週報
説 教 題 「祝福の豊かさ」大澤正芳牧師
聖書個所 コリントの信徒への手紙Ⅱ13章13節
讃 美 歌 284(54年版)
いよいよ今日で、コリントの信徒への手紙Ⅱを読み終えます。今日は、手紙の終わりに記された祝福の言葉のたった一言を聴きます。
既にお気づきのように、この箇所は、教会の礼拝に一度でも来たことのある人は、誰でも聞いたことのある聖書の言葉です。
私たち金沢元町教会もそうですが、日本の多くの教会において、礼拝の最後の「祝祷」と呼ばれる場面で、告げられる言葉です。
今日の礼拝の最後にもこの言葉を私が皆さんに告げます。
ちなみに、この第Ⅱコリント13:13だけでなくて、その前に、旧約民数記6:24以下のアロンの祝福と呼ばれる言葉と一緒に祝福を告げます。
日本では、第Ⅱコリントの今日の個所だけを祝祷として告げることが多いようですが、世界的にはむしろ、アロンの祝福だけを告げるケースの方が多いようです。
いずれにせよ、礼拝の最後に祝福を告げることは、キリスト教会としてふさわしいことです。
神の招いてくださる礼拝の中で、どんなに自分の罪が赤裸々に指摘されることになっても、それを悔い改める嘆きの祈りを真剣にせざるをえなかったとしても、最後は、神さまの祝福によって送り出されていくのです。
いいえ、本当のところ、実は初めから終わりまで、全てのことは、この神さまの祝福の内に置かれながら起きる出来事なのです。前の礼拝で受けた祝福と、今日の礼拝で送り出される祝福と祝福の間に、私たちの全ての時間があるのです。
このパウロの手紙の最後の言葉であり、私たちの礼拝の最後の「祝祷」の言葉を語りながら、私はこれを何の説明もせずに「祝福」と言い換えて、お話ししています。
このパウロの告げる言葉を、単純に「祝福」と言い表すことは、大切なことだと思うからです。
祝祷という言葉は、祝福という言葉と、祈祷という言葉から成り立っています。確かにパウロの言葉は祝福を願う祈りの言葉に見えますから、それでいいように思います。
けれども、これを祈祷の言葉、祈りの言葉だと理解するときに、ちょっとした誤解が生じてしまうことがあるのではないかと思います。
これは祈りの言葉である。礼拝に集まった者たちの祝福を願う言葉である。
祈りであるということは、当たり前のことですが、それが実現するか、しないかということは、祈る人の自由になるものではありません。
祝祷をする牧師が、神さまの祝福を礼拝に集まった人たちに自由に与えたり、取り下げたりすることはできない。それはその通りです。その意味では、いつでも神様ご自身に祝福の自由があります。
けれども、これが祈りであるならば、祝福の祈りが叶えられることもある、叶えられないこともある。祝祷によって送り出された皆さんの上に、祝福がもたらされるかどうかは、まだ未知数であり、来週再び礼拝に集まったとき、「大澤牧師の祝祷はわたしには実現しなかった。」「牧師のお祈りのお陰で、祝福が与えられた」と一喜一憂しなければならないものなのでしょうか?
災難と思われるような出来事に直面しなければならなかった人にとっては、父・子・聖霊なる神様の祝福は与えられなかったのだろうか?
