい出来事の背後にある霊を見分けなければなりません。聖霊の導きもあれば、悪霊の誘惑もあります。

 

その見極めるための目を養い、今も初代教会の時代と変わらずに生き生きと働いておられる神さまのお働きに気付くために、今こそ信仰の基本に立ち返ることは大切なことであると私は思います。そのために、使徒信条という私たちの古くて固い土台にもう一度足を下すことにいたしました。

 

三要文の中の、使徒信条は、他の二つの文章と違い、聖書そのものから取られた言葉ではありませんが、古代教会の洗礼の際の告白文であったと考えられています。これが告白できるならば、その人の信仰は神さまがお与えくださった信仰だと判断できる信仰告白の言葉として、採用された文言なのです。

 

その意味では、三要文の中でもさらに、聖書の内容、キリスト教会の信仰の中身を、ぎりぎりに切り詰めた言葉だと言えます。私たちの信仰の基礎中の基礎なのです。

 

洗礼や信仰告白を望んでいる方は、今日から説いていく言葉をじっくり聴いて頂き、それに同意できるならば、洗礼を受け、信仰告白をする準備は、大方整ったということができるようなものです。

 

しかし、使徒信条を説くからと言って、まだ洗礼を受けていない方だけに向けての説教を始めたということを意味はしません。

 

信仰の基礎に立ち返って学び直すということは、ウィン宣教師、ポーター宣教師、そして長尾巻牧師によって生み出された、私たち金沢元町教会にとっては少しも特別なことではありません。

 

改革派教会の父の一人であるジャン・カルヴァンという人は、聖書の教えはただ一度きりではなく、教会に立てられている牧師を通して、その任命を受けた者の説教と説教に結びついた聖礼典を通して、生涯根気良く学び続けなければ、意味がないと語りました。

 

まるで初心者のように最初からもう一度、何度でも何度でも、生涯を通して、卒業を迎えないイエス・キリストの生徒になると言うのです。

 

今日は、金沢元町教会の創立記念日の礼拝でもあります。135周年の記念の礼拝です。このような特別な日から、私たちの信仰の基礎中の基礎である使徒信条に導かれながら、御言葉を聴くことができますことは、実に長老会各教会らしいことであり、私たちに対する神様の憐みであると感じます。

 

ここに宣教師たちを突き動かし、北陸の初代キリスト者たちの心を鷲摑みにした福音の命があります。

 

この北陸の地の教会の設立のために故郷を捨てて、まさに日本の土となって尽力した宣教師たちのこと、また、今の時代よりもずっとずっと保守的であったろう北陸の武士であった人々が、先祖伝来の信仰を捨てて、イエス・キリストの父なる神を信じ、キリストのために生涯を捧げ尽くしたということを考えるとき、私はいつも胸が熱くなります。

 

なぜそこまでして、一度しかない自分の貴重な命をこの信仰のために燃やし尽くしたのかと、私たちキリスト者にはよくわかることですが、世の多くの人たちは不思議に思うことだと思います。

 

もちろん、私たちにはよくわかることだと言っても、その方々のことを思うと、この胸と目頭が熱くなることは止めようがありません。

 

「よくぞ献身してくださった。あなたたちのおかげで今、私たちもキリストのものとして、ここに生きていることが許されている。」と、感謝の思いでいっぱいになります。

 

この信仰をまだよく知らない人は、また、私たちも、まだよく知らなかったときは、思いました。

 

なぜ、わざわざ外国の神を信じる必要があるだろうか?私たちの国にも、立派な信仰があるじゃないか?

 

もしも、宗教という次元でものを考えるならば、この素朴な問いは全くその通りであります。どの宗教が一番優れているか、一番、人間の心を豊かにし、道徳的に優れた人格を作り出すかという次元でものを考えるならば、キリスト教が一番などという言いぐさは、私は、無邪気にすべきではないと思っています。

 

それぞれの信仰が生み出す倫理、社会、芸術、音楽、そういう視点からものを見て、キリスト教の方が優れた果実を結びますよというのが、宣教師たちの宣伝の中心であったとするならば、そんなものは余計なお世話だと私は思います。

 

確かに明治の初めに信仰を持った日本人の中には、そういう意図をもってキリスト信仰に近づいた者も多くいました。宣教師たちによって、文化面においても新しい風が吹き込み、日本を新しくしました。後に牧師になった青年達もその恩恵を受けようと、宣教師たちの始めた英語学校に入ったものも少なくありませんでした。

 

しかし、そのままではありませんでした。欧米の最先端の文明と同様に、時代に乗り遅れまいと最先端の宗教を信じたということではありませんでした。

 

彼らは、キリスト教にではなく、彼らを通し、やがて生けるキリストに出会ったのです。

 

私たちの教会の第三代牧師であり、後に、横浜指路教会の牧師と、東京神学大学の前身である東京神学社の講師を兼任した毛利完治牧師は、このことを「キリスト教はキリスト自体である」と表現しました。

 

「キリスト教はキリスト自体である」。キリスト教とは、キリストによる真理の教えのことではなく、真理プラス人格であるところのキリストご自身のことであると毛利牧師は言うのです。キリスト教とはそれに従って正しく生きて行くためのキリストの教えられた教えではないのです。神の義である生けるキリストが私たちと出会い、生かしてくださるのです。

 

ここに金沢元町教会を生かし続けてきた福音の神髄があると私は信じます。

 

なぜ、宣教師たちが、祖国を離れ、日本の土になることを選ぶのでしょうか?なぜ、私たちの先達は、日本古来の優れた信仰を離れ、今まで知らなかった教会の信仰に生涯を投じたのでしょうか?

