礼拝

3月14日(日)礼拝

週報

説  教  題  「教会を信じる?」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ7章2節から4節まで
讃  美  歌    191(54年版)

先週もお話ししましたように、7:2以下は、6:13に繋げると自然に続く文章です。ですから、たとえば、少し変則的にはなりますが、「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。」と語る前回の部分は抜かして、前後で一緒に取り上げても良かった部分です。そういう選択をしている説教者もいます。

 その意味では、前々回の説教で、今日の個所でも問題となっていることは、一応出尽くしていると言っても良いだろうと思います。その問題とは、狭くなっているコリント教会の人々の心をどう開かせるかということです。何に対して心が狭くなってしまっているかと言えば、まずは、パウロに対してです。パウロに対して心を閉ざし、頑なになり、もうパウロからは何も聞かないと思い定めてしまった人が、コリント教会の一部にはいたのです。

 一度、そう決めますと、人の話というのはなかなか耳に入っていかなくなるものだと思います。まだその人の話を聞いたことがないという人の注意を惹きつけ、話を聞いてもらうよりも、一度聞いた上で、反発し、心を閉ざしてしまった人に対して、もう一度、その心を開き聞いてもらうようになることは、どれほど難しいことであるかは、牧師とか学校の先生だけでなく、友人関係においても、親子関係においても、私たちの誰もがわかることではないでしょうか?

 しかも、コリント教会においては、パウロに対して心を頑なにするということは、そのまま福音に対して心を閉ざすことにつながってしまったのであります。もちろん、彼らはパウロの後に来た伝道者たちのメッセージを聞き続けていたわけですから、自分たちが福音の言葉、神の言葉から離れてしまったなどとは、少しも思っていなかったと思います。むしろパウロを乗り越え、より深い福音の真理に達したとさえ思っていたことでしょう。けれども、それは残念ながら、福音からの逸脱でしかありませんでした。その偽りの福音によって、パウロの語る福音に耳を閉ざしてしまったのです。

 なぜ、パウロではなく、異なる福音を語る者に惹かれたかと言えば、その理由は三点あります。第1に、その人達は推薦状を持っていたこと、第2に、その人たちが大使徒を自称していたのに対して、パウロは、自分は使徒と呼ばれる値打ちものない者と言っていたこと、第3に、パウロが手紙では雄弁だけれども実際に会ってみる弱々しくて、話もつまらなく、大使徒と称する人たちの方が、信仰者として生き生きと輝いているように見えたのです。簡単に言えば、見栄えが良く、アピールするところがあったからです。考えてみれば、自分が学生時代に先生を評価する方法も似たようなものであったと思います。先生の経歴はどういうものか?わかりやすく面白い話をするか?そして、生き生きと輝いている先生の方が本物に見えました。しかし、それはその表面上、そう見えているだけです。見かけの上では、偽物の方が本物らしく見えるのいうのは、後に出てくる11:14で、パウロが「サタンでさえ光の天使を装う」と警告する通りです。

 本当に神の言葉を取り次ぐ使命を与えられている説教者には重い責任があることを痛感いたしますが、同時に、聞く側でも、牧師のことを尊敬すべき者とは思えなくても、礼拝で語られる説教に関しては、そこで神がお語りくださると信じて、耳を傾ける必要があると思います。そう信じて牧師を招聘するのです。宗教改革者が牧師を敬うのは、その人が尊敬に値する人物ではなく、我々の謙遜の訓練のためだと言いました。結局、牧師を敬うとは、その説教に真剣に耳を傾けるということ以外ではないと思いますが、考えてみれば、何十歳も、年が若く、信仰生活も、社会生活も、経験の浅い人間から、説教を聞くのですから、これは並大抵のことではありません。もちろん、牧師は、訓練を受けた聖書のプロです。しかし、今は、どんな本でも手に入りますから、何年かじっくり神学書を読み進めて行けば、聖書と神学の知識においても、牧師よりも抜きんでることは、ある人にとっては、そう難しいことではないのです。そうなると、牧師から聴くべきことはもうないのではないか?自宅で、レベルの高いキリスト教書を読んでいれば、それで、信仰は養っていけるのではないか?ということにもなるかもしれません。

