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10月25日礼拝

「喜びへの協力者」 

週報

聖書個所  コリントの信徒への手紙二1章23節から24節
讃  美  歌    191(54年版)

 私が時たま名前を出します竹森満佐一という昔の牧師ですが、実は、この方は、中国の大連においてトマス・ウィンから幼児洗礼を受けたということを最近知りました。トマス・ウィンというのは、あまり説明はいらないかもしれませんが、明治時代に金沢で活躍した宣教師で、北陸学院を作ったり、金沢教会を生み出したり、私たち元町教会も、ウィンによって生み出された教会であるという言い方もできます。ウィンから洗礼を受けた北陸最初のキリスト者である長尾八之門と、元町教会初代牧師である息子、長尾巻が、ウィンの助けをも借りながら、伝道して形成されて行った教会が私たちの教会です。長尾親子と、竹森牧師は、共に、ウィンの信仰の子供と言っても良いのです。竹森牧師と、私たちの教会が信仰の血筋的に、非常に近いということに驚きました。だから、今後も安心して竹森牧師の話をして行こうと思いますが、今日は、先ず、その竹森牧師が、パウロの手紙というのは、こういうものだと語った印象的な言葉をご紹介したいと思います。

 竹森牧師は、パウロの手紙のことを、評してこう言います。「自分の信仰をまるでぶっつけるように書いている。」と。日本を代表する名説教家らしい印象深い表現ですが、まさしくパウロの熱さを伝える言葉だと思います。信仰をぶっつけるとは、どういうことでしょうか?それは、パウロの存在と一つになっている信仰ですから、存在を賭けて語っいている。体当たりするように語っている。パウロの言葉は、とにかく熱い言葉です。熱いを通り越して時に、圧力のある言葉です。そういう存在をぶっつけるような言葉をパウロという人は語りました。

 今日の個所も、同じようにパウロが体当たりしてくるような言葉であると思います。23節、「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが、わたしがまだコリントに行かずにいるのは、あなたがたへの思いやりからです。」ここにも激しい言葉が語られています。「神を証人に立てて、命にかけて誓う。」こんな言い方、私たちの生涯において、そう何度も語る機会のある言葉ではないと思います。神の前に命をかけている。自分の存在をかけている。もしも、その言葉に嘘があるならば、神に罰せられてもいい。命を失っても良いということです。まさに、自分の存在をぶつけるような、ずいぶんたいへんな誓いをここでパウロはコリント教会の人々に対してなしているわけです。

 しかし、その内容を落ち着いて見てみますと、少し拍子抜けするようなところがあります。というのも、パウロがここで神の前で自分の命をかけて、誓っていることは、コリント教会を訪問しないでいるその理由を語るためだけのことなのです。再三、訪問の予告をしておきながら、今も訪れないでいる。そのことで、コリント教会の人たちからの不満が聞こえてくる。その不満、その疑いに応えるために、まだ訪問しない理由を弁明するために、パウロは神を証人に呼び出し、さらに、自分の命を懸けてしまうんです。私たちからすれば、大げさなことのように思います。けれども、パウロは真剣であったのだと思います。

 いつでもパウロは、教会宛の手紙に、命を懸けていたと思います。やがて、この手紙を読み進めていく内に、「面と向かっては弱腰だが、離れていると強硬な態度に出る」と評価されていたり、「手紙は重々しく力強いが、実際にあってみると弱々しい人で、話もつまらない」という自分への悪口を紹介していますが、それらの言葉からも、パウロの手紙の持つ力というのは、パウロを批判するものでさえ、認めていたことなのでしょう。だから、私たちの今手にしているパウロの手紙というのは、パウロの命がけの手紙であり、魂の籠った言葉だと、そのことを弁えながら、反発するにせよ、受け入れるにせよ、こちらも真剣に読むことが求められていると思います。

