礼拝

5月10日礼拝

今週の週報

5月10日午前10時30分より礼拝音声を配信します。
場所は離れていても共に主を讃美し礼拝しましょう。
讃美歌は旧讃美歌529番です。

 
「私たちはキリストのもの」Ⅰペトロ2章9節
 イースターの礼拝から、皆が会堂に集って礼拝することができなくなり、1ヶ月が経ちました。その間、電話やメールで連絡して、お声を聞いたり、あるいは、教会に用事があって直接お会いできた方もいましたけれども、個別にお会いすることがとても、多くなりました。そのように連絡できる方とは、お互いの思いを知り合うことができますが、全員と同じようにはいきません。そうなると、やはり、日曜日に礼拝で顔を合わせることに勝ることはないとひしひしと思わされています。
 
 それは、私だけの思いではなくて、この教会に連なる全員の思いでもあると感じています。実際にそういう声も届いています。キリストに繋がるお互いが顔を合わせて、キリストの体としての自分の全身を確認して帰ることは、何よりも安心することであると思います。
 
 1日も早く、会堂でいつもの仲間と礼拝したいという思いですけれども、しかし、現実に家で過ごすということが推奨される環境にあり、それは、あたかも感染症に生活を支配されるかのようです。人が行き来を自由にすることが日常と思っていたところから一変したことは、何か得体の知れない力に動かされているという恐れを感じるのです。
 
そういう不安の中で、人と人の関係が冷めてくるということも実際起こっています。自粛していない人やお店などを見つけては、匿名で張り紙を貼ったり、相手を名指ししながらインターネット上で批判するなんていうことも起こっています。人の心にある貧しさを感じないわけにはいかない出来事があちらこちらで起こっています。私たちはそういう中で、キリスト者として、この世界に、この状況に置かれている意味を改めて問うことが、今求められていると思います。
 
 本日聞きます、ハイデルべク信仰問答の問の32・33は、そのような私たちに、キリスト者とはどのような者であるのかを語りかけてくれます。問32はこう問います。「何故あなたは、キリスト者ととなえられるのですか。」答「それは、わたしが、信仰によって、キリストのからだのえだとなり、したがって、そのそそがれた油にあずかって、わたしもまた、み名を告白するようになり、自分を、生きた感謝の犠牲として、主にささげ、この世にあっては、自由な良心をもって、罪と悪魔とに対して戦い、かの世においては、永遠に主とともに、すべての被造物を支配するように、なるからです。」
 
 私が前回説教したとき、使徒信条の御子イエス・キリストについて、それも、そのお名前について私たちに与えられている恵みに聞きました。その中で、キリストのお働きの3つの側面、神様の言葉を告げる預言者・それから、人々の執り成しをする祭司、そして、世界を治める王という役割があることに短く触れました。ちょうど、問31です。そして、本日はその問31を受けて続くところになります。
 
この、ハイデルベルクの問32は、問31でキリストが私たちにしてくださっている3つの働きは、キリストだけがなさることに留まらず、キリストによって神の子とされた、私たちにも受け継ぐようにとされた働きであることを明らかにしています。ですから、キリスト者は、神の言葉を告げる預言者であり、隣人の執り成し手である祭司となり、神の国の王子王女とされたものだということができると思います。
 
 私たちは、神様の言葉を伝える者として生きること、そして、神の国の王子王女という言い方はなじまないかもしれませんが、神の子とされているものそれがキリスト者であるといことにはとても馴染みがあるものだと思います。教会の中で、お互いの会話の中にもしばしば登場します。
 
 けれども、祭司としてのキリスト者と言われると、あまりピンと来ないところがあるのではないでしょうか。
 
 プロテスタント教会の始まりを導いたルターは、教会の改革の柱として3つのことを掲げました。1つは「聖書のみ」、そして、二つ目は「信仰のみ」そして、3つ目が「万人祭司」です。
 
すべてのキリスト者は、祭司として召されている。それは、まさに今日与えられたⅠペトロ2章9節のみ言葉に根拠をもって語られたことです。しかし、このことは、ルターの改革以来、プロテスタント教会の500年の課題と言われています。
 
