礼拝

12月27日(日)礼拝

週報

説  教  題  「落胆しない秘訣」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙二4章1節から6節
讃  美  歌    107(54年版)

2020年最後の主日の礼拝となりました。激動の一年でしたが、この日にふさわしい御言葉が与えられたと思います。8節にこうありました。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」有名な御言葉です。私もことあるごとに思い起こす聖書の言葉です。先週お読みした私たちの年主題聖句、ヨハネによる福音書1633の「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」とも、通じる御言葉であると思います。

 苦難はあるのです。神を信じると、苦労がなくなるとか、生活が楽になるとか、信仰があれば、物事はうまく運ぶようになるとか、そういうことは言われていないのです。四方から苦しめられることはあるのです。途方に暮れることもあるのです。虐げられること、打ち倒されてしまうようなことはあるのです。けれども、滅ぼされません。ノックダウンされても、ノックアウトされないのです。倒されて、膝をつくことがあっても、必ず立ち上がることができる、立ち上がらせて頂くことができます。立たせていただくのです。信仰とは、精神力を養うことではありません。何度でも立ち上がる底力を養うことではありません。

 だからある人はこういう趣旨のことを言います。私たちは、教会に足を踏み入れよう、信仰を得たいと願うとき、信仰があったらしっかり立てる。顔を上げることができる。そう考えるかもしれない。なるほどそれはそうかもしれない。けれども、同時に忘れてはならないことは、信じればこそ、膝を折ることができる。崩れることができるようになるということです。

 旧約哀歌の329以下にこういう言葉があります。「塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ/十分に懲らしめを味わえ。」なぜならば、「主は、決して/あなたをいつまでも捨て置かれはしない。」(331)からです。崩れ、涙を流しているところで、一人で生きられない私たちのために差し伸べられる憐みの主の御手があります。

 私もどこからそう思い込んでしまっていることがありますが、パウロをはじめとする聖書の語る信仰者の姿からすれば、いつでも元気溌剌でいるのが真のキリスト者だというのは、大きな誤解です。倒れたらキリスト者としてみっともない、キリスト者らしくないとというのは、とんでもない錯覚です。いつも堂々と胸を張って生きられるというのは、むしろ、それは、キリスト者の歩みではなく、ファリサイ派の歩みです。

 この後、コリントの信徒への第2の手紙を読み進めていきますと、パウロは、69で、自分のことを「死にかかっているようで生きている」と紹介しています。また1210では、「わたしは弱いときにこそ強い」と言います。どんな困難の中にあっても元気溌剌というのではない。死にかかっている、弱っている、立ち上がる底力なんてない。けれども、折れかかった葦の棒を折ることなく、くすぶる灯心を消すことのない神様が、大事に大事に守ってくださる。だから、私たちは滅びないのです。キリスト者とは、安心して神のみ前に膝を折ること、崩れることを覚える者のことです。

 なぜ、そのようなことが許されるのか?そんな情けない姿の者が神を信じる者、キリスト者であると言えるのか?主イエス・キリストのゆえです。7節にこうありました。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」冒頭で、8節は、有名な御言葉だと言いましたが、実は、この7節のほうが有名な言葉かもしれません。この御言葉を口ずさんですっかり諳んじているという方も多いかと思います。私たちは土の器であるかもしれないけれども、その中に、宝を、イエス・キリストの命を持っている。それが、私たちが弱くとも、強い理由です。私たちは、土の器の中に福音の宝を持っているのです。

