礼拝

4月9日 イースター主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書12章12節~19節

説教題 押し留めることのできない命

讃美歌 18,290,29

 

2023年のイースターおめでとうございます。キリスト者たちが交わすイースターの古い挨拶の言葉をお送りいたします。

 主は甦られた。真に甦られました。

 主なる神は十字架にお架かりになった御子イエス・キリストを墓の中から甦らせ、罪と死に打ち勝たれました。

 これらの出来事はすべて、私たちのため、私たちの命のためであったと聖書と教会は共に語り続けてまいりました。

 日曜日ごとに、休むことなく、2000年の間、信じ続けられ、語り続けられ、聴き続けられてきた神の良き知らせです。

 

神の御子イエス・キリストの甦りを語ることは、同時に、私たちの甦りを語ることです。

子なる神は、2000年前の聖金曜日、罪の毒の杯を飲み干してしまわれました。2000年前の聖金曜日、御子は木にかかって呪いの死を死なれ、この世の誰よりも深く死なれ、死の力、滅びの力、地獄の力の全てを余すところなく、全て、味わい尽くされ、誰にもそれを残さず、一身にそれを引き取られました。

 

それにも関わらず、滅びの力は、御子を飲み尽くすことができませんでした。

 御父は、三日後に御子を墓より甦らせ、死は命に飲み尽くされました。

 

この復活祭の良き知らせ、イースターのメッセージは、実に、ヨハネによる福音書が、その冒頭から語り続けてきた良き知らせであります。

 「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」(1:5)

 罪、死、悪魔の闇の力は、自分達が理解できぬ間に、覚悟を決める余裕もなく、キリストの復活の命によって、押し流されてしまったのです。

 

モーセの十戒の冒頭に次のような言葉があります。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」

主なる神は、その民を奴隷の家から解き放つ神であられます。

この神は、ご自分の民が奴隷であることに我慢がなりません。

エジプトだろうが、罪だろうが、死だろうが、ご自分以外のなにものかが、ご自分の民の上に支配者として君臨することをおゆるしになりません。

御腕を奮い、解き放ち、あなたにはわたしの他に神があってはならない。あなたは私のものであり、もう、誰かの何かの虜にさせないと、権利を主張される神であられます。

主なる神だけが、私たちの真実の王様となってくださるのです。

 

先ほど司式者に読んで頂いた12節に「祭り」という言葉がありました。

 この祭りとは、過越しの祭りのことです。神がその民を奴隷の家から導き出されたことを喜び祝う神の民イスラエルのス古く大切な祭りのことです。

その祭りの始まらんとする時、イエス・キリストは、その祭りの中心地となる神殿の町エルサレムに入城されました。

この祭りを目指して、各地から集まって来た大勢の人たちが、主イエスがエルサレムに来られると聴くと、手に手に、なつめやしの枝をもって、主イエス一行を迎えに出たと言います。

のぼりのようななつめやしの枝、王様を迎える国民が、旗を振ってそのおでましを歓迎するように、群衆が、なつめやしの枝を掲げ主イエスを迎え、歓声を挙げました。

 「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように/イスラエルの王に。」

 

エジプト脱出の出来事から、長い年月が経過していました。いくつもの時代が過ぎました。

 この時、神の民は新しい超大国の支配の下にありました。

 神の民は、国土を持たず、制限された自治しか認められず、運命の手綱は、ローマ帝国に握られていました。

 このような状況に陥ったのは神を神としなかった罪のゆえだと、預言者達は語りました。

 けれども、やがて、神は、救い主をお与えになるとも約束してくださいました。

 時が満ちると、この世の力の軛から解き放つために、神が、メシア、救い主、ダビデのような王をお与えになると約束してくださいました。

 主イエス・キリストがエルサレムに入城されたこの日、神の民は、このお方を、約束の救い主、神の民の王として、お迎えしたのです。

 

ホサナ、「主よ、今、救いたまえ」という意味です。ホサナ、「主よ、救いたまえ、今こそ、私たちを救いたまえ。新しいエジプト脱出をここに起こしてください。」

 なぜ、多くの人たちが、これほどまでに熱狂的に主イエスを迎えたかと言えば、17節、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆」が、証しして回ったからであり、18節、「群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのしるしをなさったと聞いたから」でした。

