礼拝

9月22日(日)主日礼拝

聖 書  サムエル記下7章5節~17節
     マルコによる福音書12章35節~37節
説教題  ダビデ契約
説教者  松原 望 牧師

聖書

サムエル記下7517

5 「わたしの僕ダビデのもとに行って告げよ。主はこう言われる。あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか。6 わたしはイスラエルの子らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、家に住まず、天幕、すなわち幕屋を住みかとして歩んできた。7 わたしはイスラエルの子らと常に共に歩んできたが、その間、わたしの民イスラエルを牧するようにと命じたイスラエルの部族の一つにでも、なぜわたしのためにレバノン杉の家を建てないのか、と言ったことがあろうか。

8 わたしの僕ダビデに告げよ。万軍の主はこう言われる。わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした。9 あなたがどこに行こうとも、わたしは共にいて、あなたの行く手から敵をことごとく断ち、地上の大いなる者に並ぶ名声を与えよう。10 わたしの民イスラエルには一つの所を定め、彼らをそこに植え付ける。民はそこに住み着いて、もはや、おののくことはなく、昔のように不正を行う者に圧迫されることもない。11 わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す。12 あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。13 この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える。14 わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。彼が過ちを犯すときは、人間の杖、人の子らの鞭をもって彼を懲らしめよう。15 わたしは慈しみを彼から取り去りはしない。あなたの前から退けたサウルから慈しみを取り去ったが、そのようなことはしない。16 あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手にとこしえに続き、あなたの王座はとこしえに堅く据えられる。」17 ナタンはこれらの言葉をすべてそのまま、この幻のとおりにダビデに告げた。

マルコによる福音書123537

35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。36 ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』37 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。

「 説教 」

 マタイ福音書は「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」という言葉で始まっています。これまでにも話してきたことですが、この系図は単に主イエスの血筋の良さを示しているのではありません。全ての人々を救おうとしている神の計画とその働きを系図という形で示しているのです。その計画は神がアブラハムを選ぶことから始まりましたので、この系図の最初にアブラハムの名前があるわけです。そして、そのアブラハムと並んでダビデの名前があることから、全ての人々を救うという神の計画にダビデという存在がとても重要であることが分かります。

6節の「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあり、この系図において、ダビデが重要人物として位置づけられています。

1、サムエル記下7章までのあらすじ

 2週間前の礼拝では、宗教的指導者であったサムエルに、民衆が自分たちのために王を立ててほしいと要求した場面を見ました。この要求は神に背くものだと不満だったサムエルでしたが、神から人々の要求通り王を立てるように言われ、サウルという人物を王に立て、神がサウルを王にするという儀式、今でいう即位式ですが、香油をサウルの頭に注ぎ、サウルが王であると宣言しました。こうしてサウルはイスラエルの初代の王になったのです。

 しばらくは、サウルは期待通りの働きをしましたが、戦いを急ぐあまり、サムエルと仲たがいをしてしまいます。サムエルは、サウルの行為は神に従順ではないと判断し、サウルから身を引きました。そして、神に伺いを立て、サウルとは別の王を立てることにしたのです。しかし、これが公になると、サウルに殺される心配がありましたので、ひそかにダビデに香油を注ぎ、イスラエルの民の王に任じました。これは密かに行われましたので、人々の前で正式の王となるのはずっと後のことになります。

 ダビデが香油を注がれた時は、まだ未成年で、兄たちが兵士としてサウルに従っていた時は、羊の番をしているような状況でした。その時、ダビデは竪琴を奏でるのに秀でて、サウルのために竪琴を奏でる奏者として、仕えることになりました。

 まもなく、イスラエルの西側を支配していたペリシテ人との戦いが始まり、大男ゴリアテがペリシテ軍の代表として、一騎討の戦いを挑んできました。イスラエルからは誰も受けて立とうとする者がいない中、まだ少年であったダビデがゴリアテと戦うことになり、勝利を得ました。

 それ以降、ダビデは戦いに出ることが多くなり、そのたびごとに勝利し、人々から称賛されるようになりました。しかし、サウル王は、人々から称賛されるダビデをねたみ、命を狙うようになりました。それを知って、ダビデはサウルのもとを離れ、流浪の旅を続けます。その中で、ダビデに従う人々が集まり始め、ダビデ個人の小さな軍隊ができました。

 その後もダビデはサウルから命を狙われ続け、サウルから身を隠す日々が続きました。時には、サウルを殺すチャンスがありました。ダビデの家来たちは、「今こそサウルを殺すべきだ。神がダビデにサウルを引き渡したに違いない」と言いましたが、ダビデは、神が油注いだ人を殺してはならないと答え、サウルを手にかけることはしませんでした。

 やがて、サウルはペリシテ人との戦いで戦死し、その報告を聞いたダビデはユダ族の町ヘブロンへ行き、ユダの人々から香油を注がれ、ユダ族の王になりました。

 サウルの息子がサウルの後継者として、北のイスラエル諸部族の王になり、ダビデと戦うことになりましたが、やがて、部下に裏切られ、殺害されてしまいます。

 指導者を失った北のイスラエル諸部族は、ヘブロンのダビデのもとに行き、自分たちの王になってほしいと願い、ダビデもこれを了承しました。イスラエル諸部族の長老たちはダビデと契約を結び、香油を注ぎ、イスラエル諸部族の王としました。こうして、ユダ族とイスラエル諸部族を統一する王が誕生したのです。

