礼拝

2月25日(日)主日礼拝

週 報

聖 書 ルカによる福音書10章25節~37節

説教題 憐み深いキリストによって

讃美歌 161,297,478,26

先週、ヨハネによる福音書を読み終えました。なお、私が説くことを許された4回の日曜日に、どの聖書箇所を聴けば良いかと、考え続けてきました。3/31のイースターの箇所は、比較的簡単に決めることができました。

そうすると、あと三回、ますますどの聖書箇所を説くか悩みました。色々考えた末、ルカによる福音書に記された主イエスの印象深いいくつかのたとえ話を説くことにいたしました。この教会でルカを説くことはそれほど多くありませんでした。また、やはり、最後は、福音書の主イエスの御言葉を皆さんと共に聴きたいと思ったからです。ルカによる福音書には、ルカだけが記録した主イエスのたとえ話がいくつかあります。そういうルカ独特のたとえ話を三回分、選んでみました。

どれも有名な物語です。今日の箇所もまた、忘れがたい物語です。これは、ただキリスト教会に知られるだけでないでしょう。世間にも、私たちキリスト教会の最も善きものを語る物語の一つとして、知られているものではないかと思います。すなわち、本当の隣人愛を教えてくれる主イエスのたとえ話として、よく知られたものだと思います。

「善いサマリア人」のたとえ話として知られるこの物語は、主イエスに対する律法学者の一つの問いによって語られることになりました。この律法の専門家、つまり、聖書のプロが、主を試そうとして、こう尋ねたと言います。

「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

どうしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るか?という質問は、現代の私たちにとっては、少し距離を感じる質問と思うかもしれません。時代の差だけでなく、問うている人が、宗教家であるから、距離を感じるのかもしれません。それならば、まずはこう言い換えても良いかもしれません。どうしたら、空しくなく生きることができるか?どうしたら、手応えのある人生を歩むことができるか?

ここでは聖書の神を信じる律法の専門家が、自分に慣れ親しんだ言葉遣いで問うています。神が永遠の命をくださるほどに、神が喜んでくださる人間の生活とは、どういうものであるのか?と、問うているのです。言い換えれば、何が本当に正しい生き方か?人間として、本当に正しい歩みとはどういうものであるのか?

時代と地域を隔てたところに生きている私たちではありますが、聖書の神を信じる信仰の有無に関わらず、完全に無関係な問いではないと思います。そして、イエス・キリストというお方が、何が人間として正しい生き方かとお答えになるか?これもまた、信仰の有無に関わらず、人の興味を引くことではないかと思います。

しかし、主イエス・キリストというお方の答えは、決して斬新なものではありませんでした。このお方は、問う者自身に「律法には何と書いてあるか」と、問い直されました。そして、彼が、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えると、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命を得られる。」と応じられました。

つまり、主イエスは、問う人自身が既によく知っている答えを肯定しただけでした。もしも、その律法学者の答えに付け加えたことがあったとしたら、「それを実行しなさい」と、知識ではなく、実践に移すようにと、勧めたことです。しかし、これもまた、やはり、特別なつけ足しとは言えないと思います。こんなことは、主でなくても、誰もが知っていることです。子どもでも知っていることだと言わなければなりません。

人間としての正しい生き方を、あなたは既に知っているだろう?あなたはちゃんと知っている。ならば、それを実行するだけだ。そうすれば、永遠の命が与えられる。あなたは、空しくない人生を歩める。

ところが、律法の専門家は、自分を正当化しようとして、問いを重ねます。

「では、わたしの隣人とは誰ですか?」

なぜ、この人は、自分を正当化しようとしなければならなくなったのか?それは、主イエスの御言葉が刺さってしまったからです。自分は安全なところから、むしろ、主イエスを試し、判断してやろうという気持ちから、問うていたはずなのに、なぜだか、自分が問われている者であることに、気付いてしまったからです。しかも、単なる一人の聖書の教師の一つの解釈を聴いたと言うのではありません。主の言葉が、この自分に向けられた生ける神の言葉として刺さってしまったのです。だからこそ、自分を正当化しなければならなくなりました。

「では、わたしの隣人とは誰ですか?」と自分を弁護しなければならなくなりました。もちろん、このような言葉は、生ける主イエスの御前に屈服している者の言葉ではありません。なお、反抗している者の言葉ではあります。それにも関わらず、御言葉の矢が刺さってしまった者の言葉だと私は思います。主イエスその人に、ぶち当たってしまった者の言葉です。そして、そこから必死で逃げようとしている。その矢を逸らそうと、もがいている人の言葉です。しかし、逃れることはできません。主イエスの御前から逃げられません。