 これは前の第11章に書かれていた出来事です。主イエスは、死んで墓に葬られて四日も経っていた友ラザロを死の中から呼び戻された。

 この前代未聞の奇跡を前に、それまで、主イエスというお方が神から遣わされた者かどうかと疑っていた者たちさえ、これこそ、神が遣わされたことの確かなしるしだと認めざるを得ませんでした。

 なお、主にお従いすることができない者たちがいましたが、そんな人たちであっても19節、「見よ、何をしても無駄だ。世を上げてあの男について行ったではないか。」と、主イエスにおいて始まった神の出来事が、この世を巻き込んで、進んでいくことを、呆然と眺める他ありませんでした。

 

ところが、このところまで私たちが見聞きした、主イエス・キリストを王として喜んで迎え入れた人間の姿勢は、最後まで貫かれるものではありませんでした。

すなわち、この福音書を読み進めて行く私たちがすぐに知ることになるのは、なつめやしの枝を振り、歓声をあげて、この王を迎えた神の民は、このお方を裏切り、死に引き渡すことを望むようになるのです。

 つまり、棕櫚の主日と呼ばれるイースター直前の日曜日に読まれることが多いこの主イエスのエルサレム入城の出来事は、受難節から除かれる日曜日の物語であるにも関わらず、まさに受難週の只中の出来事であるのです。

 

過越しの祭りにエルサレムに来られた主イエスを迎える群衆の喜びが、心からの歓迎に見えれば見えるほど、ほんの数刻後に、「その男ではなく、バラバを釈放しろ」と、大声で叫ぶ神の民の闇の深さは、いよいよ暗いものとして際立つのです。

 それは主イエスに逆らい続けたファリサイ派の人たちでさえ、想像もできなかった移り身の早さなのです。

 ところが、福音書の書き方によれば、主イエスだけはこのことをよくご存じでありました。

次週読むことになります23節以下にこうあります。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

一粒の麦は地に落ちて死ぬ。ご自身の十字架を指した御言葉です。

ご自分の死によって、多くの命の実が結ばれることを語る御言葉です。

主イエスがお語りになる、多くの命の実を結ぶためのご自分の死とはどのような死であるのか?

ご自分の民から裏切られ、捨てられる者の死であります。

御自分を裏切る者のために死に、御自分を裏切る者を、その死の実りによって生かそうとする死です。

 

そのような受難の道を主イエスは、御父の御心と一つとなりながら進んで選び取られました。

エルサレム入城の道は、ヴィア・ドロローサ、すなわち、苦難の道です。

そんなことを露知らず喜びを爆発させながら、「ホサナ、ホサナ」と歌う群衆の声を聴きながら、主イエスはどのような思いでその町に入られたか?

 

悲しかったのではないか?苦しかったのではないか?いたたまれなかったのではないか?と、想像せざるを得ないのではないでしょうか?

しかし、この私の想像は、どうやら誤っています。

今まで触れなかった14‐16節を合わせて考えると、私たちの自然な心に逆らって、どうしてもそう言わなければなりません。

少し長いですが、改めて、お読みいたします。

イエスはロバの子を見つけて、お乗りになった。次のように書いてある通りである。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って。」弟子たち最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した。

 

熱狂的な群衆に王として迎えられるとき、主イエスはその歓呼に答えるように、高貴な人が、馬車に乗って、オープンカーに乗って、その歓呼に答えるように、ろばに乗って、エルサレムに入られました。

そうだ。そのとおりだ。あなたたちが歌ってくれるように、歓迎してくれるように、確かに私はあなたたちの王なのだ。あなたの名を呼び、あなたを救う真の主人なのだ。

 

こんな風に歓迎に応えて、堂々とその声を身に浴びることをお許しになった方の顔は、やはり、喜びに輝いていただろうと言わなければならないのです。

そしてまた、16節、主イエスの弟子たちが、これからエルサレムで起こる全ての出来事を経験した後、改めて、この出来事を振り返り、この場面を思い出したとき、それが旧約聖書に書いてある通りのことだったんだ。あの時、群衆は、聖書に書いてある通り、主イエスを迎えたことがわかったと言うのです。