 この後、ダビデはユダ族とイスラエル諸部族の中間にあるエルサレムを攻略し、どの部族にも属さないダビデ個人の町としました。これにより、エルサレムは「ダビデの町」と呼ばれるようになりました。

 その後、ダビデは神の箱をエルサレムに運び、臨在の幕屋の中に安置しました。こうして、エルサレムはイスラエル全体の政治的中心地であるとともに、宗教的中心地にもなりました。ただ、この時は神殿が造られておらず、神の箱は臨在の幕屋に置かれたままでした。そこで、ダビデは神のために神殿建設を計画します。そのダビデの思いに対する神の答えが今日のサムエル記下7章になります。

2、ダビデ契約

 サムエル記下7章は、ダビデ契約と呼ばれている場面です。

 ダビデが神殿を造りたいと申し出たのに対し、神は、その必要はないと答えました。ダビデの子孫が神殿を建てることになると告げました。この時はまだソロモンが生まれる前でしたので、ダビデの息子の名前は出てこないわけです。

 神はその時、「神がダビデのために家を興す」と宣言されました。これが「ダビデ契約」の中核と言えます。「契約」と言いましたけれども、「約束」と言ったほうが良いかもしれません。対等の立場からではなく、神からの一方的な約束であり、宣言だからです。

 このダビデ契約が後のユダヤ人のよりどころ、希望となっていったのです。

3、理想化されていくダビデ

 ダビデは聖書の中で非常に信仰深い人として描かれています。失敗がなかったわけではありません。人間として弱点もあります。サムエル記と列王記は、ダビデのその弱さもしっかりと描いています。

蛇足ですが、この点、列王記の後にある歴代誌という書物はダビデを理想化するだけで、彼の失敗については語ろうとしていません。列王記と歴代誌の目的の違いがあるからです。

 列王記はダビデの信仰深さを語りますが、理想化しようとはしていません。その中に彼の失敗をしっかり描いているのです。

4、ダビデの失敗

 ダビデの失敗をいくつか挙げることができますが、今ここでは、ダビデの家来ウリヤとその妻バト・シェバをあげるだけで充分でしょう。

 今日の礼拝説教の最初で触れたマタイ福音書の冒頭の主イエスの系図にも「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけた」とあります。

 この言葉は、ソロモンがダビデから生まれたというだけでなく、「ウリヤの妻によって」という言葉が付けられて、ダビデの犯した罪にも触れているわけです。先ほど、歴代誌の話をしましたが、歴代誌にはこのウリヤとその妻のことは出てきません。ダビデの罪には触れようとしていないのです。

 列王記によれば、ダビデは自分の家来であったウリヤの妻を妊娠させます。それを隠すために、ウリヤを激しい戦いの中に送り戦死させます。神は預言者を遣わし、ダビデの罪を攻め立てます。罪を指摘されたダビデは自分の罪を告白し、神はその罪を赦します。ただ、その時のバト・シェバとの間に生まれた子どもは病で亡くなりました。

 ダビデは、その生涯の中で失敗を何度か犯しました。列王記は、ダビデを理想化しているように見えるかもしれませんが、失敗しない理想的な人間としては描いていません。失敗する人間、弱さをもった人間として描いています。しかし、列王記が強調したいのは、失敗した時のダビデの態度です。彼は言い逃れをしようとしません。素直に自分の罪を認め、神に赦しを請います。そして、神はダビデの罪を赦すのです。

 ここに先ほどの「ダビデの理想化」とは別の理想化が描かれています。完全無欠の人間ではなく、弱さ、人生の破れをもった一人の人間が描かれ、それと同時に、自分の罪を素直に認め悔い改める人間、そして、神の御心を第一にしていく人間として、描かれているのです。

5、ダビデを選びは、ダビデ個人の人柄に期待しているのではなく、神のすべてを救う神の計画による

 しかし、ダビデがキリストの祖先に加えられているのは、ダビデ個人の人柄に期待しているのではありません。神がダビデの子孫としてメシアを遣わすという計画によるのです。

 ダビデ契約の中で、「ダビデの子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえに堅く据える」というのは、もともとメシアのことを言っているわけではありませんが、ダビデの子孫からメシアが現れることを告げる予告にもなっているのです。そのため、後のユダヤ人たちはメシアのことを「ダビデの子」と呼ぶようになったのです。

6、「ダビデの子」という言葉で期待されるメシア

 ダビデの時代から数百年が過ぎていく中で、イスラエルの民には、いろいろの苦難が起こりました。その中で、メシアが遣わされるとか、そのメシアはダビデの子孫から現れると言われるようになりました。そのこと自体は、確かに神の計画にありましたので間違いはないのですが、「ダビデの子」という呼び方から、ダビデのように王国を建設する英雄的な王を期待するようになりました。また「ダビデの子」という言い方から、メシアはダビデの子孫だから、単なる人間として理解されるようにもなったのです。

7、主イエスの教え

 主イエスは、人々の誤った期待を正そうとします。メシアはダビデの子孫から現れるが、神から特別に遣わされた存在で、ダビデもメシアを「わが主」と呼んでいるほどだというのです。

 人々のメシアに対する誤った期待は他にも多くあります。主イエスはその一つ一つを正していかれるのです。なによりも、新しい王国を建設する王ではなく、全ての人々の罪を贖う存在としてのメシアを示し、それがこの私だと宣言しているのです。

 神の独り子である主イエス・キリストは地上の王国を建設するためではなく、罪と死の支配から人々を解放し永遠の命に生きるようにと支配してくださるのです。その永遠の命に、私たちは招かれ、その永遠の命にしっかりと結ばれているのです。

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