「では、わたしの隣人とは誰ですか?」と、主に重ねて問う他ありません。

聖書とは不思議な書物です。その書に問うているつもりが、いつの間にか、自分が問われる者へと立ち位置が入れ代わっているのです。安全なところから、神の言葉を読み、観察しているつもりが、いつの間にか自分が巻き込まれ、まな板の上に載せられてしまうのです。ここで律法の専門家と主イエスの間に起こっていることと同じことが、聖書を読む私たちと主イエスとの間にも起こってしまうのです。また、そうでなければ、それは少しも聖書を読んだことにはならないと私は思います。

けれども、その言葉は刺さらずにはおれません。なぜならば、この人に身を向けておられるように、主が私たちにその身を向けておられるからです。それは神秘体験が起こると言うのではありません。ただ、言葉が通じるということが起こるのです。ここで、主イエスがお語りになった言葉は、まさに、私自身の心の動きが語られていると実感するということです。

実際に、私たちにもよくわかるのではないでしょうか?律法の専門家の自分を正当化しようという言葉が、よく分かる。心から共感できる。そうではないでしょうか?隣人を愛することが正しい生き方だということは、律法の専門家でなくても知っているのです。子どもでも知っているのです。しかしまた、その正しい生き方が、わたしと私以外の他者の関係において、無制限に適用されるなら、それはキリがないとも思っているのです。それが無制限に適用されるならば、私はすぐにすり減って、自分はなくなってしまうとも思っているのです。だから、隣人に制限を設けたい。わたしが愛すべき愛の対象を絞りたいのです。この人だけ、あるいはこの範囲だけの人があなたの隣人愛の対象ですと、区切ってもらいたいのです。なるべく、狭く絞ってもらいたい。小さく区切ってもらいたい。そうでなければ、小さな私は、すぐに擦り切れてしまうのです。空っぽになってしまうのです。永遠の命どころか、無制限な広がりを持つ隣人への愛は、私たちの日常生活を破綻させてしまうように思えるのです。

このことに共感できるならば、私たちにも御言葉の矢は刺さっているのです。私たちも「では、わたしの隣人とは誰ですか?」と語っているのです。そしてまた、その居心地の悪さを解消するために、自分が今している、これまでしてきた慈善、親切を数え始めて安心しようとするならば、そこでも、やはり、この律法の専門家がしようとした自己正当化が、このわたしにも起きているのです。これが、神の言葉を生ける神の言葉として聴くことです。少しも難しいことではありません。それは、自ら、届いて来るのです。

私たちは今日も、既に、主イエスの生ける言葉に巻き込まれています。だから、主のたとえ話をもう一度、細かく振り返ることはいたしません。一度聞けば忘れがたい物語です。

少しだけ背景を解説するならば、道端で強盗に襲われ、半殺しの目に遭った人の隣人になった人はサマリア人であったと語られます。強盗に襲われた人は、ユダヤ人であることが前提されていると思います。ユダヤ人とサマリア人、元は、イスラエル12部族のルーツを同じくする者たちです。けれども、サマリア人の方は、ユダヤ人よりも先に滅ぼされた北の10部族に属する人たちでした。そして、彼らを滅ぼしたアッシリアという国の政策によって、周辺諸民族との婚姻が進み、ユダヤ人にしてみれば、純粋性を失った存在でした。なまじルーツを同じにしているだけ、サマリア人の姿は本来のありかたから落ちてしまった自分たちの姿を見せつけられているようで、嫌悪の対象でした。もちろん、それは、お互いがお互いを嫌悪していたのです。この嫌悪は、宗教的なものでさえありました。

旧約のエズラ記4章、ネヘミヤ記3章を読むと、サマリア人は、異民族の血が混じったという理由で、第二神殿の建築から締め出され、また、その報復として、サマリア人も主の神殿建築の妨害をするという関係性になっていることが窺えます。そこには、純潔の者を喜び、混血した者を忌み嫌う信仰的信念がありました。

だから、もしも、安心してこの人は隣人ではないという人がいるとすれば、それはユダヤ人にとってはサマリア人であり、サマリア人にとってはユダヤ人であったと言えるかもしれません。しかし、強盗に襲われ、死にかかっているユダヤ人の隣人になったのは、このサマリア人であったというたとえ話を主はなさったのです。

聖書学者は、この主のたとえ話は、当時の人々にとって意外なものであったろうと言います。

祭司が道の反対側に行って、この人を見殺しにしてしまった。レビ人も同じように、この人を見ると道の反対側に行って通り過ぎて行ってしまった。ここまでは、よくわかるたとえ話だったろうと言います。けれども、この半殺しの目に遭ったユダヤ人を助けたのが、サマリア人であったという物語の推移は、意外なものであったろうと言います。なぜならば、このたとえ話で語りかけられているのは、ユダヤ人である律法の専門家であったからです。

