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9月13日礼拝

説  教  題  「慰め豊かな神」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙二1章3節
讃  美  歌    242(54年版)
聖書の中には、「慰め」という言葉がたくさん出てきます。簡単な検索システムを用いても、慰めという言葉が、日本語聖書の中にも、旧約から新約まで105か所出てきます。その中でも、特に私たちが読み始めた第Ⅱコリント書の中に、数多く登場する大切な言葉となっています。
 この「慰め」という言葉を巡って、私たち教会が、特に印象深く思い起こすのは、ハイデルベルク信仰問答と言われる、およそ500年前のドイツのプロテスタント教会が生み出した文章の最初のページの言葉でしょう。そこでは問いと答えの形式で、私たちキリスト教会の信仰の神髄が語られていきますが、その最初の問いの1番と答えはこのように私たちに語りかけます。
 
問1生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答 わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主/イエス・キリストのものであることです…。
 
 信仰問答というものは、その問一と答えを見れば、だいたい一番言いたいことが記されているものです。日本の教会にも広く知られ、大切にされているこの信仰問答が、「慰め」という言葉で、聖書の全体、教会に託された指針の一番大事なことを言い表そうとしていることは興味深いことです。教会に来る時、キリストの福音に出会うとき、何が起こるのか?私たちが「慰められる」ということが起きるのだ。この信仰問答は聖書の言葉に呼応しながら、そのように語っているのです。
 それこそ多くの人たちが、この信仰問答の問い1とその答えに慰めを受けてきたわけですが、また別の側面から言えば、この聖書の語る慰めということを本当に充分受け止めているだろうかということは、問う価値のあることだと思います。
 というのは、「慰め」という言葉は、一般的な言葉遣いからすれば、本当になくてはならぬほど喜ばしいものであるかどうか、少し、心許ないところがあるからです。たとえば広辞苑で、「慰め」という言葉の動詞である「慰める」という言葉を引くと、第1の意味として、「不満な心をしずめ満足させる。気をまぎらす」と出ています。他の辞書を引いても、「気をまぎらすこと」という説明が結構出ています。慰めという言葉は、どうも日本語では、一番ほしいもの、本来ならばこうあってもらいたい状態が破れた時、二番目のもの、三番目のものというような、代わりのもので気をまぎらす、ごまかす、お茶を濁すというニュアンスがあるように思います。たとえば、旧約の中でも、創世記で、母サラを失った息子のイサクが、リベカを妻として迎えることによって、24:67「亡くなった母に代わる慰めを得た」と聖書が語るとき、それは、もう手に入らない本当の状態に代わるものとしての、気をまぎらすものとしての「慰め」について語っていると思います。
 一方ではそのことが、かえってキリスト教の与える慰めという言葉と、ぴったりとフィットして理解されてしまっている面があるような気もします。そもそも宗教というのは、心の弱い者、あるいは弱い立場にいやおうなく追いやられてしまった者たちのための代用物という、日本での平均的な宗教理解があります。悲しみの中にある者、苦しみの中にある者に、キリスト教は、その問題そのものを解決することはできないとしても、どんな慰めを提示し、心を穏やかにさせますか?まあ、ここまではっきり言わなくても、教会が宗教として、一般の社会から求められていること、問われていることはだいたいこういうところだろうと思います。
 たとえば、ハイデルベルク信仰問答は、このような宗教理解の尻馬に乗っかり、「慰め」などという、言わばセンチメンタルな言葉で、キリストの福音を理解したのかと、問うてみる必要はあると思います。
 そしてもちろん、ハイデルベルク信仰問答が理解したキリストの福音による「慰め」は、そんな弱々しい心を撫でるだけのような報せではないのです。
 第一日本語においても、「慰め」という言葉はもう少し見直されてよい言葉かもしれません。慰めという漢字は、心の上に、「ひのし」が乗っている形をしています。ひのしというのは、火でのす、伸ばしていくわけですから、アイロンのことです。慰めという漢字は、熱いアイロンで、心に寄った皺をきれいに伸ばしていくイメージを持った言葉です。
