週報
説 教 題 聖書がわかるとは? 大澤正芳牧師
聖書個所 ヨハネによる福音書第5章31節~40節
讃 美 歌 280(54年版)
論語読みの論語知らずという言葉があります。
中国の孔子の教えをまとめた論語の中身をよく知っているのに、その教えに生きていない人を揶揄する諺です。
今日は主イエスが一見、それと似たようなことを仰ったその言葉を聴きました。
今日の箇所の全体に渡って、主イエスは、聖書を熱心に読んでいる人々に向かって、あなた方は聖書を読んでいるつもりになっているが、全然読めていない。あなたがたは「聖書読みの聖書知らず」だと仰っているのです。
聖書がまったく読めていないと厳しく主イエスよりお叱りを受けた人たち、この人たちはどのように聖書を読み間違えているのでしょうか?
一つはっきりしていることは、主イエスがお叱りになっているのは、信仰がなければ聖書は正しく読めないということではありません。
これまでの人間の歴史において、聖書は、様々な人によって様々な読まれ方がしてきました。
たとえば、ここ日本でも信仰を前提とすることはあり得ない国立の大学の西洋古典学科で、聖書は古代文献のテキストの一つとして、研究の対象として熱心に読まれてきました。
また、決して洗礼を受けなかった文学者たちも、たとえば、太宰治や芥川龍之介も、たいへん熱心に聖書を読み耽ったことは、よく知られていることです。
最近では芸人で作家の又吉直樹が作品の中で聖書に言及しているようです。
彼は、祖父、母、姉がクリスチャンですが、自分はある時から自覚的に距離を取るようにしたという趣旨のことをインタビューで答えていました。
けれども、主イエスがここで、聖書読みの聖書知らずと批判しているのは、第一には、信仰がないのに、聖書を読む者たちに対してではありません。
あるいは、聖書の言葉をよく知っていても、その言葉通りに生きよとしない頭でっかちの人を批判しているわけでもありません。
39節、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究している。」とあります。
主イエスが、「あなたがたは聖書読みの聖書知らずだね」とお叱りになっている相手、その人たちには、はっきりとした信仰があります。聖書を、ただの文献ではなく、その中に永遠の命を納めた神の言葉だという信仰の内に読む者たちでありました。
さらに、次週読むことになる45節後半に、「あなたたちが頼りにしているモーセ」という言葉があります。つまり、十戒に代表される神の戒めに、忠実に従うこと、生活の中で聖書の教えを実践することを大切にしている人たちなのです。
神の言葉に従って、それを人生の導きの杖として、正しい生活を作って行く。神の言葉に従っていく中で作られる生活は、空回りのものではなく、自分の生き方は間違っていないかと不安を与えるものではなく、それこそが永遠の命に通じる道だと確信し、聖書と付き合っているのです。
主イエスが、「聖書読みの聖書知らず」と批判されているのは、「論語読みの論語知らず」という批判に似ているようでいて、全然違います。
むしろ、徹底的に、聖書の言葉を研究し、その言葉通りに生きようと、その言葉を重んじ、日常生活の中で生かそうと真剣に願っている信仰者たちに向かって語っているのです。
まずは、とにかく、主イエスの批判のこの急所を受け止める必要があります。なぜならば、私たちキリスト教会においても、素朴で真剣な信仰者たちは、同じわき道にそれてしまうことがあるからです。
もちろんそれは、ここで主イエスが批判しているファリサイ派や律法学者たちが、理解し、受け取った神の戒めとは違う形ではあります。
彼らは旧約、しかも、最初の5冊であるモーセ五書より神の掟を受け取ろうとしています。食物規定や、何が清く何が汚れているかに関する祭儀的な戒めや、割礼や、安息日規定など、民族的ならわしや、日柄に関する掟をも含んだものであり、それらは新約に生きる私たちにとっては克服されたものと見做されるようなものです。
それらは、初代教会では問題となりましたが、現代のキリスト者であれば、99パーセント、それは乗り越えられた律法主義的掟だと考えるでしょう。
しかし、生活の中で聖書の言葉を聴き、真剣に生きようと願うクリスチャンたちも、聖書から、あれはしない方が良い、これをした方が良い、あれは好ましい行為だ、これは避けるべきものだと具体的な生き方を、聴き取ろうとします。
もはや、厳しい律法としてではないかもしれませんが、本当に聖書に生きているとは、神の言葉に従う生活とは、聖書から具体的に受け取った指針に従って生きることだと思うことがありますし、そう教えられることがあります。
けれども、これは、神の言葉、あるいは聖書に関する根本的な誤解であると、今日の個所で主イエスは仰っているのです。
永遠の命を得るための断固とした命令であるか、あるいは神に造られた人間への、造り主なる神がお与えになる推奨する生き方としてという柔らかいニュアンスであるか、その迫り方にはグラデーションがありますが、要するに聖書とは、私たちが従うべき具体的な生き方を教えるものである。
そういう生活上の実践的倫理を教える書と読むことは、主イエスによれば、聖書読みの聖書知らずです。
それでは、聖書は私たちに何を語りかけてくるのか?神はこの聖書を通して、どのようなお言葉を語りかけていらっしゃるのか?