 けれども、語るべき者が黙れば、石ころさえ叫びだすという福音であるならば、神がお用いになる限り、どんな牧師からも神は今、私が聴くべき福音をお語りになることがおできになります。その期待を捨ててはいけません。これは私自身が教会学校の説教を聞きながら、いつも経験していることでもあります。たとえば、洗礼を受けて間もない高校生が初めて教会学校の教師になり、説教を語るようになった時、つたない言葉であるかもしれないけれど、そこで語られる福音の言葉に打たれるということは、しばしば起こることです。だから、同じように礼拝における牧師の説教は、知識、経験、信仰、全ての点で自分の方が勝っていたとしても、どんな牧師の説教にも、期待すべきだと思います。私たちの神は石ころを用いてさえ、福音を語ろうとされる方であるからです。

 それゆえ、牧師交代の時期にありがちだと思いますが、説教には期待せず、信徒の交わりに慰めを見出して、教会生活を続けることは、不幸なことだと思います。私たちが説教を神の言葉と信じ、神の霊が説教者に働いて語らせ、また聞き手に働いて聞かせてくださるものだと信じるならば、気に入らない牧師の話にも、耳を傾けるべきだと思います。

 これは少し脱線することですが、では、牧師の説教に対しては、教会は無批判なのかと言えばそうではありません。長老会の主要な務めの一つは、説教を見張ることです。それは批判的に聴くということではありません。神さまの声が聞こえてくると信じて、いつでも聞きます。しかし、一度や二度ではなく、「あれ、どうもおかしいぞ?」ということが何度も何度も続くようであれば、牧師に確認するんです。まずは、教会を混乱させないために、隠れたところで牧師に個人的に問い、言うべきことは言う。それでも、改善しなければ、複数の長老で問い、そして最終的には長老会の議題とするんです。聖書の言葉に照らし合わせて、代々の信仰告白に照らし合わせながら、検証する。その結果、牧師が悔い改めて、福音をもう一度新しく語り直すか、あるいは、長老会自身が悔い改めて、もう一度福音を聞き直すということが起きるのです。

 それができるために、長老会は、教理の学びをしなければなりません。牧師の説教を、自分の好みとか、漠然とした印象ではなく、きちんと神学的に批判できなければなりません。何も最新の神学をいつも追っかけていなければならないのではありません。今まで聞いたことのなかった新しいものが良いわけではないのです。神学的というのは、前もお話ししましたが聖書全体ということです。それゆえ、聖書とその簡便な地図の役割を果たす歴史的な信仰告白の言葉のいくつかに、普段から親しんで、養われていれば良いのです。そもそも、これまで聞いてきた説教自身が、その批判力を養ってくれているはずです。

 こんなことを話し出したのは、安心してください。もちろん、今、教会と牧師の関係が悪くないから、気軽に話せることです。礼拝前後の時間は生き生きとしているのに、説教中は、いつでも眠りこけている人があちらこちらに目立つならば、私は、おそらく、ずっと違った言い方を選ぶかなと思います。

 けれども、この点、パウロという人は大胆です。まさに直球勝負、心を開いてほしい。私の言葉に、私の語る福音に心を開いてほしいと真っ直ぐに語ります。続く2節の後半の言葉は、パウロたちと、コリント教会の間が、いかに不穏なものであったかがわかります。パウロは、「わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした」と言います。私たちの人間関係において、こんな言葉で弁明しなければならない関係というものがあったら、それは正直言って、末期的だと思います。

 このような言葉で弁明しなければならないというのは、裏を返せば、パウロたちに対して、「あなたは教会のある者に対して不義を行い、破滅させ、だまし取った」と、非難する者がいたからに他なりません。この批判は、どの一つをとっても、現代の牧師にとっても致命的なものであります。進退問題に直結するものであります。こんなことをパウロに言ってしまうし、こんな弁明をパウロにさせなければならなかったコリント教会は情けない教会です。

 パウロを通して福音の言葉を聞きながら、きちんとした批判力を養ってこなかったのです。福音の勘所を捉え損ねているのです。偽りの福音を包んでいた、肩書や外面的なことにコロッと惑わされてしまったのです。その結果、パウロに対して心が狭くなってしまいました。

 しかし、パウロの方は閉ざされていませんでした。喜んで語り合う準備がありました。しかし、なかなかスケジュールが合わず、訪れることはできませんでした。だから、代わりに、何通も何通も手紙を書き送り、また、自分の同労者を送り続けました。今日の個所の直後に出てくるテトスという人も、そうやってコリント教会に送られた人でした。どんなに拒否されても、どんなに遠ざけられようとも、コリント教会との関係を絶たず、丁寧に丁寧に、接し続けるパウロです。けれども、その心はどんなだったろうかと想像します。どんなに苦しかっただろうか?どんなに歯がゆかっただろうか?どんなに失望に満たされていただろうか?

