聖書:レビ記19章18節
ルカによる福音書10章25節~37節
説教題:善いサマリア人のたとえ
説教者:松原 望 牧師
聖書
レビ記19章18節
18 復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。
ルカによる福音書10章25~37節
25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」26 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、27 彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」28 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」29 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。30 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。31 ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。32 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。33 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、34 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』36 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」37 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
「 説教 」
序、
主イエスの派遣した弟子たちが、帰ってきて報告(ルカ10:17)しました。それを聞いた主イエスは、弟子たちに「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(10:23~24)と語りました。
一つには、「旧約聖書の時代から続く、全ての人々を救う神の歴史」の頂点、あるいは歴史の転換点と言っても良いかもしれませんが、弟子たちはそういう歴史の目撃者なのだという意味です。そしてもう一つは、神から遣わされた救い主を、弟子たちは直接見ているという意味です。
1、律法の専門家
そのように語っている主イエスに、一人の律法の専門家が立ち上がって質問しました。「立ち上がった」とありますから、ひょっとすると主イエスの多くの弟子たちに交じって話を聞いていたのかもしれません。
律法の専門家というのは、旧約聖書に精通した学者のことです。聖書には「律法学者」という言葉もありますが、同じ意味です。
ルカ福音書では、律法の専門家は主イエスに敵対する存在として出てきます。今日のところでも主イエスの言葉尻を捕らえようとしていたのかもしれません。実際、聖書には「イエスを試そうとした」とあります。
彼の質問は「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるか」という事でした。おそらく他の律法の専門家たちの間でも、この問題に答えることはむつかしいとされていたのでしょう。答えられるはずがないと思い、質問したに違いありません。
すると、主イエスは逆に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう思うか」と質問しました。質問に対して質問で返すというのは、当時よく行われていたことで、特別のことではありません。
律法の専門家は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えました。彼の答えは旧約聖書の申命記とレビ記にある言葉でした。主イエスも「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と答え、これで話は終わるはずでした。しかし、律法の専門家はさらに質問を続けます。
「わたしの隣人とはだれですか」。ルカ福音書は、律法の専門家が自分を正当化しようとして尋ねたとしています。この時、主イエスは律法の専門家を問い詰めてはいません。しかし、それでも、律法の専門家は自分が問い詰められているように感じたのかもしれません。
主イエスは「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない」(マタイ23:2~4)と非難したことがあります。このような非難は一回や二回ではないと思われます。そして、律法の専門家もそのことを知っていたのかもしれません。そのため、「それを実行しなさい。」という言葉を聞いて、正しく答えているだけで、実行していないと非難されていると思い込んで、自分を正当化しようと思ったのかもしれません。それが「わたしの隣人とはだれですか」という質問になって表れたのでしょう。
確かに「隣人」というだけでは曖昧です。自分の親しい人なのか、隣近所に住んでいる人なのか、親戚まで広げるべきか、否、ユダヤ人全体まで広げて考えるべきか、と考えると、「隣人とはだれか」というのは、なかなかの難問です。いくらでも自分に都合の良いようにその範囲を決めることができます。律法の専門家も良い言い訳ができたと考えたことでしょう。
2、「善いサマリア人」のたとえ
「隣人とはだれか」の質問に答えて、主イエスは「善いサマリア人」のたとえを語りました。
話の筋をたどりますと、あるユダヤ人がエルサレムからエリコの町へ行く途中で強盗に襲われたというところから始まります。当時のこの道は、途中、谷間に沿ったところを行かねばなりませんでした。先を見通せないような道です。強盗が身を隠すのに格好なところはいくつもあります。そして、ユダヤ人は強盗に襲われ、瀕死の重傷を負います。しばらくすると、神に仕える祭司、その次に来たのも神に仕える仕事をするレビ人でした。どちらもユダヤ人です。しかし、彼らは怪我をした人を助けようともせず、強盗を恐れたのか、けがをした人から遠ざかるように去っていきました。
その後やって来たのはサマリア人でした。彼は、怪我をした人を見つけるとすぐ助け起こし、手当てをして、ろばに乗せ、宿屋に連れて行きました。デナリオン銀貨2枚を渡し、足りなければ後日また支払うと言い、怪我人を介抱してくれるように頼みました。デナリオン銀貨2枚は当時の家賃だと半月分といわれています。
ここまで話した後、主イエスは律法の専門家に聞きました。「神に仕える祭司、レビ人、そしてサマリア人の三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」
律法の専門家は、しぶしぶ「その人を助けた人です。」と答えました。彼は「サマリア人」だとは言いませんでした。サマリア人という言葉を口にしたくなかったのです。
当時、ユダヤ人とサマリア人の仲はよくありませんでした。ユダヤ人はサマリア人の土地に行こうとはしません。たとえば、ガリラヤ地方からエルサレムに行く人は多いのですが、直線距離で行こうとすれば、サマリア地方を通らねばなりません。ユダヤ人はサマリア地方を避けて、あえて遠回りの道を行きます。サマリア人もユダヤ人の町に行くことはほとんどありません。現代のイスラエルの国とパレスチナ人の関係に似ています。こういうあまり良くない関係にあるので、律法の専門家は「サマリア人」という言葉を口にしたくなかったのです。
このように考えてみますと、サマリア人がユダヤ人を助けるという事はありうるだろうかと疑いたくなります。この話は実際あった話ではなく、主イエスが語られたたとえ話にすぎません。ですから、そんなことはあり得ないと無視することもできるでしょう。
3、「隣人を愛しなさい」と「敵を愛しなさい」
主イエスが「善いサマリア人」のたとえを語ったのは、「だれが私の隣人か」と問われたことへ答えです。「隣人を愛する」というのは、隣人と認めなければその人を愛さなくても良いということではありません。主イエスはそのことを教えるために、あえて、極端な話をされたのです。ユダヤ人とサマリア人は決して仲が良いわけではないことは、先ほどお話しした通りです。むしろ、お互い避けたい思いを持っていると思います。そういう関係にあることを前提に、主イエスは「愛する」というのは、相手が誰であるかを見定めて行うものではないと、言いたかったのです。「たとえ、ふだん交流がなくても、仲が悪くても、相手が困っているとき、見過ごしにするのではなく、助けてあげなさい」と言いたいのです。
主イエスは、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と教えられたことがあります。「善いサマリア人」のたとえを用いて、「神が私たちに求めておられる愛を実践しなさい」と教えておられるのです。
4、神の愛
主イエスは十字架にかけられた時、十字架にかけた人々のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と執り成しの祈りをされました。それは、私たちのための祈りでもあるのです。
使徒パウロも「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5:8~10)と語っています。
私たちは神の敵であったにもかかわらず、神に愛され、救われたのです。サマリア人に救われたユダヤ人のように。そして、私たちに語りかけています。「私があなたを愛したように、あなたも隣人を愛しなさい」、「敵を愛しなさい」と。
これはなかなか難しいことです。主イエスも、私たちにとってこのことが難しいことをよくご存じです。しかし、神はその私たちに隣人を愛し、敵を愛する心と力を与えてくださいます。「主よ、この私に愛する心と力を与えてください」と祈ることから始めることが大切です。
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