神に託された言葉として牧師が告げる祝祷は、そのようなものではないと思います。そこでは、単純に祝福が告げられているのです。それは人間の自由になるものではありませんが、神様ご自身の意思を告げるよう託された言葉です。
今日与えられた祝祷の言葉は、私たちの持っている聖書では、「あるように」という言葉で結ばれています。しかし、実は、原文では、「あるように」というこれが祈りの言葉であることを想起させる言葉は付いていません。
ギリシア語の語順を生かして直訳風に訳すならば、「キリストの恵みと神の愛と聖霊の交わりが、あなた方すべてと共に」となります。
だからこれは単純に父・子・聖霊の祝福が「あなたがたと共にある」ということなのです。
それゆえ、日本の教会においても少しづつではありますが、式次第の最後の「祝祷」という項目を、単純に「祝福」と書き直している群れが現れています。
私たちは、祝福を受けて、一週間の生活へと送り出されていくのです。たとえ、そこで、どんな悲しい出来事、つらい出来事に出くわすことになったとしても、父・子・聖霊なる神様の祝福が共にあるのです。その祝福を私たちから取り去ることのできるものはどこにもないのです。もしも、命が尽きるようなことがあったとしても、私たちは神さまの祝福の内に、命の終わりを迎えます。私たちが毎週頂く神の祝福とはそのような強い祝福です。
今コロナ禍において、私たちは、今までの礼拝式次第から短縮した形で神に礼拝をお捧げし続けています。
その中で、改めて、礼拝式順の中の諸要素について、どういう意味を持つものなのか問い直す声が、長老会でもちらほらと出始めています。
コロナ前に私たちが使っていた礼拝式順というのは、明治時代に宣教師が持ち込んだものが元になっているものです。日本基督教団の多くの教会が採用しているものと大体同じです。
実を言えば、この式順は、キリスト教会の礼拝式順の歴史から言えば、かなりシンプルなものです。まだ洗礼者が生み出されず、洗礼を受けていない者たち中心の講義所での集会を意識していた形であったのではないかと聞いたことがあります。
礼拝のフルコースの形というよりも、状況に合わせた簡素な形であったというわけです。言わば、コロナ禍によって、礼拝式が簡略化されたように、宣教地において簡素化された礼拝式順です。
聖餐が祝えない礼拝、讃美歌が歌えない礼拝というのが、全く当たり前のものではないように、本当は礼拝式順というのは、その一つ一つの式順の意味を弁えて、捧げた方が良いだろうと思います。
むしろ、そのような簡略化をリアルタイムで経験し、そこに疑問を持っている私たちだからこそ、改めて、礼拝式順の各要素について問い直すことは、神さまの導きであるかもしれないと思い始めています。ぜひ、祝祷、祝福ということについて、今日から、お一人お一人が、じっくり考えて頂ければと思います。
さて、この祝福の言葉の内容自体ですが、「主イエス・キリストの恵み」と始まるところが考えてみれば、不思議なことではないかと思います。
既にここまで、父・子・聖霊の祝福と自然に語ってきました。私たちの慣れ親しんだ自然な感覚としては、父なる神様、子なるキリスト、聖霊と続くのが当たり前のように思います。
礼拝の中で告白いたします使徒信条という教会の基本的な信仰告白の言葉においても、その順番は、父なる神様への信仰を告白し、子なるキリストへの告白へと続き、最後に聖霊なる神様への告白に至ります。
ところが、パウロの祝福の言葉は、「キリストの恵み」を語るところから始めます。
けれども、実際の私たちの信仰の経験においては、まさに、パウロが告げる通り、主イエス・キリストの祝福が最初に来るものです。
私たちが神様の恵みを知るということ、私たちが神様の愛を知るということ、それは全部、イエス様を通してだからです。
イエス様を見れば神さまの恵みがわかる、イエス様を見れば、私たちが神さまに愛されていることがわかる。イエス様を見れば神さまの祝福が決して取り去られない形で私たちに注がれていることが分かる。
逆にイエス様を見なければ、主なる神様の恵みも愛も祝福も途端にあやふやで心許ないものになっていきます。
既にお話ししましたように、礼拝から送り出された日々の生活において出会う幸不幸に翻弄されて、神さまの祝福を信じたり、疑ったりしてしまうのは、神さまの祝福のしるしをイエス様以外の所で探してしまうからだと思います。
神様が私たちを愛してくださり、私たちを祝福してくださっている証拠を、私たちの健康や、経済状況や、家庭生活の円満さや、人間関係の順調であることの中に見出そうとするならば、がっかりいたします。絶望せざるをえません。
そのような信仰は煎じ詰めて言えば、主イエスの前に一人の目の不自由な人を連れてきて、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と問うた弟子たちと同じ、思い違いです。
しかし、イエス・キリストを見るならば、私たちはこのような思い違いから目が覚めます。
十字架のキリストは罪人の兄弟であられます。たとえ、自業自得の結末を迎える者にとってさえ、祝福の神となってくださるのです。
