週報
説 教 題 「同じ霊に導かれて」
聖書個所 コリントの信徒への手紙Ⅱ12章14節から18節
讃 美 歌 380(54年版)
牧師として働いていて嬉しいこと、喜ばしいことは色々ありますが、一番の喜びは何と言っても、一人の人が洗礼、あるいは信仰告白へと導かれていくことを目の当たりにすることです。どちらの場合も、本人が気付かずして、気付かない内に、既に2000年前にあのイエス・キリストの十字架において、しっかりと私たちの手を握ってくださった神さまの手を、私たち人間の側でも握り返す出来事です。
罪と死と滅び、悪魔の虜であった私たちを、キリストの十字架において、御自分のものとして分捕り返してくださった神さまの断固とした救いの業をこの私のための出来事として、神さまのことを「この私の天のお父さん」と呼ぶ喜びを受け取るのです。
私がこの教会に遣わされる前に仕えていた神奈川県にあります鎌倉雪ノ下教会は、雪ノ下教会独自の信仰告白を言い表した『雪ノ下カテキズム』という文書を持っています。
信仰問答とか、カテキズムと呼ばれる種類の文章に、共通することと言って良いと思いますが、決して薄いとは言えない、それなりに分量のある文章の中で、一番最初に、最初の問いと答えで、最初の数行で、一番言いたいことを言うという傾向があります。
『雪ノ下カテキズム』も例外ではなく、300ページを超える文章の中で一番言いたいことは、最初の4行に語られています。こういう言葉です。
問1 あなたが、主イエス・キリストの父なる神に願い求め、待ち望む、救いの喜びとは、いかなる喜びですか。
答 私が、私どもを神の子としてくださる神からの霊を受けて、主イエス・キリストの父なる神を、「私の父なる神、私どもの父なる神」と呼ぶことができるようになる喜びです。神は、いかなる時にも変わらずに私の父でいてくださり、私の喜びとなり、誇りとなってくださいます。
耳で一度聞いただけでは、もしかしたら、聴き洩らしてしまう部分があるかもしれません。しかし、単純なことです。心に刻みやすいように、言い換えてみれば、こうなるでしょう。
私たち教会が喜んでいる救いの喜び、一緒に喜ぼうと、この世に向かって呼びかける救いの喜びとは何か?
それは、イエスさまのお陰で、イエスさまの父である神様を、この私のお父さん、私たちのお父さんと呼ぶことができるようになる。どんな時も、もう二度と変わらずにということです。
この信仰問答は、ドイツ語にも訳され、『日本カテキズム』という名で、出版されました。
ただ一つの教会のためだけの文章ではありません。日本に生きる全ての者たちに、聖書の告げるイエス・キリストの良き知らせとは、要するにどんな喜びをもたらしてくれるのか?どんな誇りを与えてくれるのか?