 しかし、こういう真剣さ、熱さというのは、何もパウロだけに特別なものではないだろうと思います。最近、哲学者であり、信仰者であったキルケゴールという人について、学ぶ機会がありました。色々難しいことを言うこの人が大切にしたことは、結局、情熱ということです。自分がそのために生き、また死ぬことができる、そういう自分の人生を見つけ、生きようということであったと学びました。ただ惰性に流されて生きるんじゃない。賢く立ち回って、心地よく生きることでもない。不器用でも、衝突の連続であっても、自分らしく生きる、自分を燃やして生きる。誰もがそんな風に生きる時、はじめて自分を生きることになるのだと、キルケゴールは申しましたが、キリスト教信仰に生きるとは、特にそういうものであると思います。惰性で生きているならば、この信仰には生きられないのです。自分はそんなんじゃない、無自覚に生きていると謙遜なさる方もおられると思いますが、この日本で、キリスト者として生きることは、無風状態でもなければ、追い風を受けて進むことでもなく、やはり、ある種の戦いに身を投じることであると思います。毎週、ここに足を運ぶこと、あるいは、自宅で音声を聴きながら、礼拝を捧げることも、既に立派な戦いであると思います。そのようにして実に、99パーセントの人とは、違った人生の時間の使い方をしているのです。これという的を定めた命の使い方をし始めているのです。一人一人がキリストの良き兵卒です。

 信仰を与えられた人間は、一筋縄にはいかなくなった人間です。惰性ではなく、自覚的に生きる人間です。その信仰を持った人間が、自分の信仰を語る際には、やはり片手間に語るというわけには参りません。妄信的になるということとは、違うことですが、熱のない語り方はできないはずです。つまり、十分筋道だって論理的に語りながらも、自分の信仰を語るときには、やはり、心が燃えざるを得ない。言葉に自分の体重が乗っかてくる。自分の存在をぶつけるようにしてしか、語ることはできないものだと思います。しかし、それは、伝道者だけじゃありません。8月の長老の説教も、私たちの教会では度々その機会がある、次週もまたその機会に与ります、証しの機会も、自分の信仰について話している内に、心が燃えて来ないということはない、存在のかかっていない言葉はないのです。

 そしてまた、私達がそのような信仰者であるのは、祈っている時間だけでもなければ、礼拝を捧げているこの1時間の間だけでもありません。日曜日だけでなく、平日も、たとえ、自分はキリスト者だと宣伝して回って歩かなくても、全ての時間の、全ての瞬間において、私たちは、存在丸ごとキリスト者として生きています。コーラム・デオ、「神の御顔の前」、という言葉がある通り、私たちは、24時間、365日、神の御顔の前にある者として生活を営んでいます。この意味において、ずいぶん大げさなことではないかと申しましたが、旅行計画一つを取って、神を証人に立てたり、自分の命を懸けたりすることは、大げさなことでも何でもなくて、私たちがいちいちそこまで意識していることはないかもしれませんが、コーラム・デオ、神の御前にあるわたしたちの人生の有様そのものであります。神さまの御顔を避けては、何事もできないですし、そのお方の前では、いつでも私たちの人生は本番です。リハーサルではありません。私たちの全ての時間、全ての瞬間が、神の前での、私たちの命の本番です。だから、パウロの言葉は大げさでも何でもありません。どんな些細な約束も、誓いの言葉も、神の御顔の前における、私たちの命まるごとによる約束です。

 それは、考えてみれば、洗礼を受けたキリスト者だろうが、まだその機会に与っていないか関係なく、人間の命の置かれているありのままの人間の有様です。皆が、いつでも、神さまの御顔の前に置かれている。しかし、キリスト者は、そのありのままの有様を、私たちの命の事実として、認めているのです。そして、その事実を知り、認めている者は、当然、その事実にふさわしく、全ての言葉、全ての行動に、そして特に、信仰を語る際には、その言葉に、自分の存在の重さがいつでも乗っかるのです。パウロの言葉の特徴はそういうところに作られていると思います。だから、力強く、圧が強いのだと思います。

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 ところで、圧の強い言葉というのは、一般的に言って私たちを不安にさせるのではないでしょうか。圧の強い言葉が迫ってきたら、それに強い反発を覚えるか、あるいは、自分に自信が持てず弱っている時には、服従してしまうということが起こるのではないでしょうか。事実、親だろうが、友人だろうが、上司だろうが、教師だろうが、圧の強い言葉で向かい合ってくる人間というのは、基本的に、私たちを服従させ、支配しようという意識的、あるいは無意識的な意図を持ちがちであると思います。特にそれが、宗教がらみ、信仰がらみとなると、善意にしろ、悪意にしろ、いよいよ、この言葉の圧力を用いた支配と服従の構造というものが、人間関係の中に、忍び込みがちです。それは、不必要な対立を生むだけではなく、共依存関係をも生みます。