パウロはローマの信徒への手紙8:38以下で次のように、このキリストにおける人間から取り去られることのない神様の愛をほめたたえました。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
キリストを見つめているならば、絶望しても絶望に沈み切ってしまうことはありません。
むしろ、苦しみの中にあっても、必ず喜びが湧き上がってまいります。私は神に見捨てられていないんだ。こんな時にも、神さまの愛は、私から取り去られることがないんだ。
その神さまの愛、恵み、祝福とは、いついかなる時にもイエス・キリストが私たちの内におられるということです。私たちがキリストのもの、神のものと成り切っているということです。
このような神の愛を証しするキリストの恵みであるということに気付きますと、父・子・聖霊の名において、告げられているキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりというものは、それぞれ別々の祝福をひとつづつ数えている言葉ではなくて、まさに三位一体となってわたしたちに出会い、わたしたちを捕らえようとする一つの神様の恵みを語っている言葉ではないかと、分かってきます。
それらは独立別々の恵みではなくて、一つの円のような恵み、キリストの恵みに出会うと、神の愛がわかる。キリストの恵みが分かると聖霊の交わりの中に入れられる。また、そのこと自体が神の愛であり、キリストの恵みをわかるようにするのが聖霊の交わりであるというような循環的な恵み、父・子・聖霊のダンスの中に、私たちを巻き込むような生き生きとした恵みです。
けれども、なお、聖霊の交わりということについて、立ち止まって深く思いめぐらしてみるならば、次のような確信をもって良いと教えられます。
すなわち、イエス・キリストの恵み、神の愛と同じように、聖霊の交わりもまた、私たち全ての者に与えられているという神の祝福の宣言を聞くことが許されているのです。
三位一体の神の内において、一番私たちが理解しかねる聖霊ですが、この聖霊の交わりもまた、実現するかしないかわからない祈りの事柄ではなくて、私たち全ての者がその中に入れられている祝福の宣言に属する事柄なのです。
これは聖霊を感じるとか、感じないとかそういったことによって確かめられるようなことではありません。
私たちがイエス・キリストの恵みを見ることが許されている。そのキリストの中に、決して私たちを離すことのないわたしたちに対する神様の愛の大波のような迫りを信じることが許されている。実現するか、しないかではなく、事実、そのようなものとして、わたしたちに注がれている神の祝福の現実として、私たちは聖霊の交わりの中に置かれているのです。
「交わり」と訳された言葉、コイノーニアという言葉が使われています。
聖霊のコイノーニア、それは、聖霊御自身と教会との交わりでもあるし、また、聖霊が作り出してくださる人と人との教会の交わりのことでもあるでしょう。
聖霊ご自身が、神と私たちを結んでくださる。また、人と人とを神の家族として結んでくださる。
どんなに離れた者であっても、コリント教会とパウロを一つの交わりへと結んでくださった聖霊なる神は、隔たった者同士を一つに結び付けてくださいます。
ところでこの交わりと訳されたコイノーニアという言葉ですが、教会の歴史において、聖餐の食卓を表す言葉として用いられました。
聖霊なる神が作り出してくださる神と人とのコイノーニア、人と人とのコイノーニアが、どこで、見えるものになるかと言えば、聖餐の食卓においてであります。
長いお休み期間を経て、私たちはこれから聖餐を祝おうとしています。その食卓は、見えないものとしては既に、実現されている神と人との交わり、人と人との交わりを改めて、目に見えるものとして私たちに示すために神がお定めになった食卓です。
そのキリストにおいて神の造り出された取り去られることのない恵みが、まだ誰の目にも明らかな事実ではなく、まだ多くの者の目には隠された信仰の現実であるために、全ての者と共に分かち合う食卓とはなっていません。
その意味では、私たちの聖餐の祝いは、全ての者が与る神の国での食卓を写そうとする小さな小さな食卓に過ぎません。
けれども、分断と争いこそが真実であるように見える世にあって、隔たった者、決して分かり合えない人間同士が、神によって一つの交わりの中に迎え入れられる世の終わりに完成するしるしとして、私たち教会は聖餐を祝います。
この聖餐に与るときこそ、パウロがこの手紙の全篇に渡って語ってきた、神の恵みが私たちを生かしていることを経験し、また、この身を持って、世に証しするのです。
この交わりに入るのに、足りない者などおりません。信仰すらも神が与えてくださるのです。父・子・聖霊なる神が、この祝福の中に、もう皆さんを、貧しい私たちを迎え入れておられるのです。
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