 あまり文字から想像を膨らますことは、どうかと思いますが、でもたとえば、アイロンをかけるからにはまず洗います。洗って汚れを取り除きます。そして干して、乾いたら、熱いアイロンをかけて皺を取っていく。単に気をまぎらすということでなしに、一時しのぎということでなしに丁寧に丁寧に、私たちのしわくちゃになった心に最後までお付き合いくださる慰め豊かな神のお姿を思い浮かべることができるようです。
 クリーニング屋さんに沁みの付いた服を持っていきますと、どうしても落ちなかったシャツの首回りの黄ばみ、食べ物のしみを相談すると、これは汗抜き、これは染み抜き、皺の方は、プレス加工、プリーツ加工、生地自体にダメージがある場合は、補修をしましょうとか、多彩なオプションで汚れと皺がすっかり綺麗になって戻って来るように、神さまのくださる慰めも、今日は読んでいない4節ですが、「あらゆる苦難の中にある人々を慰めることが」できると言われるのです。豊かな慰めです。
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 今までは、日本語聖書から慰めということを考えてきましたが、原文を読みますと、ここで「慰め」と訳されている言葉は、実は、多様な翻訳が可能な言葉です。名詞では、パラクレーシス、動詞ではパラカレオ―という響きを持った言葉ですが、これは、単純な訳をすれば、「呼びかけ」、「呼びかける」という意味を持った言葉です。
 だから、聖書にこの言葉が出るときは、いつも「慰め」と訳されているわけではありません。文脈によっては、勧める、勧告する、戒めるともそれこそ豊かに訳し分けられる可能性のある言葉です。
 だから、人によっては、ここはあまり、文脈から読み取ったことを込めた翻訳などはせずに、単純に「呼びかけ」と訳した方が良いとする人もいます。そうすると、この箇所は、「私たちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、呼びかけを豊かに下さる神がほめたたえられますように。」ということになります。私はこれもなかなか味わい深い翻訳であると思います。
 慰めを豊かに下さる神、その神の慰めとは、慈愛に満ちた父なる神さまからの豊かな呼びかけなんだ。神さまが、たくさんの言葉を掛けてくださる。悲しんでいる私に、しわくちゃになった私の心を温め伸ばし、再び立ち上がることを可能にする生ける言葉を届けてくださる。
 聖書によって、説教によって、聖餐によって、私たちを元気にする言葉を届けてくださる。しかし、何よりも、神さまが私たち一人一人に与えてくださる慰め豊かな言葉というのは、変幻自在の言葉ではありません。変幻自在の多種多様な方便によって、宥め、すかし、励まし、慰め、寄り添い、時に突き放し、時に叱咤し、悲しみや苦しみによって心を強張らせてしまった者たちに、豊富なオプションを持った豊かな言葉を用い、薬箱の中から一番合った薬を取り出して処方するように落ち込んだ心を癒し、立ち上がらせるというのではないと思います。慰め豊かな神が私たちに下さるのはただ一つの呼びかけ、ただ一つの言葉です。
 聖書によって、説教によって、聖餐の食卓によって、慰め豊かな神さま、呼びかけ豊かな父なる神さまが、私たちにお送りくださる豊かな慰めであるただ一つの言葉というのは、御子イエス・キリスト、神が示してくださった唯一の神の言葉であるイエス・キリストそのお方の事であると思います。
 神さまの言葉を聴きたい、神さまの思いを知りたいと思ったら、どこに行けばいいのか?たとえば、日本に住む者が直ぐに思いつくのは、自然の中に出て行くことです。山に登り、川に赴き、海を目指し、手つかずの自然、あるいは、人間の手では作り出せない大きな力を秘めた自然の元に行き、瞑想でもしていると、神さまの声が聞こえてきそうな気がいたします。自然の中にどっぷりと身を浸しながら、この頭上に広がる満天の星空の先にも永遠のように広がる宇宙、終わることを知らない寄せては返す波の営み、そういうものを五感で感じていると、狭く四角い部屋の中で起きる出来事が全てのような気がしていたのがばかばかしくなってくる。自分も宇宙の大きな営みに属する命のきらめきだと思うと、何とも言えないリラックスした気持ちになれる。ああ、自分は宇宙の子だ。この永遠の命の営みの中に、入れられている神の子だ。私もそういう気持ちはよくわかります。