 旧約ゼカリヤ書9:9通り、聖書の言葉通り、すなわち、神の御心通りのことが、ここで起こったのだと福音書は語ります。

 

つまり、聖書に書いてある通り、神の御心通りとは、神がこう仰っているということです。

あなたたちは、私の遣わした者を喜んで受け入れてくれたね。あなたたちの王として、歓迎してくれたんだね。なんて嬉しいんだろう。

 

弟子たちは一体ここで何が起きたのか、当時はよくわからなかったと言います。

やがて主を十字架につけることに同意し、加担した神の民の、最初の歓迎をどう理解したら良いかよくわからなかった。

しかし、主イエスがご復活された後に、その方ともう一度、お会いした後、ああ、あの時は神は喜んでいらっしゃったんだ。神の御心があそこで行われたのだ、主はそれを喜ばれたのだということが、分かるようになったということです。

 

もう一度、申し上げますが、神は、彼らが手の平を返すことになることを十分よくご存じであったのです。この人たちが御子を憎み、十字架に追いやってしまうことをよくご存じであったのです。

それにも関わらず、御父と御子は、この神の民の歓迎を、ホサナの歌声を、喜んで聴いておられたのです。

そのことが弟子たちにはよくわかるようになった。

そして、それは、当然、自分達自身の再発見であったとも思います。

主を裏切ったのは群衆だけではありませんでした。弟子である自分達も、「あなたのためなら命を捨てます。」と胸を張って言いながら、その舌の根も乾かぬ内に、主を裏切り逃げ去ったのです。

 

ご復活の主に出会い、その手を改めて固く握り締め、もう一度、再スタートを切る弟子達です。

その時、彼らは自分達のかつての信仰を、本当の奥行きを知らない浅く未熟な信仰であったと恥じたかもしれません。ご復活の主の栄光を知らない、隠された主の栄光を見抜く前の、至らぬ信仰であったと顧みなかったかもしれません。

けれども、その幼い信仰をどんなに主が喜んでおられたか、よくわかったのです。至らぬ自分を心から愛しんでくださっている神と出会い直したのです。

 

今日は、これから洗礼入会式を行います。

中学、高校とミッションスクールに通い、自分が信じているのは、結局のところ、イエス様の父なる神様ですと、心に秘め続けた者の洗礼です。

しかし、洗礼準備会をしながら、今まで知っていたと思っていた神様のこと、イエス様のこと、じっくりと学びながら、新しい発見がたくさんあったのではないかと思います。

私にとっても新しく神の憐れみを受け止め直す学びとなりました。深い憐れみに心打たれ、牧師も志願者も、そこにいた者たちが言葉を失ってしまう瞬間が幾度もありました。

 

やがて準備会を続ける中で、これまで洗礼を受けなかったことを恥じる、神様に申し訳なく思う思いが志願者から語られました。長老会の席でも語られました。

けれども、安心して良いのです。

イエス・キリストの父なる神は、私たちの内に信仰を探し求めておられる神であり、このお方は、私たちの内にからし種一粒ほどの信仰を見出すと、山よりも大きなその御心を震わせて喜んでくださるお方なのです。

今、主の手をご自分から握り返すこの日からの信仰だけではありません。洗礼に踏み出すことが出来ないような少女の小さな信仰、心に宿った小さな小さな信仰をその時から、今に至るまで喜び続けておられたのです。

 

エルサレムに入城される時、主イエスはろば、それも子ろばに乗って来られました。

ゼカリヤの預言通りの姿です。

その救い主、王の姿は、軍馬に乗った力強い王を求める私たち人間の自然な期待とはほど遠いものがあります。私たちを救える者は、強い者であってほしいという願望に比して、優し過ぎます。

ろばの子に乗る王様は、少しも暴力的でないし、恐ろしくないのです。

けれども、これが私たちの王の、私たちへのメッセージであります。

安心して良い。安心して私の元に来なさい。わたしの元で安らぎを得なさい。

柔和でへりくだった王です。誰のことも拒否せず、ご自分の元に来るのを待ち焦がれ、待ちきれなくなって、人となって世に来られ、ご自分自ら探しに来られる王、必ず、私たちの元にやって来られる救い主です。