 

生けるキリストに出会ったからです。しかも、ただ生ける人格であるキリストではありません。この私の主であり、救い主であられる生けるキリストに出会ったのです。

 

なかなか今日の聖書箇所に触れないようですが、私は、今日の聖書箇所から聴くべき言葉は、もうほとんど説くことができたと思っています。

 

聖書は、主なる神様のことを天地の造り主と証しいたします。このお方が天地の造り主であられるということは、主なる神様は私たち日本人にとって、見知らぬ外国の神さまではないということです。

 

主なる神様を信じるということは、この聖書の証によるならば、私たちにとって無関係の見知らぬ神さまと、一念発起して新しい関係を結ぶということではないのです。

 

私たちが忘れてしまった私たちの造り主、私たちが見失ってしまった私たちの本当の主人の元に、帰るということ以外ではありません。

 

もちろん、私たち人間の方ではそのことをすっかり忘れているのです。だから、そんなことを言われても、ちっともピンと来ないのです。

 

まるで物心の付く前に生き別れになってしまった親であるかのように、生まれながらの私たちには、主なる神様は外国の神であり、赤の他人に思えるのです。

 

場合によっては、雇人の一人のようにして頂ければと願うようになっても、生まれる前からそのお方との関係の内に置かれていたことなど、少しも知らないのです。

 

 

ところが、天地の造り主の方では、ただの一度も私たちのことをお忘れになったことはなかったのです。

 

造り主を見失ってしまった世界に、私たち人間の元に、御子イエス・キリストをお遣わしになり、そのお方の十字架と復活という神秘を通して、私たちをご自分の元に連れ戻す道を拓かれたのです。

 

しかも、コロサイの信徒への手紙1:15‐16の御言葉によれば、この私たちのことを決して忘れることをせず、私たちのために御子をお送りさえしてくださったという造り主は、御子ご自身でもあり、御子においてすべてを造られたと言います。

 

この世界の全てのものは、御子において、御子によって、御子のために造られたと言うのです。そしてその御子が教会のかしらとして、今も生きて私たちの元におられ、少し先の20節の御言葉によれば、この御子の十字架によって、神は、教会だけでなく、万物と和解してくださった。神はお造りになったものを何一つ忘れることはなく、何一つ棄ててしまう事もなかったと聖書は語るのです。

 

キリスト教とは、キリスト自体だと私たちの教会の先達である毛利牧師が語った言葉の意味がよくわかると思います。

 

世界創造は父なる神の仕事、神を忘れてしまった罪人である人間の救済は御子イエス・キリストの仕事、生まれ変わった教会を導くのは、聖霊の仕事というよく言われる三分法はないのです。

 

創造も救済も教会の伝道も、全ては、御子イエス・キリストを先頭として、御子と私たち、御子と世界を出会わせるための三位一体の神さまの御業です。

 

私たちが信じ告白するのは、単なる世界の造り主なる神ではありません。御子において、御子によって、御子のために世界を造られた、造り主です。

 

御子もまた、天地の造り主であると語るコロサイの信徒への手紙は、この世界の歴史のある時途中からではなく、この世界の創造の初めから、いいえ、この世界の創造の前から、その命を献げてまで、私たちを連れ戻してくださった御子イエス・キリストのご支配の内に、この世界は始めからあると語っているのです。

 

すなわち、神が天地の造り主であられるという信仰告白を正しく理解するならば、御子イエス・キリストの十字架において明らかになった狂おしいほどの三位一体の神の愛が、この世界を造り、私たちを造り、世の終わりの日まで、私たちとこの世界を支え続けるという告白です。

 

そのことが分かるとき、なぜ、飛行機もジェット機もない時代に、祖国を捨てて、宣教師たちが、日本を目指し、この地の土になったのか、その理由がわかります。

 

天地の造り主なる神、十字架で命を注いで、私たちを連れ戻すことを遂行された造り主なる神なのだ。天地を造られ、十字架で死んで甦られた生けるキリストが、今も、日本に暮らす者、この金沢で暮らす者たちを、狂おしいほどに愛し、お忘れになっていないからです。

 

宣教師たちは、見知らぬ民に、外国の神を伝えようとしたのではなく、ご自分の造られた者を忘れず、命がけで連れ戻す日本人の神でもあり、金沢人の救い主でもあるイエス・キリストを紹介するために、来たのです。

 

事実、そのことを受け止め、信じた、生粋の北陸人たちによって135年前ここにも教会が生まれました。以来、真の故郷なるキリストに出会った者たち、目を覚ました者たちが現れ続けました。私たちもまた、その列に連なる者です。そして、この列は、私たちで終わることはありません。

 

なぜならば、神は、御自分のものをただの一人もお忘れになることなく、ただの一人もお見捨てになることはあらず、私たちを通して、これからも、「立ち帰れ、目を覚ませ、世の造られる前からあなたはわたしのものだ」と、その御声を響かせ続けられるからです。

 

金沢元町教会は世の終わりまでキリストの生徒となって、この福音を自分のこととして聴き続け、この世界のこととして語り続けてまいります。

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