日本に生きる牧師が、日本人に語りかける言葉として、これが福音の急所だと信じ、書き記した言葉です。
イエスさまによって、神様がどんな時も、この私の、私たちのお父さんでいてくださり、私たちの喜びと誇りの絶えることのない源泉となってくださった。これが聖書が、いいえ、神様が私たち日本に生きる者たちに差し出してくださっている救いの喜びです。
あるアメリカの著名な神学者の甥っ子が日本人女性と結婚しました。しばらくして、その甥が、神学者であるおじさんにこう語ったそうです。
「日本に来て初めてキリスト教を尊敬するようになった」って。「どうして?」と尋ねると、「日本の文化は、物質主義に対して歯止めのない文化なんだ」と言ったそうです。
もちろん、日本人の方がアメリカ人よりも欲深いというのではありません。しかし、アメリカではいつでも教会の中から、「神さまはそんなことを望んでおられない。人間の一生は何を持っているかなどということでは判断されない」という疑問の声が上がると言います。「でも日本では、そういうことがまるでない…だからこそ、キリスト教は日本において本当に伝えるべきことがあるかもしれない」と、語ったそうです。
こういうエピソードを聞いて、私たちは得意になることはできません。教会としてその声を共に生きる人々に届けられていないことを申し訳なく思います。しかし、一人のアメリカ人キリスト者が日本に来て、こういう感想を抱いたということには、教会の使命を改めて問うためにも聴くべきところがあると思います。
もう10年以上前の文章なので、これがそのまま私たちの国の現在を語る言葉であるかどうかは、検討の余地があると思います。多分、もはや、すべての世代の誰もかれもがこのような物質主義の中にあるとは言えないと思います。若い世代に行けば行くほど、ものを所有するということに淡泊になっているようにも思います。
けれども、それは、車や家など良いものを持つことによって、自尊心が満たされることから、その対象が変わっただけのように思えます。
たとえば、SNSで紹介する自分のライフスタイルや投稿にたくさんの「いいね」をもらうこと、たくさんのフォロワーという名の共感者を得ることが自分の自尊心を満たす手段に取って代わっただけのような気がいたします。
だから、良いものを所有することに振り回されてしまう私たち大人と同様に、子供たちに対しても、教会には語る言葉、届けなければならない言葉があると思います。
「神さまはそんなことを望んでおられない。人間の一生はどれくらい大勢の人に共感されたか、多くのフォロワーを得たかなどということでは判断されない。」
しかし、私どもはこの今の世の価値観、現代文化に挑戦する教会発信の言葉を、こうした否定的な言葉ではなくて、もっとずっと違った言葉として、聴いてきたし、語り続けるように召されています。
つまり、私たちは次のように聴いてきましたし、それをそのまま次の人に手渡すために語ります。
「イエスさまのお陰で、イエスさまの父である神様を、この私のお父さん、私たちのお父さんと呼ぶことができる。どんな時も、もう二度と変わらずに。この世にあるどんなものも、どんな評価も、私たちを、キリスト・イエスによって注がれたこの神の愛から引き離すことはできない。」
もうお前を離すもんかと、私たちがどんな者であっても、ぎゅっと握ってくださる天の神様の御手、私たちをぎゅっと握りしめ、御自分の懐に宝物としてしまってしまった神様の御手、それがイエスさまの十字架の出来事でした。神様の御手が、離すもんかとこの地に生きる私たちをも包んでくださっています。
その神様の御手に気付かされ、自分でも握り返すことが許された、喜んで握り返さずにはおれなかった使徒パウロは語ります。
15節です。「わたしはあなたがたの魂のために大いに喜んで自分の持ち物を使い、自分自身を使い果たしもしよう。」
自分の持ち物、自分自身を喜んで手放そうとこの人は言います。
物質だけではありません。自分自身を喜んで手放そうと言うのです。たとえば、この自分自身という言葉の中には、自分のライフスタイル、自分の誇り、「いいね」の共感とフォロワーを手放すことをも含んでいると言っても、良いと思います。
自分の尊厳、自分の居場所を守ろうとする自分の全ての企てを手放すことができるということだと思います。
なぜならば、パウロの喜びと誇りは、パウロが作り出したり、守ったりする必要のあるものではなくなっているからです。
「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と言って、イエス・キリストの命丸ごと私たちに注ぎ込んでくださった神さまのゆえに、「わたしは弱いときにこそ強い」と言う他ないパウロだからです。