サマリア人と自分を簡単に重ね合わせることはできない。もしも、隣人を最初から限定しようというのは間違っている、困っている敵でさえ、あなたの隣人であると、主がお語りになりたいのであれば、ここで倒れていたのは、サマリア人であったという方が、もしかしたら都合が良かったかもしれません。あるいは、三人目に訪れ助けた旅人が、サマリア人ではなく、ユダヤ人であったというだけでも、シンプルでわかりやすかったかもしれません。

律法を知っているかどうかは関係ない。そういう神の戒めをよく知っている宗教家よりも、実際に手助けした一般人の方が、本物の隣人愛に生きているのだ。こうした方が、そのメッセージが、よく伝わってくるように思います。そう考えると、主イエスのお語りになったたとえ話の登場人物の設定は、何だかややこしいのです。確かにこのサマリア人こそ、強盗に襲われたユダヤ人の隣人となってくれたのです。

けれども、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われると、また、別の問いが湧いてくるような気さえするのです。主よ、わたしはサマリア人ではありません。主よ、わたしは異邦人ではありませんと。

これは主イエスのたとえ話に対して、揚げ足取りのくだらない問いであると言えるかもしれません。ここで主が仰っていることは、明白だと言えるでしょう。けれども、私たち人間の自己正当化の言い訳は、そもそも、いつだって、そんな揚げ足取りに、必死にしがみつくようなことではないかと思うのです。

しかし、私たちは、主のたとえ話がわかりづらいと、揚げ足取りの自分の言い訳の袋小路に留まり続けることもできません。そこでも、さらに主の矢はもう一段、深く私たちに刺さって行くものだと思います。

多くの説教者たちが指摘するのは、この主のたとえ話と、続く38節以下のマルタとマリアの出来事の繋がりです。これは、ある意味、今日お読みしているたとえ話とは、真逆の話をしているとも言えるような個所です。

主イエスとその周りに集まった人をもてなすために忙しく立ち働く姉マルタがいます。その姉の働きを手伝うことをせず、主イエスの足元で、主イエスの話に聞き入る妹マリアの姿がそこにはあります。マルタは、いろいろなもてなしのために立ち働きますが、とうとう限界を迎えて言います。

「主よ、わたしの妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。」

襲われ死にかけている人に、緊急の愛の奉仕をしているわけではありません。しかし、必要な愛の奉仕です。妹は、強盗に襲われた人を見殺しにしているわけではありません。けれども、あなたの元に集まる人のもてなしもせず、また、私の苦労も顧みず、御言葉に聞き入っていますが、何とも思いになりませんか?

たとえ話の状況設定に比べたら、のんびりとした状況かもしれません。しかし、重なってくるものがあります。しかも、この度は、次のように主は仰るのです。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

私はここに、今日お読みした主イエスと律法の専門家の対話の、直接の続きがあるように思えてなりません。「行って、あなたも同じようにしなさい」という言葉を聴いた、一人の人の具体的な生活と、挫折がここにあるように思えるのです。

ただ神の言葉を聴いているだけじゃだめだ。それを知っているだけじゃだめだ。それを実際に生きなければならない。隣人愛に生きなければならない。それがマルタにとっては、主イエスの周りに集まってきた人たちをもてなすということであったろうと思うのです。敵の命を助けるなどという大それたことではないけれど、主イエスの周りに集まって来た嫌われ者の罪人、取税人をもてなす実践に、主がたとえ話で教えて下さった隣人愛の小さな機会を見たのではないかと思うのです。そうではないでしょうか?

ところが、やりきれないのです。情けないことに、イライラしてくるのです。でも、マルタの気持ち、よくわかる。自分のことのようによくわかるのではないでしょうか?主の喜ばれる隣人愛に生きようとして、頑張って、でも疲れて、心がいっぱいになって、人を責め始めて、、、。多分、マルタは、イライラを爆発させた後に、主の言葉を聴いて、頭が冷えて、もしかしたら自己嫌悪に陥ったのではないと想像します。

これは言うべきじゃなかった。そしてそれ以上に、自分が隣人愛に生き切れない、小さな、貧しい、嫌な人間だって。自分の愛のなさに、信仰のなさにショックを受けて、落ち込んで、、、私達自身の姿があるのではないでしょうか。けれども、私は、ここでこそ、御言葉なしにではなく、主の生ける御言葉が、刺さっていく道のりの続きがあるのだと思っています。御言葉なしにマルタは挫折しているのではありません。いいえ、愛に挫折してなお、御言葉と共に、主の御前で、起こる出来事の中に、彼女は置かれているのです。

