マタイによる福音書16:13-20
今日私たちが共に聞きました聖書個所には、大きく二つの山があるように見えます。一つ目の山は、主イエスの「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という弟子たちへの問いから始まり、シモン・ペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です」という告白でクライマックスに至る前半部分、もう一つの山は、このペトロに対して与えられる教会建設の約束と天国の鍵がその教会に与えられるという約束の言葉からなる後半部分です。
今日共に聞きますこの箇所を説く説教の言葉は、しばしばどちらかに焦点を当てるものであり、二つの山場を過不足なく語るためには、何回かに渡って同じ聖書個所を挙げて説教をしなければならなくなるだろう豊かな言葉であると思います。だから、本当ならば二回した方が良いのでしょうけれど、既に、予告をだいぶ前に出してしまっていますから、やはり、一回で、しかも、一番語りたいと思う所だけを語ろうと思います。
そうなると、私は今、特に惹きつけられている言葉である19節の言葉に集中して説くということになろうかと思います。この言葉です。
「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
神から人間に与えられる大きな大きな力、主イエスは、御自分に向かって、「あなたこそメシア、救い主、生ける神の子です」と告白する者に向かって、大きな大きな力を与える約束をなさいました。
4月の最初から今日にいたるまでの4回の説教で、私は比較的自由に説教のための聖書個所を選んできました。その内に、堀江先生がしていたように、一つの書物を定めて、それを丁寧に説いていく講解説教をしたいと思っていますが、あと何回かは、聖書全体から自由に選んだ箇所で説教するつもりです。それは、一番最初の日曜日に申し上げましたように、牧師交代の時は、一つの危機であると思うからです。牧師交代の時は、整然とした聖徒たちの歩みが、ぐらついてしまうことがあり得る時です。だから、こういう時は、教会が拠って立つところは、どこにあるのかということを特に語る聖書個所を皆で集中的に聞いた方が良いと思うのです。
今日聞く聖書の言葉は、その一貫として選んだ聖書個所です。神の家族である教会が、何をするために存在しているか教会の使命が語られている箇所だと思うからです。主イエスの弟子には、天国の鍵が与えられている。しかも、その力を行使することが語られています。天国の鍵を持つ者、その者が、この地上でなす行為は、そのまま天で行われた行為として認められるというのです。つまり、その人のなすことは、天における決定と見做されるということです。
この天の国の鍵を与えられた人、ペトロが一体どのような人物であるのか?また、この約束が誰に受け継がれていくのか?教会は、歴史的に様々な理解の仕方をしてきました。たとえば、カトリック教会は、初代ローマ教皇であったペトロの後継者である歴代のローマ教皇たちが、その天の国の鍵を持つ者であると考えました。それゆえ、ある時代には、ローマ教皇は、世俗の皇帝や王さまよりも大きな権力を持ち、教皇の不興を買った王さまが、教皇のゆるしを得るために、真冬の雪の地で、3日間、裸足で外に立たされっぱなしになるというような事件さえ起きました。世界史で学ぶカノッサの屈辱という事件です。
しかし、私たちプロテスタント教会の者たちは、この天国の鍵を受け継ぐ者を、ただペトロとそのたった一人の後継者としてのローマ教皇だけに与えられているものとは理解しませんでした。そこにこそ、プロテスタント教会のプロテスタント教会たる所以があると言えます。もちろん、それは、まずシモン・ペトロという一人の弟子をめがけて主イエスが与えてくださった約束です。けれども、そのペトロは直後に主イエスの御受難の預言を否定することによって、同じ主の口から、悪魔と呼ばれてしまいます。