こういう言い方をすると、どこか遠い所での神学議論をしているように思えるかもしれませんけれども、ルターが、皆さんを指さして、「あなたは祭司なのですよ」と言われていると想像してみてください。わたしに問われていることです。そう考えると、いったい何を求められているのかと戸惑うのです。
 
 先ほどもお話しましたが、いつもの仲間で集まっての礼拝をすることが1ヶ月できなくなっています。
教会はキリストの体と呼ばれ、集う一人一人はキリストの体の大切な一部として存在しています。自分の体を見てもわかることですが、例えば手が手の働きをするときに、体から切り離されて働けることは決してありません。あらゆる他の部分と連携しながら相互に作用しあって初めて意味のあることができます。
 
そのことを思うと、キリストの働きを担うように託された私たちが、お互いを確認しながら、顔と顔を合わせながら、キリストに委ねられた働きをスムーズに進めていくには、どうしたって、集まらなければならないのです。そのために、教会は、集まって礼拝することを続けています。
 
しかし、今回のように伝染病が流行った場合や、その他、病気になったり、家族の世話のためにどうしても体を礼拝堂に運ぶことのできなくなることが起こります。
 
そうすると、教会から切り離されたような思いに陥ることがあると思うのです。キリストに繋がり、その働きに召されているお互いであり、必要なお互いであることを確かめあうことが困難な時は、歴史の中でこれまでも起こってきましたし、個々人のそれぞれのライフステージにおいて病気やケガや出産や歳を重ねることによっておきてきました。
 
けれども、そのような危機がこれまであったにも関わらず、今、ここに教会があり、礼拝が続けられているのは、途切れることなく教会がこの世に存在し続けてきたからです。キリスト者がどんな時も途絶えることなくキリスト者として生きる生き方を貫いてきたからだとも言えます。それは、具体的には、共に集えない仲間のために、それぞれの場での小さな礼拝で、祈り、礼拝を献げられない友の代わりに礼拝を続けたからであると思います。つまり、祭司としてキリスト者が生きてきたから、教会は姿を消すことはなかったのです。
 
そのようなことを思いながら、私は、今と同じように、伝染病が流行する中で、先輩の信仰者は何を考えていたのかと1冊の本を手に取りました。それは、先ほども話ました、教会改革を行ったルターの「慰めと励ましの手紙」を集めた本です。まだ読み途中なのですが、そこには、ペストと飢饉が大流行したときに、記した手紙のいくつかがおさめられています。
 
私は、この本を手にとって、内容もさることながら、ルターの手紙が遺されていること自体に深い慰めを見出しました。通信手段も、医療も乏しい時代です。しかし、そのような中で、手紙という手段を持って、人々の命を守る、聖書の言葉を説きあかし、慰めと励ましを届けていたのです。万人祭司を説いたルターが、会えない仲間のために、また、隣人のために、自ら祭司としての働きに生きた様子がわかる文章です。
 
この本を読みながら、祭司の働きとは、何か特別な服を着て、動物の犠牲をささげることではなくて、隣人のために、隣人に代わって、神に礼拝をささげ、祈りをささげることなのだと思わされました。そう考えますと、すでに、私たちは、取り得る様々な手段を利用して、仲間と連絡を取り合い、その様子を聞いて、それぞれの場で礼拝と祈りの生活を続けているのです。
 
 私たちが意識しようとも、しまいとも、もう祭司として生き始めています。私たちが神様から受けたものの素晴らしさが私たちを動かすのです。
 
「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へ招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」み言葉は、このような祭司の務めを与えられている私たちは、また、王の系統に入れられているのだと言います。私たちは、洗礼を受けると神の国の王子王女という身分を与えていただきます。万人祭司とは、そういう者なのです。これは、神の国の現実です。
 
私たちを神の国の王子王女としてくださった。驚くべき身分を与えてくださった。暗闇から光へと招いてくださった。その力ある神様の業を伝えるために、私たちは王的な祭司として生きるように召されている。
 