 けれども、神の慰め豊かな声、豊かな呼びかけは、そこで聞こえてくるようなものではありません。私たちが慰め豊かな神の御声、絶えることなく語られ続ける豊かな神の御声を聞く場所、それは、神の子イエス・キリストにおいてです。
 慰めという言葉の元になる呼びかけという言葉は、文脈によって、色々な訳し方が可能だと言いました。励ましともなる、戒めともなる。場合によっては、叱るための呼びかけだってあり得るのです。
 けれども、神が私たちにしてくださる呼びかけが、新共同訳聖書がそう訳したように、無色透明な呼びかけではなく、いつでも、慰め豊かな私たちの天の父の呼びかけとして聴けるのは、御子イエス・キリストのゆえです。
 イエス・キリストの出来事、イエス・キリストそのお方が、いつも神の言葉として私たちの前に現れていてくださるから、神さまの言葉をいつもこのイエス様を通して聴くことができるから、説教の言葉と聖餐のしるしによって、御子が私たちのために、私たちの味方として共にいて下さるという教会に託された言葉において、神の声は、いつでも慰め豊かな父の声として聴くことが許されるのです。
 つまり、聖書の言葉、説教の言葉が、慰めとして響いてくるためには、そこにイエス・キリストを見出さなければならないのです。
 苦しみの中にある時、悲しみの中にある時、聖書をパッと開いてほんの小さな言葉に慰めを受けるということがありますが、そこで本当に私たちが慰められる時は、ちょっとためになる言葉を見つけた、自分の生活に適応できそうな言葉を見つけたということでなしに、私たちがその聖書のほんの小さな小さな言葉に出会うとき、そこで主イエスを見出した時ではなかったでしょうか?私が自分の生き方をどうこうしようとする前に、この私の救い主として、すでに悲しみの中、苦しみの中にあるわたしたちと共にいて下さるキリストのお姿に出会わされたときではないでしょうか?
 豊かな呼びかけの言葉、しかも、最終的には慰めとしてのみ響く神の豊かな言葉とは、ただお一人、真実の神の言葉、神の御心そのもの、その方以外からは、私たちがどんな出来事からも、どんなものからも、神の言葉を聞く必要のない、神の思いそのもの、独り子イエス・キリストのことです。
***
 私は今日の説教を準備しながら、ヨブ記のことを思い出していました。
 旧約聖書に登場する苦しみの人ヨブ。財産を失い、子を失い、健康を失い、ヨブを見舞いに来た友人たちは、それと見分けられないほどの姿になっていたヨブを見て、七日間絶句してしまったと言います。
 傍らに座っていても、ヨブの激しい苦痛のさまを見ると、話しかけることもできなかったと言います。八日目ヨブは口を開くと、神に抗議する声、自分の産まれたことを呪う声を挙げ始めました。
 私は、友人たちが黙って七日間傍らに座ってくれていたからこそ、挙げ始めることができた神への抗議の声ではないかと思いますが、それは置いておくとしても、友人はヨブの抗議の声に耐えきれなくなります。まあ、ヨブが語り出すほどに元気になったように見えるからこそ、友人たちも、語る言葉を思いついたのかもしれません。友人たちは、豊かな言葉によって、ヨブが自分の産まれを呪うこと、また、神に抗議することを思いとどまらせようとします。
 「あなたを疲れさせてしまうかもしれないけれど、あえて、ひと言だけ言わせてくれないか?どうして、今まで苦しんでいる人を慰めてきたあなたが、自分が苦しみに陥ると、そんなに弱くなってしまうのか?人間は皆苦しむものじゃないか?むしろ、その苦しみから人間の小ささを思い、慈しみ深い神さまのなさりように甘んじるべきではないか?」
 また別の友人は言います。「あなたが正しく歩んできたからといって、子どもたちも正しいとは限らないじゃないか?あなたとはあなたの神の出会い方、子どもには子どもとの神との出会い方がある。若くして命が断たれたとしても、それは神にお任せすべきではないか?神はあなたに必ず幸せを返してくださるから、待ってなさい。」
 また別の友が言います。「神の御心は神秘的なものだ。良いか、悪いかは最後までわからない。今、判断を下すのは、やめた方が良い。」
 よく言われることですが、ヨブ記を読むと、ヨブの友人たちの呼びかけの言葉、その性格は、諭しの言葉であり、励ましの言葉であり、戒めの言葉でありますが、彼らの言葉というのは、非常に信仰深い言葉なんです。結構深い洞察を語る言葉なんです。私たち信仰者が座右の銘にしてもいいような言葉なんです。だんだんと、議論が煮詰まると、それこそ宗教信者らしい通り一遍の事しか言わなくなりますが、特に最初の方の言葉というのは、なかなか心を打つ言葉があります。