39節です。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようとしない。」
新約聖書27巻だけではありません。あるいは、イザヤ書や、エレミヤ書、ゼカリヤ書などのメシア待望、救い主の待望の憧れに彩られた預言者たちの言葉だけではありません。
次週読む個所には、「モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」と語られるのです。
モーセ五書、すなわち、天地創造の物語、イスラエル民族の父祖たちの物語、何が清く、何が汚れており、何をすべきで、何をなさざるべきか、神への礼拝や、献げものはいかなる形でなすべきかを事細かく語るモーセ五書が、本当に本当に語りたいこともまた、わたしのことだと、ここで主イエスは仰っているのです。
聖書66巻これらすべてが私たち新約の民の聴くべき生ける神の言葉であると信じているならば、それは全部、このわたしを指し示す言葉として、神がお与えになったものだと受け止めてほしいと、主イエスは、仰っているのです。
もしも、そのように読んでいないのならば、次週の先取りになりますが、45節です。「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。」
これを言い換えるならば、あなたたちがそこから喜んで生き方の指針を受け取っているつもりの聖書自身、その指針自身が、あなたがたを裁くということです。
もっとわかりやすく言います。聖書を読んで、自分が従うべき何らかの指針、ルールを見出そうとしている内は、聖書を読んでいたとしても、生ける神の言葉としてその言葉を聴いたことにはならないのです。
本当に聖書が読めたと言えるのは、聖書を読んで、イエス・キリストに出会い、このイエス・キリストを通して神が私たちにしてくださった恵みに気付かされることです。そして、そこで、神の御前に、私たちが、ただただひれ伏すということが起こることです。その時、私たちは、聖書から生ける神の声を聴いたのです。
なぜなら、聖書は、「わたしについて証しするものだ」と、主イエスが仰っるからです。
それは、イエス・キリストがお語りになった言葉から、全聖書を解釈しなければならないということではありません。キリストの言葉、山上の垂訓などの有名なキリストの教えが、全聖書の解釈の基盤となるというわけではありません。
36節中ほどです。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」と主イエスは仰います。
聖書が私たちに語りかけてくる生ける神の御言葉とは、キリストのその御言葉だけのことではありません。むしろ、キリストの成し遂げる業が、私たちに向けて語りかけている神の御言葉そのもの。
さらに、ヨハネによる福音書の一貫した描き方によれば、その言葉と業を語り行われるイエス・キリスト、このお方の存在丸ごとが、神と等しい、神の「言」だと語られているのです。
聖書への服従、神の言葉に聴き従うということは、わたしのところに来ることだ、わたしを信じることだ、わたしの語る言葉だけではなく、それ以上に、その業、わたしの存在丸ごと、今ここにいるわたしに出会い、全信頼を寄せることだと宣言されているのです。
言い換えるならば、神の言葉に従うとは、神の言そのものであられるイエス・キリストのもとにひれ伏すこと、このお方を私の主とし、私は従となること、これが神の言葉に服従するということです。
日曜日に神の言葉を聴いて、それを平日にどう実践するかが、神の言葉に聴き従う生活であるというのでは全然ありません。
聖書に聴く、神の言葉に服従するということは、私たちが今ここでイエス・キリストこのお方を礼拝しているということです。
ここで、今この場所でイエス・キリストを、私の主、私の神として拝んでいること、ここにこそ聖書に聴き、神の言葉へ服従することが起きているのです。
39節以下をもう一度読みます。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところに来ようとしない。」
聖書を読もうと言うならば、私のところに来てほしい。私のところから立ち去って、御言葉に従ってあれをしよう、これをしようなどと考え始めないでほしい。永遠の命である私のもとに留まれ。
最近、私は、教会の教理の歴史についての学びをコツコツ行っています。その成果は、今日は、載せられませんでしたが、いつも週報の裏に記載している「小さな小さな教理の学び」に少しだけ反映しています。