 聖書の時代、祭司の働きとは、人々のかわりに神の近くで犠牲と祈りをささげるということが大切な役割でした。キリスト者となった私たちは今や、神の王子王女として、最も近いところで祈り隣人のために執り成すことができるようにされています。それは、いつ、どんな時でもそうなのです。
 
 ウィルスの勢いにより、教会から切り離されたような痛みや悲しみがあるかもしれません。しかし、私たちは、そこに沈み込むことに召されているのではありません。キリスト者、キリストの者とされた私たちは、教会堂での礼拝に集えなくとも、神様からの使命が失われるわけではないのです。むしろ、このときこそもっとはっきりと執りなす祭司として、神のお側で、隣人のために、神の御顔を仰ぐ王子王女として召されていることがわかってきます。私たちに与えられている使命は、教会の仲間のためということを超えて、広がっていきます。
 
 なぜならば、私たちの先頭に立つイエス様は、永遠の大祭司と呼ばれました。大祭司は、一年に一度だけ犠牲をもって聖所に入り執り成しのために礼拝し祈りをささげる役割がありました。その、イエス・キリストは、人間と神様の間を執り成すために、ご自身を一度きりの最大のささげものとして十字架上で神に自らを捧げられました。それも、誰もそのことを理解できないときに実行されました。ルカによる福音書23章34節の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかわからないでいるのです。」との十字架上の祈りのお言葉は、そのことを表しています。
 
 このように主は、神の御子を十字架にかけてしまうほどの無知にある人間のために、執り成しをしてくださったのです。私たちが知らなかった時に為してくださった主の恵の業によって、私たちは、神の国の王子王女として、神に近づくことが出来る、身に余る幸いを受けています。
 
イエス様の執り成しは、まだ、そのことに気が付いていない、私たちの隣人のためにも用意されているものなのです。これからこの神の国の仲間に加えられるべき人たちがまだまだ私たちの周りにはたくさんいます。たとえ、隣人が、その必要性をみじんも感じていなかったとしても、イエス様はもう、すべてのもののために十字架で命を懸けてくださり、道を開いて待っていていくださいます。
 
だから、私たちも、教会の仲間のための祈りを超えて、その人たちの代わりに祈り礼拝をささげる、執り成し手として召されている。そうやって、祭司の務めをするようにと招かれています。隣人のために祈ること、この世に代わって礼拝をささげ続けることは、決して小さな働きではありません。
 
 今、私たちには幸いに、ルターの時代よりも、多くの手段があります。電話、FAX、メール、動画、SNSなど。私たちはこれらを用いて、礼拝し、み言葉を隣人に届け、また、それぞれの場所で隣人を神にささげるために、祈るように召されています。牧師だけの務めではないのです。全ての人が祭司であるとはそういうことです。集まって主を喜ぶことを願いながらも、この時、それぞれの場で、召されていることをないがしろにすることなく、一人一人が祭司として生きることがいよいよ求められています。
 
 ルターは、その著書「キリスト者の自由」の最初にキリスト者とは何者かということに対して、このような命題を残しています。
「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。
 キリスト者はすべてのものに仕えることのできる僕であって、誰にでも服する。」
 僕となって仕えてくださる王キリストに従うものとして、キリスト者は、どちらを選んでも良い自由を与えられています。これは、決して、価値の多様化を受け入れることを勧めているのではないのです。みんな違ってみんないいではないのです。そうではなくて、神様が必ず、私たちの究極の願い、最終的に良いものを与えてくださる信仰に立つからです。そこからしか、物事を見ないからです。最終的に責任を持って受け入れてくれるキリストがいるから、キリスト者は本当に自由になれるのです。
 
そういうところに私たちは立っているのです。
 
祈りを捧げましょう。
この世界を創り、支配し、保っていてくださる、主イエス・キリストの父なる神様、この世界はあなたのものであり、私たちもあなたのものとされています恵みを感謝いたします。私たちは、御子に続く、あなたの子どもとされて、驚くべき身分と働きを委ねられていることを思います。どうぞ、与えられている幸いな務めに今、また新しく気づき、与えられた1週間を御心に適う歩みとして整えてください。
この祈りを私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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