8月22日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  「あなたはわたしのもの」 大澤みずき牧師

聖書個所  イザヤ書43章1節から7節

讃  美  歌    354(54年版)

    私たちが手にしている聖書は、厚く重い本です。普通の本であれば、わたしたちはこのような本を見ると、きっと、言いたいことがたくさんあるのだろうと思います。

 聖書は、1冊の本になっていますけれども、実際は66巻の本を一冊に編集したものです。その表現も様々で法律書であったり、物語や詩、歴史書または手紙とバラエティー豊かな内容です。そのような様々な形式を用いなければ伝えきれないほど言いたいことがたくさんあるのだろうと考えられるかもしれません。けれども、結局のところ、どのような表現方法であったとしても、この厚い本が伝えたいことは、たった1つのことなのです。

 よく、そのことをキリスト教学校では、聖書は神様からのラブレターだと教えたりします。聞いたことがあると思います。神様があなたへ愛を伝えるためだけに作られた本それが、聖書だということです。

 この厚い聖書は要するに何を言いたいのか。何を読み取って欲しいのか。それは、今朝のイザヤ書43章1-7節のみ言葉にもよく表れています。

 神様は要約すれば、こうおっしゃるのです。「私があなたを造った。あなたはわたしのもの。いついかなる時も共にいる。あなたが誰かの虜になるような時には、他にかえられない宝だから何としても買い戻す。どこかに散らされてしまったなら、必ず集める。」

 要するに、聖書が言いたいことは何かというならば、いついかなる時も、このことに尽きるのだと思います。そして、私たちがいついかなる時も聞くべきことはこのことであると思います。

 私は、1年ぶりに、この講壇に立つ事がゆるされました。1年前、大きな手術を受けることになり、その回復を待って、ようやく今日、ここに立つことができました。手術自体を決めたのは、さらに2年前にさかのぼりますから、2年ほど手術ということ抜きにして自分の毎日を考えることができない日々がありました。昨年の8月5日に手術を受けましたが、7月から本格的な準備がはじまり、神奈川県の病院への行き来が始まりました。手術の日が迫ると日に日に不安が心を覆うようになり、祈って聖書を読んでも、なかなか頭の中のもやが晴れないような思いでいました。そんな折、旧約聖書の説教を中心にまとめられた、旧約学者の並木浩一先生の説教集を手に取りました。

 通院のための行き帰りの新幹線の中で、何篇もの説教を読みました。多くは並木先生が教会や大学の礼拝でなさった説教で旧約聖書の中でも、比較的知られた聖書箇所がテキストになっているものです。1つ1つの説教はすばらしく、それぞれに学識豊かな先生の知識から解き明かされる御言葉に深く教えられることがありました。そして、読み進めるうちに、不思議とある思いがしっかりと自分の中に残るようになったのです。

 それは、「何があってもわたしは神様のものであって、それ以上でもそれ以下でもない。手術で自分の体が最終的にどうなるかはわからないけれどもわたしが神様のものであることは決してかわらない。手術もまた、それを知るための出来事でしかない」ということでした。それこそ、家族にしか話しませんでしたが、大きな手術なのでこれが命の終わりになる可能性も0ではないのだという思いさえあったのですが、その思いを超える言葉として「あなたはわたしのもの」という言葉が迫ってきたのです。

 私事を少し長く話させていただきました。復帰の第1回目の説教としておゆるしいただきたいと思います。けれども、このような個人的な御言葉経験を話しましたのは、単なる個人的な証ではなく、この神様の言葉が特別に私だけに語りかけられて、私の心の奥深くに変化を起こしているわけではないからです。既に、旧約のイスラエルの民が経験されたものであり、私と皆さんを含んだその後に続くすべての者に及んでいる言葉なのだということ。私たちは今朝共に読みました。1人1人に語りかけられている言葉として聞いているのです。

 この第43章を預言者が最初に語ったとき、聞かされたものたちは厳しい危機の中にありました。イスラエルの民は戦争によって国を追われ、当時の礼拝堂であった神殿を壊されて、日常生活も信仰生活も大きな打撃を受けていました。バビロン捕囚と呼ばれる時代です。信仰の指導者も多く捕らえられました。神様の存在あるいは、神様の愛を疑いたくなるような状況があったのです。あらゆるものが失われて、多くの者はあきらめの空気に包まれ、途方に暮れていたのです。信仰を捨てるもの、他の神々を信じる者も出てきました。右を見ても左を見ても、希望の見えないような状況がありました。

 しかし、希望が失われていたそのところで、預言者を通して神の言葉が響いたのです。

「あなたはわたしが造ったわたしのものだ。あなたは宝であり、どんなことがあってもそばに置きたい。そして、手放すようなことがあれば、いくらでも費やして取り戻す。」

 何があっても愛しているとの神の言葉が響きます。しかも、愛は言葉だけに留まらない。神様は愛の言葉を必ず現実にすると断固として告げられるのです。

 それは、3,4節で身代金や代償、身代わりという言葉にあらわされるように、何としても、イスラエルを生かすというのです。神様ご自身がその持てるすべてのものを注ぎ込んでさえ、イスラエルを生かすというメッセージです。

 連れ去られた異国の地で生涯を終えるだけの空しい未来を思い描くイスラエルの民のところに、突然、神様はこの愛の言葉を携えて飛び込んでくるのです。空しい未来にあなたを支配させない、あなたはわたしのものだ、その他の何者にも支配させない、どんな犠牲も払うと。