 

ロシア正教、ウクライナ正教、ギリシア正教などの東方正教会では、イースターの時に必ず読まれる言葉があります。

それは、金の口、クリュソストモスと呼ばれる古代教父の説教の言葉です。少し長いですが、最後にどうしてもこの日、皆さんに全文ご紹介したいと思います。松嶋雄一神父が現代語訳したものを、私たちプロテスタント教会の用語に少し置き換えさせて頂き紹介します。こういう説教です。

 

さあ、心から神を愛する人々よ 

この美しく光り輝く祭を楽しもう

さあ、賢いしもべたちよ それぞれの喜びを胸にたずさえ、主ご自身の歓喜と一つになろう

 

長い断食をしっかり守った者は

さあ銀一枚を受け取りなさい

 

第一時から働いたなら、今日、胸を張って当然の報酬を受け取りなさい

第三時を過ぎてから来たのなら、感謝して(その報酬を)喜びなさい

第六時をまわってから来たのでも、何の心配もいらない

 同じだけ受け取れるのだから

第九時になってようやく来たとしても

 何をとまどっている…、さあ、この食卓につきなさい

とうとう第十一時になるまで重い腰を上げなかったあなたも

 遅れたからといって、何も怖がることはない

 

そうなのだ、この宴会の主人は実に寛大だ

 最後の者も最初の者と同じように迎えてくれる

 第十一時に来た者も、第一時から働いた者と同じように憩わせてくれる

 後から来た者も憐み、最初から来た者も忘れはしない

彼にも与え、これにも賜われる

 行いも受け入れてくれ、志も祝福して下さる

 功績(てがら)も認めてくれ、望みも励まして下さる

 

さあ、だから、この主ご自身の歓喜(よろこび)に入ろうではないか

 

第一の者も第二の者も、報酬を受け取りなさい

富める者も貧しい者も、共に祝いなさい

節制した者も怠けた者も、この日を喜びなさい

断食した者も、しなかった者も、さあ、いま楽しみなさい

 

この宴(うたげ)は溢れこぼれんばかりに豊かだ

さあみんな、飽きるほど食べなさい 子牛はまるまる肥えているではないか

この宴から空腹で帰ってゆく者が、一人でもいてはいけない

さあみんな、この信仰の宴を楽しみなさい この慈しみの富をうけなさい

誰も、もう、貧しさを憂いてはいけない

王国が打ち立てられ、すべての人々が招かれているのだから

 

誰も、もう、罪のために泣いてはいけない 主の墓から赦しが輝き出たのだから

誰も、もう、死を恐れてはならない 

救世主の死が私たちを解放したのだから

 

キリストは、死に包囲されたが、逆に死を討ち滅ぼした

彼は、地獄に降って、地獄をとりこにした

彼は、そのお体に触れた地獄を悔やませた 

預言者イザヤが言った通りだ

 「地獄はあなたを組み敷いてしまってから、悔いて悲しんだ」と

 

地獄は悲しんだ。そこが空っぽになってしまったから

地獄は悲しんだ。恥をかかされてしまったから

地獄は悲しんだ。葬り去られてしまったから

地獄は悲しんだ。打ち倒されてしまったから

地獄は悲しんだ。縛られてしまったから

 

地獄は主の肉体を受け取って、神に向かい合う羽目になってしまった

 

地獄は地上に生きた者キリストを受け取って、天国に出くわしてしまった

地獄は目に見える肉体を受け取って、見えざる者の力に圧倒されてしまった

 

死よ、おまえの刺(はり)はどこにいってしまったのか?

地獄よ、おまえの勝利はどこへいってしまったのか?

 

キリスト復活して、おまえは失墜した

キリスト復活して、悪魔は倒された

キリスト復活して、天使らは歓喜する

キリスト復活して、「いのち」は凱旋する

キリスト復活して、墓の中にはもう死者はいない

キリストが死より復活して、死者たちの復活の初穂となったから!

 

力と栄えが主に世々、限りなくありますように。アーメン。

 

 

 

 

 

 

 

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