ここに愛に躓いた者がいます。自分の貧しさに絶望し、倒れてしまった者がいます。善きサマリア人であろうとして、やりきれなかった人、結局、イライラを爆発させてしまう人、愛を必要としている者の横を通り過ぎてしまう祭司、レビ人と変わらない自分であることに目が開かれ、しゃがみこんでしまった人、倒れてしまう人、、、。しかし、なお、主イエスの御言葉の中に、そのたとえ話の中に自分の姿を見つけることが許されている人。

そうです。挫折してもマルタは、やっぱり、このたとえ話の外にはいないのです。なぜならば、倒れて死にかけているこの人の元に、憐れに思って駆け寄る者がいると主はお語りになったからです。

カトリックの神父であり、聖書学者である雨宮慧という方は、はっきりとこう言います。このたとえ話が語る憐れに思って駆け寄ってくるサマリア人とは、主イエスのことであり、瀕死の重傷を負って倒れている者とは、私たちのことであると。しかも、これはこのたとえ話を読む時の古い伝統を持つ教会の読み方であると言います。これはカトリック、プロテスタントを越えて、私たち教会の基本となる聖書の聴き方なのです。聖書自身がそのように読むことを求めています。

なぜならば、33-34節に記されました「憐れに思い、近寄って」というサマリア人の心の動きを語る言葉は、実は、聖書中、神に対して、主イエスに対してだけ用いられる言葉だからです。それゆえ、それ以降の教会の伝統においては、いよいよこの言葉は、主に対してのみ使われる言葉となって行ったのです。よく知られたことですが、この「憐れみ」というのは、「腸」という意味が元になっている言葉です。憐れに思うというのは、単なる同情、共感、シンパシーを越えて、お腹が痛くなってしまうほどの激しい心の動きを言います。その隣人の状況を見て、度を越えて共感が起こり、胃けいれんを起こすような、あるいは不整脈を起こすような激しい反応のことを言います。

だから、このたとえ話は、「善いサマリア人」のたとえ話と言うよりも、「憐れみ深いサマリア人」とするべきだという人もいます。つまり、善きこと、為すべきこと、道徳を教えようとする話なんかじゃない。しなければならないことをする人ではなくて、いてもたってもいられなくなって、駆け寄る人の話なんだと。

「行って、あなたも同じようにしなさい。」と主は言われます。

しかし、そのような自然な憐みの発露は、ただただ主なる神さま、あるいは主イエスだけがお感じになる激しい憐みなのです。けれどもまた、その憐みは、私たちと無関係ではありません。実に、この愛に挫折して、倒れ込んでいる私たちに注がれているイエス・キリストの憐みです。このお方の十字架に極まる私たちを目指して注がれます。

私は、初めの方で、主イエスがお語りになったのは、何も斬新なことではない。当たり前のことだと申しました。律法の専門家ならばよく弁えていたこと、ユダヤ人であれば子供だって知っていたこと、信仰の有無に限らず、一度でも聞くならば、それはそうだとしか言いようのないことを主はお語りになったのだと申しました。けれども、その当たり前のことは、また、当たり前のことではありませんでした。

今日の箇所の直前の23節以下にこうあります。

それから、イエスは弟子たちの方を振り向いて、彼らにだけ言われた。「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

主イエスは仰いました。このような憐みが、ここにある。現にここにある。出来事になっている。ここに、あなたがたへの激しい憐みに突き動かされているわたしがいる。何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか?どうしたら、空しくなく生きることができるか?このわたしの激しい憐みのゆえに、あなたがたの名は既に天に書き記されている。喜びなさい。喜べ。喜んでほしい。

どうしたら、手応えのある人生を歩むことができるか?どうしたらこの貧しい者が愛に生きることができるでしょうか?この憐れみを喜ぶことの中でこそ、私たちは、生き返ることができます。「行って、あなたも同じようにしなさい。」それは、ただ困っている人を隣人として、具体的な愛の業をすることに留まりません。それでは全然足りません。お腹が痛くなっちゃう憐みに突き動かされて自然と行ってしまう隣人愛でなければなりません。だとしたら、それは、そもそも永遠の命の報酬を期待して、行うようなものではありません。それを突き抜けたところに、生まれるものです。

それは突き抜け生まれます。倒れている私たちの元に主イエスが近寄って来られます。私たちの隣人となってくださいます。そして、私たちの名をその憐みによって、神の手のひらに、命の書に、刻み付けてくださいます。このお方の憐みを受けるゆえに、小さな愛の一歩へと、貧しい私たちの背中は押されるのです。

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