キリスト者とは、キリストの十字架の死によって、買い取られ、イエスさまに結ばれて、神さまの所有となり、その命を、父なる神様の懐深くに隠されたことを公言する者たちのことです。
自分の尊厳と誇りは、誰も手を触れることができない父なる神様の懐深くに、隠され、守られていることを知る者たちです。
この世のどんな言葉、どの価値観によっても、最終的に判断されないのです。それらによって最終的に見切られ、名付けられることがないのです。
今人からそう見られたいと願いながら装う表面的な私を見ても、あるいは心の底に隠している汚い本音を見透かされた私を言い当てられたとしても、どちらも本当の私を見たことにはならないのです。
本当の私、イエスさまによって、神の子、神さまの宝物となった私は、天の父のもとに、いかなる時も、変わらずに、喜びと誇りの内に生かされているのです。
だから、パウロは自分の持ち物を使い果たすこと、自分自身を使い尽くすことに頓着しません。そこに自分の魂がないからです。それは全部、父なる神の内にあり、父が変わらずに守ってくださいます。
このように神が、御自分の子として迎え入れてくださる人間、その独り子イエス様の命と交換してまで、御自分のものとしたかった人間とは、高級な人間、あるいは、磨けば光る原石のような人間ではなく、ありのままの私たち、あるがままの私たちのことです。
古くから教会が原罪を持った罪人と表現してきたような、根っから、貧しく、弱く、邪悪でさえある私たちのことです。
イエスさまに支えて頂かなければ、イエスさまに仲介して頂かなければ、今もなお、父なる神様の前には立ちようもない私たちのことです。
その私たちがあるがままで丸ごと神の子、神の宝と呼ばれているのです。安心して良いのです。自分の中に、深い闇を見つけても、私たちの尊厳と誇りが翳ることはありません。そんなことは、全部お見通しの上で、神さまは、私たちを招かれました。
私たちの現在進行形で明らかになっていく無力さ、罪深さもまた、私たちが神の子であることを、辞めさせることはありません。
なぜならば、私たちの罪は、全てキリストが十字架で担い、反対にキリストの手柄が、全部私たちの手柄として数えることを、神さまが永遠に覚悟されたからです。
このような教会の語る福音を耳にした者は、とても危ない教えだと思いました。
とてもとても危ない。どう生きたって、何をしたって、自分の誇りも喜びも、傷付かない。人にどう思われようが関係ない。嫌われたって、究極、構わない。価値ある人間と見なされるために、神のものと呼ばれるために、善行に励もうとはしない。そんな人間が誕生してしまったからです。
だから絶えず、この危険な福音を語るパウロに対して、問われ続けた問いがありました。神はいかなる時も変わらずに、私の父でいてくださると言うが、本当に「いかなる時も」と言い切ってしまって良いのだろうか?それは人間を我がままにするか、怠け者にするかのどちらかではないだろうか?
けれども、今日の聖書箇所においてパウロ自身の実例を見るならば、自分自身の持ち物や、行動、自分自身の性格や能力を輝かせることによって、自分の存在価値、存在理由を証明することを捨ててしまっているパウロは、少しも自分勝手には生きていないのです。
どう生きたって、何をやったって、神の内に隠された自分の喜びと誇りは傷付かない、奪われないと、我がままに生きることもなければ、もうこの世で頂くべきものは頂いたと隠居して生きることもありませんでした。
そうではなく、隣人のために、自分の持ち物も、自分自身も使い果たしてよいという愛に生きました。
なぜでしょう?それは本当に空っぽになったからです。本当に空っぽになり、代わりに神さまの愛が彼の身も魂も占領しているからです。自分がもう自分自身のものではなく、イエス・キリストのものとなっているからです。
実は私は今日のパウロの言葉を読みながら、どうにも受け入れがたいと思う言葉がありました。
それは、14節後半の言葉です。「わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。子は親のために財産を蓄える必要はなく、親が子のために蓄えなければならないのです。」
パウロが親で、コリント教会員が子供。果たしてそれで良いのだろうか?と思いました。牧師が親で、それ以外の人たちが子供。それはおかしいのではないかと思いました。
お世話する側とお世話される側、愛する側と愛される側、伝道者と教会の関係がそんなことで良いのだろうか?そんなことだからいつまでたっても日本の教会は伝道する教会にならないのではないか?
本来教会とは、それぞれが成熟した人間として、お客様は一人もなくて、教会員一人一人が責任を持って主の体と呼ばれる教会の部分部分を責任的に担うものではないだろうか?