それは、聖霊を頂く前のペトロであるから主イエスのお心を理解できない間違いを犯したということに留まりません。ガラテヤの信徒への手紙2:11以下には、エルサレム教会の極めて重要な指導者となっていたペトロが、人の顔色を窺い、外国人と食卓を同じくすることを避けた時、パウロによって、面と向かって厳しく戒められるということが起きました。主イエスに直接天の国を与えるという約束を頂いたペトロであっても、福音に反する言葉や行いをなすならば、それは、何の力も持たないものに過ぎません。
また、何よりも、この天の国の鍵についての約束の中身である、ある人が「地上でつなぐことは天上でもつながれ」、「地上で解くことは天上でも解かれる」という約束は、事実、ペトロだけに与えられたものではなく、2章先の第18章18節では、「あなたがた」と、すべての弟子たちに対して、約束されているものであることがわかります。すなわち、主の兄弟となり、家族として頂いている私たち教会に、つまり、福音に生かされている者達に、この天の国の鍵の約束は与えられていると読むことが妥当だということだと思います。
私たち改革長老教会の伝統を持つ教会にとっては親しいハイデルベルク信仰問答と呼ばれる信仰のエキスを抽出したような問答集には、まさに、教会が教会戒規を行うことによって、この鍵の権能を行使するのだという言い方がなされています。それはつまり、一人の人に与えられている権威ではなく、教会全体、具体的には教会によって選ばれ、定められた長老に与えられているものであるという理解です。天の国の鍵の行使は、具体的には、長老会の最重要の働きの一つである洗礼試問会に現れていると言えます。しかし、さらには、この権力の行使は、牧師や長老だけに限られたものではなく、広く、一人一人のキリスト者に与えられている務めであると理解することもできるのです。
私が3月までいた鎌倉雪ノ下教会の前前任の牧師であった加藤常昭先生は、神学校を卒業した最初の任地がこの金沢の地でした。私たちの教会が、生み出した若草教会の最初の専従の牧師となりました。加藤先生は、この金沢に来て、牧師としてまた、神学者としての第一歩を踏み出し、まず、トゥルナイゼンというドイツの牧師の本を訳しました。『牧会学』というタイトルの本です。この金沢で翻訳された分厚い二冊からなる本です。これは、神学校で参考書として必ず挙げられる本です。その中で、このトゥルナイゼンという人が、積極的に、この鍵の権能は、全てのキリスト者が行使するものであるということを言います。
「会員すべてによって、しかも、求められずに行われ、また受け入れられるということが、同時に、その教会の生きているしるしとなろう」とさえ言います。
解き、また繋ぐこと、それは、私たちの多くの者が想像するように、隣人に対して行うことです。牛や犬を解いたり繋いだりすることではありません。天の国の鍵が話題になっている所では、やはり、何よりもまず人間が念頭にあります。私たちが、主イエスの御委託を受け、人間を解いたり繋いだりするのです。その時、私たちが地上でなす人間を解いたり繋いだりする行為は、そのまま天での出来事を映すことになるというのです。私たち一人一人にそのような力があり、使命が与えられているのならば、私たちは、この自分に与えられている力と使命に無知であることは許されないでしょう。
第一に、私たちは自分を小さなつまらない者と思うことはできません。かつて、ローマ教皇だけが持っていると考えられていたその権威と責任、王様すら恐れたほどの権威が、この自分にもあるのだと言うことになりますから、それはまあ、大変なものだと思わなければならないと思います。
第二に、私たちは、それを正しく理解するならば、増長することにはならないでしょう。そのような権威が自分にあるならば、それだけ重い責任があることを思わざるを得ません。むしろ、私たちは恐れます。もしかしたら、自分が思いがけず語った言葉によって、人を地獄の運命に定めることになってはいはしないかと恐れるということを始めるものだと思います。旧約に登場するモーセが、その民をエジプトから脱出させるように、そのために、お前を指導者として立てると主なる神さまが言われたとき、非常に恐れて、その任に自分は耐える者ではありませんと言ったように、私たちも天の国の鍵を託されているということに恐れを感ぜずにはおれません。それは、正しい恐れであると思います。