 私たちは「土の器」だ。私たちキリスト者は自分のことをよく紹介することがあります。特に私のような牧師の任に当たっている者が、謙遜と言い訳を兼ね合わせたようにして、「自分は牧師をやってますけど、土の器にすぎません。」と、いつまでたっても、自分が牧師であることの居心地の悪さを覚えながら、あまりに聖人君子のような扱われ方をしますと、「自分は土の器にすぎない、土の器にすぎない」と、言い訳をしたくなります。かと言って、「大澤牧師は土の器ですね」と言われたら、ムッとする自信があります。もちろん、牧師に限りません。本当に謙遜で祈りの人と言うべき、キリスト者が、牧師から、「~さんから教会を取ったら何も残りませんね」と言われたら、腹を立ててしまったということを聞いたことがありますが、私たちは、福音のすばらしさ、キリストのすばらしさを、よく伝えきれない、伝える自信がない自分の言葉や、生活のありさまに対するエクスキューズとして、あるいは、私たちがキリスト者かくあるべしと考える謙遜を表す言葉として、この「土の器」という言葉を使いがちだと思います。だから、他人から「土の器だ」と言われると、自分は確かに土の器かもしれないけれど、土の器だって、九谷焼、大樋焼と、捨てたもんじゃないと反発を感じたりします。

 けれども、パウロが自分のことを「土の器」であるという時、世の中には、金の器、銀の器、青銅の器、石の器もあるけれども、自分はみすぼらしい壊れやすい土の器だ、あるいは見る人が見ればその価値がわかると、どこかに含みを持たせた我々のしがちな謙遜などではなく、客観的な事実としてそう自己理解をしているのだと思います。というのは、11節で、パウロはこの「土の器」という言葉を言い換えて、「死ぬはずのこの身」と言っています。パウロが自分のことを土の器と言っているのは、並みいる使徒たち、伝道者たちの間にあって、自分はしがない土の器、粗末な土器のような見栄えのしない働き人ですと謙遜しているのではありません。「自分はやがて死ぬ人間だ」と言っているのです。この意味において、誰か他の人と比べて自分は土の器だと言っているのではありません。人間誰しも、やがて年老い、病を得て、死んでいく存在として、「土の器」だと言っているのです。自分の謙遜に酔ったような言葉ではなくて、冷静な事実確認なのです。

 私が最初に仕えた教会、奈良にあります大和キリスト教会は、童謡「さっちゃん」の作詞家として知られる阪田寛夫さんのお母さまが所属した教会です。阪田寛夫の作詞した賛美歌に、「丘の上の教会へ」という歌がありますが、これは、大和キリスト教会が、モデルの一つとなっていると聞いています。そのお母さまが、阪田京さんと仰いますが、教会で「阪田のママ」と慕われながら、高齢になられても教会のオルガニストを務め、礼拝の直前に骨折をしながら奏楽を務めたという逸話の残っている筋金入りの信仰者でありました。このお母様の思い出を記し、芥川賞を受賞した「土の器」という阪田寛夫の小説がありますが、そこで、阪田さんは、土の器にすぎない人間が、しかし、神様によって立派に用いられたということを語っているのではありません。むしろ、お母さまの最後の様子を客観的に描写しながら、人間が土の器だということを語っています。

 こういう風に言います。「私の母が、のたうつような苦しみの果てに、期せずして身を以て証明したのが逆濾過機とも言うべき『土の器』それ自体の姿でした。透明な液体を赤黒い膿に変え続けた母の体ですが、私にはそれが罪トガのように見えたのです。」末期がんの苦しみの中で、点滴を通して、透き通った薬剤がお母さまの体に入れられていく。しかし、お母さまの体から出ているカテーテルからは、濁った体液が排出されていく。まるで逆濾過機のようだ。これが、人間が土の器だということだと言うのです。キリストに似た者になろう、信仰者としての生き様を全うしようとしても、天には程遠い、地に縛り付けられたような弱く脆い人間の姿です。80歳になるまで、奏楽を続けるということは、気力、体力に恵まれなければできないことです。けれども、その力もやがて失っていくのです。人間は土の器にすぎない。

 教会の中で、あの奉仕も難しくなってきた、この奉仕もできなくなってきたと言う時、私たちはお互いに、祈ることはできる。そしてそれこそが最大の奉仕だと励ましあうことがあります。それは確かにそうです。たとえば、説教のために祈ってもらってるということは、牧師にとって最大の支えであるし、この私たちのために祈っている仲間があるということは、教会が教会として立つための要です。けれども、祈ることすらできなくなっていくこともあります。そうなると、私たちは、信仰者として敗北したのか?倒れてしまったということなのか?