 「今はつらいかもしれないけれど、神さまにお任せしようよ。神さまの正義を信じようよ。神さまは必ず良くしてくださるよ。」実に、励まし深いのです。
 けれどもヨブは慰められません。黙れません。委ねられません。どんな呼びかけの言葉もヨブには届かない。届かないから、ヨブの友人たちもとうとうもう一度、沈黙しなければならない状況、慰めの言葉、励ましの言葉を失った状況に陥って行きます。
 そこでなお、もしも、ヨブに語ることができる者がいるとすれば、それは神さまだけだという地点が人にはあるんです。
 これは、実は私たちの誰もがよく知っている地点だと思います。私のような牧師という働きをしている者も、しばしばこういう地点にぶつかります。慰めの言葉を掛けようもない。言葉を失ってしまう。絶句してしまう。その傍らに静かにしている以外は、余計なことであるような場面というのがあります。だから、私は、たとえば、人の死の床に駆け付けるようなときは、あんまり、いい顔ですねとか、でも、皆さんに会えて良かったですねとか、苦しみが短くて良かったですねとか、90歳まで生きたら、大往生ですねとか、言いません。言えません。苦しみと悲しみに寄りそうというよりも、自分が納得したいだけの言葉かもしれないと思うからです。言葉を失う地点というのはあると思います。ヨブ記はそういう私たち人間が置かれる状況というのをよく知っていると思います。
 けれども、そういう私たち人間の限界状況の中、絶句する他ない所において、ただ一つ立言葉があります。あらゆる困難の中にあっても、止まることなく、私たちに呼びかけ続けている言葉、私にも、あなたにも、あの人にも、この人にも、色々な深さと広さを持ったありとあらゆる苦難、他の誰とも、本当には共有できず、黙って担う他ない、耐え忍ぶしかない地点に向かって、なお、呼びかけてきて、飛び込んできて、励ましでもなく、戒めでもなく、叱責でもなく、裁きでもなく、たとえ最初は、そのような姿をして、私たちに迫ってきたとしても、最後は、ただ慰めとして、ただただ慰めとして、私たちの心を訪れて、そこから決して離れることなく私たちの心にそれ以来、永遠に住み着いてしまう言葉があります。
 その言葉とは、イエス・キリストです。神の言葉、神の思いそのものであられるイエス・キリストそのお方です。
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 旧讃美歌の257にこういう歌があります。
「十字架のうえに ほふられたまいし こよなくきよい み神のこひつじ わがため悩みを しのびたまいし みめぐみげにもとうとし」
 主イエス・キリストの十字架、この方の痛みは私たちのため、私たちの悩みのためです。この方が負った十字架は、私たちの罪と弱さのための十字架です。
 「慰め」とも「呼びかけ」とも訳されるパラクレーシス、パラカレオ―という言葉は、「傍らに呼ぶ」というのが、更に直訳的な意味です。それは私たちの傍らにおられる方の声です。十字架に至るまで、陰府に至るまで、徹底的に私たちを追いかけてきて、味方となってくださった方の声です。あらゆる苦難に呼びかけることができる、神の豊かな慰めとは、見えない言葉である説教と、見える言葉である聖餐の言葉が、指し示しているただ一つの言葉、十字架のキリスト、インマヌエルのことなのです。
 私ははっきりと申し上げたいと思いますが、私たちが苦難の中にある時、私たちが罪の重荷に打ちひしがれる時、私たちが見上げるべきは、救われた自分でもなければ、神の子となった自分でもありません。わが悩みを負いたもう十字架のキリストです。自分のことは忘れてしまって、ただこの十字架のキリストを見上げることが許されているのです。
 そこにあらゆる苦難を乗り越える命があります。そこに豊かな慰めがあります。この私たちにとって、慰めであることは、苦しみを乗り越える力を持った超人になることではなく、このキリストの者となることです。このお方は、どんな私であっても捨てることなく、十字架と陰府にいたるまで担い通してくださる。探しに来てくださる。連れ帰ってくださる。これが、これだけが、私たちが信じることの許可されている神の最後の言葉、究極の神の御意志であります。神はほむべきお方です。

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