けれども、私たちが良く弁えておく必要があることは、私たちが主なる神の出来事に巻き込まれるときには、恐れと共にそれを上回る喜びがいつもあるということです。恐れつつも大いに喜ぶというのが、神に出会っていただいた者たちの姿だと思います。しかも、この天の国の鍵を預けられた者に与えられている喜びとは、本当のところ、私が初めに想像したような意味での喜び、すなわち、自分には大きな力が与えられているということを喜ぶ喜びなどは、取るに足りないものであると思わせるほどのものであるに違いないのです。
私たち教会に託された天の国の鍵の権能、それは、陰府の力に対抗する権能、悪魔に対抗するための力です。すなわち、隣人を陰府の力から救い出すために与えられている権威です。主イエスがこの約束をお与えになる時に語られる「陰府の力もこれに対抗できない」という18節のお言葉は、この天の国の鍵の理解にとって決定的に重要なことであると思います。人間を解き、またつなぐ私たちすべてのキリスト者に与えられています使命、私たちは、この対の言葉からなる使命を、私たちに与えられた二つの使命であると聞くかもしれません。
つまり、ある者に関しては解き、ある者に関しては繋ぐという風に考えるかもしれません。そしてまた、これが天の国の鍵であると言われるならば、私たちに与えられている使命とは、ある者の為には天の門を開いてやり、ある者には、それを閉ざすように任されているとそんな風に、理解するかもしれません。この聖書個所を解説しようとする多くの参考書も、何から解き、何に繋ぐかということに関しては、様々な意見があります。たとえば、解くという言葉は、罪から解くと理解するのか、あるいは真逆で、天国から解くと言う事なのか?繋ぐということもまったく同じように真逆に解釈されます。しかし、それは大きな問題ではなく、どちらも前提としていることは、教会には二重の使命があり、ある者には、天国の門を開き、またある者に対してはそれを閉ざすと理解することが多いのです。
あの慰め深いハイデルベルク信仰問答でさえ、その問85において、私たちに与えられている天の国の鍵の権能を、ある者を天国に受け入れ、また、ある者を締め出すための権威という風に理解しています。けれども、このような理解は、宗教改革者たちがいまだに、中世カトリック教会の負の遺産を引きずっている結果であると先ほど取り上げたトゥルナイゼンという人は語ります。確かにそうだと思います。天の国の鍵は、陰府と戦うためのものであるという主イエス御自身の口から語られたお言葉にしっかりと聞くならば、天国の鍵は、人を天国の門から締め出し、結果として、陰府、地獄に赴かせるという権威では決してありえないことがわかります。
それは天の門を閉じるためではなく、開くためにこそ、預けられているということが分かります。実に、この言葉と同じことを繰り返すマタイによる福音書第18章においては、兄弟を得るためにこそこの人間を解いたり繋いだりする権威が教会に与えられていることが明らかです。
もちろん、そこでも罪を犯した兄弟が、再三にわたる忠告にもかかわらず、それを悔い改めない場合は、その人を、「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」と言われています。しかし、マタイによる福音書を全体的に読めばはっきりとわかります。罪を悔い改めない者を天国から締め出すためではありません。異邦人と徴税人とは、天国の扉がその前で閉められてしまった人ではなく、主イエスが激しく追い求めた人たち自身です。だから、ある人が、異邦人、徴税人と見做されるとき、そこで始まることは、それまで以上に、その人の前に天の扉を開き、逃れようとするその人を何とか、天国に入れてしまおうとする主イエス御自身の働きに参加することに他ならないのです。