そこで改めて知りましたが、教会の歴史のかなり早い段階で、聖書の読み方を巡る逸脱が起こりました。
専門用語では古カトリシズム、古いカトリックの時代という意味ですが、もう2‐3世紀には、パウロから離れて、教会は聖書の読み方に関して、律法主義化していったようだということを知りました。
キリスト教は、ユダヤ教とは違う新しい掟をもたらすものであり、福音、良い知らせとは、それを守って完全へと近づいていける、キリスト教独特な律法のことであると受け取られるようになったと言います。
なんで、そうなってしまったかと言うと、その方が、たいへんわかりやすいからだと学者は言います。
神の意思であるキリストの新しい掟に従うならば、私たちは永遠の命の宝を受ける。こちらの方が、分かりやすい。
もちろん、これは、単純な律法主義への逆戻りではありません。
徐々にずれて行く時代、教会の指導者たちは、単なる律法主義ではなく、私たちが洗礼を受けるとき、神が私たちにキリストの恵み、新しい命を注入してくださることによって、戒めに従うことができる者へと造り変えてくださると、修正しました。
けれどもこれは、パウロとは完全に一致しないし、誤解された福音であり、古カトリシズムによる福音の律法主義化であった。
パウロの受け取ったキリストの福音が再発見されるためにはルターの登場を待たなければならなかったと、その学者は申します。
これはある意味では、プロテスタント教会の常識ではありますが、いちいち納得して理解するためには、2000年の神学の歴史を掘り返さなければならないようなことであるかもしれません。
しかし、結論だけ言えば、極めて単純なことです。
それは、ルターが死の床にあって最後に書き残したという言葉、「われわれは乞食だ。本当にそうだ。」とい言葉に、真の信仰の姿勢は集約されていると私は思います。
つまり、命を得るために主イエスの元へ行くしかない。求道者だけではありません。牧師も教会員も、神学者も、死の床に至るまで、主なる神さまの御前に、乞食としてひれ伏す他ない。これが、私たちの信仰です。
わたしたち信仰者は、神を信じない周りの隣人に対しては、あるいは過去の自分自身に対しては、もしかしたら、「俺もだいぶましになった。少しは、神の者として成長した」と嘯くことができるかもしれません。他の信仰者仲間に向かって、自分の方が、神の掟に従っていると、安心できることがあるかもしれません。
しかし、神様の御前に行けば、私たちが積み上げた信仰の成果などというものは、恥ずかしくて恥ずかしくて、本当は、御前に顔を伏せる他はありません。
胸を打ち叩きながら、「神さま、信仰のないわたしをお助け下さい。」胸を打ち叩きながら、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と申し上げる他ありません。
しかし、イエス・キリストの父なる神様は、このような情けない者を、キリストのゆえに、誉れを与えてくださるのです。
ただただ、御前に恐れひれ伏し、憐れみを乞うしかない乞食に、神は誉れをお与えになる。これ以外の福音は、もう2世紀から教会内に入り込んだものではありますが、イエス・キリストの福音ではありません。
ここから飛び出るならば命はありません。ここに帰ってくる他ありません。
しかし、主イエスは仰います。「あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
主イエスが途方に暮れてしまうような、私たちなのであります。
そうであるにもかかわらず、神の言葉そのものであるイエス・キリストが飛び込んでこられ、そのお方の御業、生ける神の御業が、不信仰でしかない私たちの真っ只中に打ち立てられる。
燃え尽きることなく、永遠に、イエス・キリストの十字架が、この私たちの真っ只中に、打ち立てられたのです。それが、天の父が、主イエスに成し遂げるようにお与えになった業、神の永遠の御言葉です。
イエス・キリストの福音とは、神によるこのような人間追及のことです。どこまでもどこまでも、不信仰な者、貧しい者を、捨てずに追いかけて来られる神による人間追及のことです。
わたしたちはこのようなしつこい神の憐みから逃げきれません。やがて、どこかで捕まります。捕まったら、ひれ伏さずにはおれません。それが今ここに起きている、主の日の礼拝なのです。
ただ主イエス・キリストの父なる神にのみ栄光がありますように。
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