 イスラエルはそのはじまりから決して強い民族ではありませんでした。むしろ、その反対で、弱く小さいものたちでした。憐れみを受けて、イスラエルは国として歩む道が与えられていたわけです。けれども、どうも、国の繁栄と共に自分の弱さや小ささというものに覆いをかけてしまったのでしょう。いつしか、大国のように強さを求めて過ごしていたのです。それは、神の願われた人間の姿ではありませんでした。

 神様に救われた小さなイスラエルの姿を忘れることは、すなわち、神様の恵を忘れることです。イスラエルの罪がここにありました。このことは、直前の第42章18-25節に記されています。特に、24節25節に捕囚の出来事がイスラエルの罪に対する神様の裁きであったことが記されています。

 けれども、ここにも一貫した、神様の思いがあるのです。神様はいつでも、イスラエルを心から愛していました。捕囚に渡すそのときさえも、それは変わってはいないのです。苦しませることが目的ではありません。愛に気づいてもらうためです。

 愛する者が自分に興味がないということは耐えがたいことです。愛していれば愛しているほど、それは我慢できないことです。だからこそ、捕囚によって気づいて欲しい、悟ってほしい、切ないほどの声が、「その炎に包まれても、悟るものはなく、火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった」と25節の終わりに記されているのです。

 そうして起こった捕囚。イスラエルの信仰者たちの鎧がはがされると、そこにいたのは、神様に救っていただいた、憐れんでいただいたあの小さなイスラエルだったのです。強いふりをしていたけれども、弱い。それが信仰の民の姿です。つくろうこともできない弱さがむき出しになった捕囚の中にある信仰者たちを神様は見捨てるどころか、なお愛を注いだのです。エジプトから救い出した時と変わらない愛の言葉を告げたのです。あなたを愛している。あなたはわたしのものと。どんな逆境の中にあっても、最後の味方がここにいると。

 このお方は、第43章の1-7節のことが本当の約束であることを、当時のイスラエルの民だけではなく、後に私たちにも見せてくださいました。あなたを取り戻すためならなんだって犠牲にする、その思いが、イエス・キリストのご生涯です。イエス様の十字架が神様の本気です。

 この本気がいつも私たちに向けられています。この本気が聖書66巻の語りたいことです。だから、この神様の本気を受けとめてはじめて、聖書を読んだ、聖書がわかったと言えるのです。その目的以外に、この書物はつくられてはいません。

 「あなたはわたしのもの。」という神様からの呼びかけを聞き続けること、それが信仰生活です。そして、その声に支えられて「わたしは神様のものです」と応答しつづけることが信仰生活なのです。

 説教者は、聖書の様々な箇所から毎週説きあかしをします。毎週異なる話をしています。ここ数週のように、説教者も変わったりします。けれども、毎週、私たち説教者が告げたいことは、同じです。聖書のどこから説教をしていても、何を伝えたいかは同じなのです。それは、神様の愛であり、それゆえ、語られる「あなたはわたしのもの」という声です。聖書を解き明かす説教は、ここに始まり、ここに終わる神様の声です。

 私たちがよく紹介する、信仰の道筋を問いと答えの形式で教えてくれる、ハイデルベルク信仰問答があります。この問答も、一番最初に、私たちがキリストのものであることを語ります。キリストのものであることが、生きるときも死ぬときも唯一の慰めであると語ります。これだけあれば、大丈夫と言えるものが、私たちに与えられているのです。

 先ほど、信仰生活を「あなたはわたしのもの」という声を聞くことであり、「わたしは神様のものです」と応答し続けることだと申しました。この慰めに満ちた神様とのやりとりが、一番わかるところが、主の日の礼拝です。礼拝は神様の呼びかけと私たちの応答で成り立っています。今日も、この神様との時間のために、会堂で家庭で共に礼拝をささげています。

 私たちは、多くの物や情報の溢れる中で暮らしています。毎日どうしても様々なことに気がとられます。けれども、この礼拝の時は、神様とだけの時間なのです。神様が私たちを求めて愛してくださることを受け取り、それを喜ぶ時です。そして、神様に造られた自分に立ち返る時です。

 私たちは、神様のものとして生きるときに、神様のために生き始めます。7節の神様の栄光のために創造された自分とされていくのです。しかし、その姿は、決して、強いイスラエルとしてではありません。神様の前に、いつも小さい自分です。けれども、その小さい弱い自分を神様は特別に愛して下さるのです。

 我が家の子どもたちも末っ子が4歳になり忘れそうになっていましたが、ここのところ教会に来る小さな赤ちゃんを見ると何とも言えない気持ちが改めてわいてきました。赤ちゃんは自分でごはんを食べることもできなければ、着替えることもできません。大人の世話を受けるばかりです。それでもかわいくて、かわいくて仕方がない。

 父なる神様も同じです。懐に迎えるようにして、私のものと呼んでくださり、愛して、必要を毎日与えてくださいます。それを喜んで受けて生きる、そこで、神様の栄光は神様ご自身が表してくださるのです。私たちが作りだすのではありません。神様が、必ず造り出してくださる。だから、安心して、私たちは、神様のものであるということにしっかりと留まります。何度でもその言葉を聞き、味わい、そうだ、そうだと相槌を打つ。そこで、いつも神様がことを起こしてくださるのです。

 会堂に集うことが困難な中にあって、教会の活動が停滞しているように思えます。けれども、私たちが、こうして、礼拝で「神様のもの」であることをしっかりと聞いていること、神様はもう、そこでことを起こされています。捕囚の中でイスラエルの民が聞いたように、私たちもその神様の働きに集中する心を今いただくのです。