別の時に語られたパウロの言葉を思い浮かべながら、そう思いました。
しかし、神の内にその命が隠されているゆえに、この世における自分の持ち物も、自分自身さえも使い果たすことを躊躇しない、何ものにも縛られない自由なパウロの言葉を聞きながら、思い直しました。
ああこの言葉は、親のようなまなざしでコリント教会を見ているパウロの言葉の背後から、父なる神ご自身のまなざしが、透けて見えてきているんだと。
これはパウロ自身の内側から湧き上がる愛ではなく、外から空っぽになったパウロを満たし、また、そこから溢れ出し、流れ出ていく、イエス・キリストの父なる神様の狂おしいほどの愛なんだと。私たちを子と見なす天の父の愛です。
それはコリント教会を現に設立した開拓者であったパウロの親心ではなく、そもそもパウロをその地に送り込み、御自分の成し遂げた恵みの業を告げる良き知らせを語り聞かせたい神さまの私たち人間に対する親心です。
このような神の親心の盛られた器として生きるのは、パウロだけではありません。18節に、テトスという人が出てきます。パウロの弟子のような存在であり、またパウロの同僚です。
パウロははっきりと言います。このテトスもまた、あなたがたの間にあって、わたしたちと同じ霊に導かれて、わたしたちと同じ模範に倣って歩んだと。いいえ、テトスだけではありません。18節にはテトスの他に、名前の記されていない「あの兄弟」と呼ばれる人がパウロたちの同伴者として数えられています。
独りではありません。パウロにだけ起こる特殊な出来事ではありません。キリストに結ばれ、ただキリストのゆえに、神の子とされた全ての者たち、神の内に隠された者たち、空っぽになった者たち、しかし、キリストの命に満たされた者たち、皆が、神の親心に満たされて生きるのです。するとキリストご自身が私を用いて、この世を歩んでくださるということが起こる。
神が愛しい我が子と見ている自分であり、隣人であることに心が占領されて生きる、そこに造られるキリスト者の歩みです。
独りきりではありません。福音に生きる者は教える者、聴く者の区別を越えて、皆、そうなるのです。私も、皆さんも、ここにいる全ての者が、神の内に命隠され、安心して自分を手放して、空っぽになって、天の父の親心に満たされ、キリストに自分を生きていただくもう一人の兄弟となる。
かつてある若者達と、有名なルカによる福音書第15章の黙想をしたとき、洗礼を受けていたその中の一人が、15:7の「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」という主イエスの言葉を読みながら、こういう風にわたしに語ってくれました。
「自分が洗礼を受けた時、何にびっくりしたかというと、皆が喜んでくれたこと。まだ一回も話したことのなかったおじいちゃん、おばあちゃんまでが、目に涙を浮かべながら、洗礼を受けた自分以上に、自分の洗礼を喜んでくれたこと。本当にそれに驚いた。一人の人が悔い改めた時に起こるという天の大きな喜びを、垣間見た思いがした。」
牧師が一番嬉しいと思うことは、牧師だけではありません。福音に生かされる者、皆の喜び、教会の喜びです。そしてそれは、人間の喜びへと結実した神ご自身の喜びの反射、天がどよめくほどの神の爆発的な喜びの反射、伝染、溢れ出した神ご自身の喜びです。
私たちは独りきりではありません。小さく貧しい群れであっても、神の愛は、小さな空っぽなパウロを通し、テトスを通し、名前の知られぬあの兄弟を通して、流れ出し溢れ出したように、小さく空っぽな私たちを通して、溢れ出そうとしているのです。そこにまた、コリント教会の悔い改めが起こる。異邦人の悔い改めが起こる。皆が同じ霊と同じ模範に従って歩むようにされる。
いいえ、私たち自身が今日ここで、もう一度、悔い改めさせられ、安心して今一度空っぽになって、神の愛に満たされ、50人、60人の小さなキリストとなって、隣人のもとに神の愛と喜びを反射する者として送り出されていくのです。
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