それはもちろん、罪人を罪人と見做さないということを意味してはいないと思います。何が解くことであり、何が繋ぐことであるかという議論を抜きにしても、私たちがなすべきわざは、やはり、人を罪人と定めるということから完全に無関係であることはありえないと思います。むしろ、私たちキリスト者の仕事は、確かに人を罪人だと、宣言することであると言えるかもしれません。けれども、それは、その人を地獄行きにするためではありません。主イエスと結びつけるためです。その罪が主イエスによって、取り除かれ、赦されていることを告げるために他なりません。私たちには、罪をいつでも赦された罪とだけ知り、そう告げることが求められていると言えます。
なぜ、そう言えるのか?その理由は、今日聞きました聖書個所の直後の、主イエスの受難の予告と関係のあることです。主イエスが苦しみをお受けになる、十字架で死なれる。その理由は、言うまでもありません。私たち人間の罪をお赦しになるためです。主イエスお一人が私たちの罪とその報いを御自分一人で全部お引き受けになり、もう、私たちがどんな罪人であっても、裁かれないようになるためです。だから、もしも、私たちがある人を天の国の門の外に出そうとするならば、私たちは、主イエスの犠牲を意味のないものにし、陰府と悪魔の業に仕えていることになるのだと思います。
そうすると、なぜ、主イエスの御受難をとんでもないことといさめたペトロが、「サタン、悪魔」と非常に強くイエス様によって叱責されたのかの理由がよくわかるような思いがいたします。それは、天国の門を永遠に開こうとされる主イエスの恵み深い業を妨害する行為に他ならないからです。罪人を救われないようにしてしまうこと、だから、私たちの前で、天国の扉が閉められたままにしてしまうのです。
もちろん、私たち罪ある人間にとって、天国が閉められたままであることは、受けるべき当然の報いであり、文句を言うことはできないことだと神学的には弁えるべきかもしれません。けれども、私たちが心打たれてしまうことは、天の扉を閉める行為は、たとえ、それが主が御受難に遭うべきではないという非常に、敬虔な思いから発したものであったとしても、拒否なさったという主イエスのお姿です。主は御受難の歩みを否定する者を、サタンとまで呼ばれました。主イエスは、私たち人間の前に天の扉が閉まってしまうことを望んでおられないからです。その扉が徹底的に開かれるために、十字架にかかり、御自分の命を注ぎ尽くされたのだと聖書全体は告げているのです。私たち人間のために天の国の門を開くこと、そこに十字架にお掛りになるキリストの情熱があります。
だから、たとえ、私たちが、罪を罪と見做し、悪いことは悪いとすることこそ、今の教会に託されている神よりの言葉だと確信するときも、その罪は既に、キリストによって、赦され、その罪を犯し続ける理由はもはやなくなっているという具合にだけ、語られるものになるのではないかと最近、強く思います。
それゆえ、私たちに与えられている解き、繋ぐ業とは、次のように理解することができるのではないかと思います。すなわち、私たち一人一人に与えられている天の国の鍵の権能とは、人を陰府と悪魔の力から解き放ち、キリストの赦しへ、そして、この方の開いてくださった天国へ、しっかりと繋ぐ権能であり使命だということです。どんな罪もキリストが負ってくださらなかった罪はない、どんな人間も、キリストが招いてくださらなかった人間はいない。教会は徹底的に、この神の赦しに生き、この神の赦しを語るように建てられています。
全ての人を、このキリストの赦しの中に数え入れ、事実、教会の中に迎え入れる。そこに、主イエスの情熱があり、言い換えるならば、父なる神の喜びがあります。私たち教会の喜びとは、神のこの喜びにあずかることに他なりません。つまり、神ご自身が、人を天の国に招き入れることを、御自分の喜びとしてくださっている。そのために全てのことを備えてくださり、御言葉を通して、神ご自身が喜んで働いていてくださる。私たち教会はその神の喜びの最前線に置かれている者として、その神の喜びの業に参加させていただきます。そして何よりも、その御業に参加させていただきながら、この私たち自身が、深い罪人であるにもかかわらず、神にひたすら追い求められ、主イエスが命を懸けて買い取ってくださった神の喜びである自分であることを日々知るようになるのです。
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