 そうかもしれません。けれども、打ち倒されても滅びることはないのです。この弱く、脆い土の器の中に、神の宝を、イエス・キリストの命が来たからです。

 しかも、この宝、この宝のあまりの素晴らしさに比べてこそ、私たちの存在が、土の器にすぎないことがいよいよ明らかになるものだと私たちは考えているかもしれません。キリストのあまりの素晴らしさに比べれば、私たちは脆く、その素晴らしさを自分の弱さと脆さによって、輝きに傷をつけてしまうことに、苦しんでいることだと思います。私たちのことを見て、身近な者が「あんな者がクリスチャンなのか」と言うこ時に、神様に申し訳なく思うばかりで、それこそ、「この土の器を見ないで、宝であるキリストを見てほしい」と言いたくなる私たちです。

 けれども、脆い土の器に盛られた宝である福音とは、天に輝く神の一人子なるイエス・キリストなどではありません。この宝の福音の中身には、キリストが、この脆い土の器をご自身においてもお取りになってくださったということが含まれる福音であります。

 注意深く読むと気付くことですが、パウロはイエス様のことを多彩な呼び方で呼びますが、今日のところでは、主イエスでもなく、キリスト・イエスでもなく、イエスという呼び方をしています。

10節には「イエスの死」という表現があります。短い間に四度、イエスという呼び方をしています。このイエスという言葉がなぜ、繰り返し用いられるかと言えば、神の子、真の神であるお方が、地上に来てくださったとき、人となってくださったということを強調して表現するためです。人となってくださったということは、イエスもまた、土の器になってくださったということです。

 私たちは、自分のことを土の器と呼ぶときに、このことを弁えているでしょうか?主イエスが土の器になられたことを、考えているでしょうか?自分と、盛られた宝であるイエス様がどんなに違うかと言いたいがために、「土の器」と言っています。

 しかし、本当の宝とは、この方が私たちと同じ土の器になりきってくださったということです。パウロは、自分がやがて、鏡に映し出すように、主と同じ姿に変えられていくという希望を語りました。栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていく、聖化の希望を語りました。

 しかし、なぜ、見もしないその希望を語れたかと言えば、私たちのために土の器になりきって、私たちの兄弟となってくくださったイエス、死すべき者となってくださったクリスマスと十字架のイエスを知っているからではないでしょうか。私たちが主イエスに似た者になっていくというのは、信仰における将来の希望として、やがて、起こることではなくて、実はもう既に、決定的に起きてしまっている。

 しかも、私たちが神の一人子に似ていったのではなくて、神の一人子のほうが、私たちに近づき、同じ者となってくださった。土の器となってくださった。飼い葉桶の誕生から十字架の死に至る、弱く脆い私たちと同じ土の器となってくださった。キリストに似ていくことが聖化であるならば、そこにもう、私たちの聖化は起きていると言うべきであります。

 10節でパウロは、「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています」と言いますが、これは、もっと正確に言えば、イエスが、私たちの死を身にまとってくださったということでしかないと思います。老いていくとき、衰えていくとき、土の器である体の脆さを感じるとき、もう私たちは、キリスト者としても、人間としても、なすべきことが満足にできなくなっていくなどと言う必要はない。この体の痛みと衰えをそのままに、イエスの死を身にまとっていることと、イエスと一つにされている私であると、その土の器の脆さの中で言って良いのです。

 しかも、主イエスが私たちと一つになって衰え、弱り、滅んでくださるので、寂しくないなどというのではありません。この肉の脆さを私たちのために背負ってくださったお方は、これほどまでに私たちと一つ兄弟になってくださったことにより、ご自身の甦りをも私たちの甦りとしてくださるのであります。

 14節に、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」とは、そのような望みを語る言葉です。

 死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるのです。ノックダウンされても、ノックアウトされないのです。私たちが現すのではありません。私たちが奮い立って、信仰者の底力を見せつけるのではありません。7節に、「わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」、神がお働きになるのです。神がこの土の器を用いて、ご自身の偉大な力、全ての人間のための本当の希望を露わにしてくださるのであります。

 

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