 しかし、どうやらこの想像はパウロの心に即していないのです。いや、パウロの心をすべて言い当てているわけではないのです。なぜならば、4節後半に、「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ち溢れています。」というのが、パウロの心だからです。お世辞を言っているのではないと思います。やせ我慢しているのでもありません。そういうことはないでしょう。というのも、直ぐ直前に、「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており」とありますが、これは、元のギリシア語では、大いなる率直さ、大胆さとも訳せるような言葉が用いられているからです。この率直さ、大胆さとは、なんでも話すことのできる自由、ギリシア人たちが、お互いに何でも意見を表明し古代の民主主義を成立させた、なんでも気兼ねなく話せる自由のことです。そういう自由が、伝道者と教会の間にはあるとパウロは確信し、自由に何でも話します。そもそも自由に話せるからこそ、不義を行っている、破滅させている、だましていると非難する者に対して、「わたしたちに心を開いてください」と言えたのだと思います。

 その何でも話し、表明する大いなる率直さにおいてパウロが、慰めに満ちており、喜びに満ち溢れているというのです。しかも、満ち溢れているという言葉には、その頭に英語のハイパーという語の元になる言葉がついています。ただ一語で「溢れる」と表せる言葉の頭にハイパーと付いています。つまり、パウロの心は喜びに、ハイパーに溢れているのです。その規格外の喜びは、コリント教会とはうまくいってなくても、それを補って余りある喜びが別の所にあるというのではありません。別の教会との関係や、別の方面での働きは順調だということが、その喜びを保つ源泉ではありません。ひたすらコリント教会との関係において、パウロは、この並外れた喜びに満たされています。それゆえ、「わたしはあなたがたに厚い信頼を寄せており、あなたがたについて大いに誇っています。」と言っているのです。

 末期的とも言えるようなコリント教会との関係であり、パウロの伝えた福音からは、大きく外れてきてしまっている教会だけれども、それにもかかわらず、コリント教会はパウロにとって、厚い信頼を寄せることのできる誇らしい教会だというのです。この教会のことを思うと、慰めに満たされ、喜びが満ち溢れてくる、そういう信頼と誇りを覚える。

 なぜでしょうか?なぜ、コリント教会の方では、パウロを信頼していないのに、パウロから神の言葉を聞くということを止めてしまっているのに、パウロの信頼は揺らがないのでしょうか?なぜ、こんなにも教会を信じ続けることができるのでしょうか?

 ここで大切なのは、3節の言葉です。「あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。前にも言ったようにあなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしているのです。」

 「あなたがたはわたしたちの心の中にいる」、そして「わたしたちと生死を共にしている」という印象的な言葉が語られています。伝道者と教会が深い深い一致の中にある。

 「心の中にいる」。先週の所を思い出していただきたいのですが、わたしたちは生ける神の神殿だと言われていました。「私たちの内に」霊なる神が住んでいてくださる。こうパウロが言った時、それは自分たちだけではありません。コリント教会の人々のこともこの「わたしたちは生ける神の神殿」という言葉の内に加えていたのです。あなたがたも生ける神の住んでいる神殿だと言ったのです。

 そのような自分であることを忘れるな、心を大きく開いても、この世と完全に同化し、闇のわざを一緒に行うことはできない、偶像に取り込まれることはできないのだ、あなたがたは、私たちと一緒に神の神殿なのだからと。この神のゆえに、パウロもコリント教会も一つ神の宮とされており、その神の作り出してくださる一致のゆえに、「あなたがたはわたしたちの心の中にいる」と言うことができたのです。

 自分が伝道して生み出された教会だから、自分が導いてきた教会だから、思い入れがあるということとは、別の次元の話です。

 それは、それに続く「わたしたちと生死を共にしている」という言葉によって、いよいよ明らかになっていることです。こんなことは、単なる心の持ちようということであれば、パウロの覚悟としては言えることであっても、「あなたがたは」と、コリント教会の人々を主語にしては言えないことです。パウロにはコリント教会と運命を共にする覚悟があっても、コリント教会は、もうパウロを離れたいのです。生死を共にするつもりなんかはないのです。

 しかし、ある説教者が、この部分を丁寧に原文で読みながら、元の言葉では、ここには「生死を共にしている」とは書いてないと言います。順番は逆で、「わたしたちと共に死に、わたしたちと共に生きる」と書いてあると指摘します。新しい協会共同訳はこの点、きちんと訳し出していまして、「あなたがたは私たちの心の中にいて、共に死に、共に生きるのです。」となっています。わたしたちの普通の感覚からすれば、生きていて、それから死ぬわけですから、生き死に、生死という順番が正しいように思いますが、ここではそれが逆にされています。けれども、聖書というのは、わたしたちキリスト者の命を語る際に、この死んで、生きるという順番を度々語ります。

 もうお気づきのことと思いますが、わたしたちキリスト者の命が、なぜ、「生き死に」ではなく、「死んで生きる」という順番になるかと言えば、わたしたちはキリストの十字架に結ばれて一度死に、それからキリストの復活の新しい命に生かされていると信じるからです。この順番は、パウロが、ローマの信徒への手紙6:8で、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と言った順番です。だから、パウロが、教会に向かって、「あなたがたはわたしたちの心の中にいて、わたしたちと生死を共にしている」と言う時、それは、パウロの教会への愛と思い入れを越えて、父なる神様が、イエス・キリストにおいて作り出してくださった事実、キリストの死と復活に結び合わされた新しい者として私たちを造り変え、この私たち教会を地上におけるキリストの体、聖霊の住まう神殿としてくださった神の業の事実を語っているのです。コリント教会の人々はどんなにパウロに反抗しても、パウロをシャットアウトしても、事実として、キリストの死と命に共に与っている者であり、共に神の神殿を作る者たちなのです。

 それゆえ、この人間には作り出すことのできない、まさに神の神業を見ますと、その御業の生ける証拠そのものであるコリント教会がこの地上に存在しているということを思うだけで、慰められるのです。並外れた喜びを感じずにはおれないのです。それは、コリント教会自身は忘れかけている慰めと喜びです。忘れかけてしまっているからこそ、異なる福音に、自力に向かって歩み出してしまっているのです。

 けれども、たとえ、彼らが、終末の裁きの日には耐え得ない別ものを使徒の伝えた福音の土台の上に据えてしまったとしても、据えられた土台まで撤去されてしまうことはないのです。彼らの存在は、キリストの十字架の死と甦りの出来事の賜物であり、なお、神の宮であり続けます。パウロから離れても、自分は、もう信仰者ではないと思っても。ただ、神の御業のゆえに、神の宮であり続けます。だから、パウロのコリント教会への厚い信頼は、この神への信頼、このキリストへの信頼であります。

 何週か前に私たちは自分のアイデンティティーに、それほどこだわらないという話をしました。それは隣人のアイデンティティー、自己理解についても同じなのです。自分たちは異なる福音に生きる、異なる歩みを始めた者だと、パウロに向かって嘯いたとしても、パウロは自分とコリント教会を、それどころか、この世を根本的に生かしているキリスト・イエスの出来事に信頼いたします。

 見える表面的な所によらず、一番深いところで、私たちを生かしていてくださる神のゆえに、やがて、表面的な部分さえも、その根源に従い一致に至ることを信じ、大胆に、率直に、教会を信頼し、隣人を信頼し、語ることができたのです。その同じ信頼を私たちもまた、牧師との間、長老との間、教会員同士の間で、並外れた慰めと喜びと共に、お互いに持つことが許されているのです。

 

祈ります。

主イエス・キリストの父なる神様、私たちの思いは、風に揺らぐ葦のようなものです。わざわざあなたに反抗しようと企てなくとも、いつの間にか小さなずれが生まれ、その行き着く先は、全くの別方向になることに気づかぬままに歩み、いつの間にか心萎え、いつのまにか、群れから離れそうになります。けれども、あなたは私たちを追いかけて来られる私たちの羊飼い、このあなたのゆえに、私たちは永遠にあなたの羊、神の宮を形作る部分です。御子のゆえに、私たちを取り戻し、既に、私たちを御手の中に置いたゆえに、今も天を満たし続けているどよめくほどのあなたの喜びに、私たちを気付かせ、私たちをして、その天のどよめきの共鳴版としてください。

私たちをご自身の上に固く据えてくださった人間の兄弟、イエス・キリストのお名前によって祈ります。

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