 これは、自戒を込めて申しますが、牧師を筆頭として、長老や、長年の信仰者は、よほど気を付けなければいけないことだと思います。自分はその人の信仰を支配してやろうという意思がないとしても、人間は、支配されたいという思いを持つこともありますから、知らず知らずの内に、支配するように仕向けられることもあります。そんなことあるか?と思われるかもしれませんが、それは、当然あります。これが正しい、これに従っていれば間違いないと言われれば、ちょっと納得できなくたって、その通りに自分も言ってれば楽ですから、葛藤を感じないで済みますから、そうしがちです。長いものには巻かれた方が楽なんです。指導する者も、される側も、支配と服従の関係に、陥る誘惑に耐えず晒されています。しかし、その問題の解決の仕方は、教会的ではありません。そのことが今日のところからはっきりと教えられます。

 コリント教会は問題のある教会です。パウロが何通も何通も手紙を書き送ってその課題を解きほぐしていかなければならなくなっている群れです。他の手紙に比べても、パウロは、かなり厳しいことを言わなければなりませんでした。そもそも魂の籠っている言葉に、いよいよ圧が加わるような言葉になっていると思います。けれども、それによって、パウロは、コリント教会の人々を自分の主張に屈服させようというのではありません。彼らは福音が分かっていない。わかっていないから自分がその信仰を半強制的にでも正さなければならないという風には思っていません。

 24節で、パウロは、「わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはない」と言います。自分たちはただ、「あなたがたの喜びのために協力する者」であろうとしていると言います。パウロの言葉は強いこと、圧があることは仕方のないことです。信仰の言葉には、どうしても自分の存在がかかってしまうから、第三者のようには語れないから、どうしたって重いのです。でも、それは、コリント教会の人々の信仰を支配するための力強さではありません。そんな風に、パウロに降参することをパウロは望んでいません。教会と言えども、伝道者と教会員と言えども、そういう関係を築いてはいけない。伝道者に従うことは、即座に神に従うことだみたいなことになってはいけない。伝道者は人間ですから、また教会員も人間ですから、そして人間は、支配と服従の関係に甘んじやすいものですから、教会内に、その構造が生まれてしまう危険性はいつでもあります。でも、パウロの今日の言葉を私達は肝に銘じておくといいと思います。伝道者とは、信仰を支配する者ではなく、ただ喜びのために協力する者。協力するというのですから、その人に取って代わって、私の教えに黙って素直に従えと言うのではなくて、自分で信仰を見つけ、それに生きられるように協力するのです。そういう基本があるのです。

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 しかし、さらに、第6章まで読むとわかりますが、より深い次元では、神に協力するのです。信仰を支配するとは、おそらく、具体的な信仰の形を与えるということを意味するでしょうが、伝道者が、人に信仰を与えることなどできないのです。それぞれの人が自分で信仰を見つけなければなりません。けれども、もっと言えば、人間は自分で信仰を持つことはできません。それはただ神さまが作り出してくださるものです。神さまが信仰を与えてくださいます。だから、伝道者が協力者であるというのは、信仰を人間に与えてくださる神さまに協力することです。その神さまに協力する者として、信仰を求める人の手助けをするのです。

 しかも、神さまは、本当は伝道者の助けを借りなくても、それがおできになるのです。ただ、神さまの親心のような憐みとユーモアにより、私達も協力者として選ばれるのです。ちっぽけな人間を、御自分の協力者として用いてくださるのです。もちろん、それは、牧師だけではありません。ルターの語った万人祭司とは、また、万人牧会者、万人伝道者と言い換えることも可能なことです。一人の人に信仰が与えられるために、最終的に洗礼を授ける牧師の背後で、どれほど大勢のキリスト者が用いられるか、わからないのです。だから、牧師だけが、神の協力者であるということはおこがましいことです。今、皆さんが日常の中で為している、言葉と行動のすべてが、誰かの将来の洗礼のための神さまへの協力として用いられています。そのことを信じて良いのです。もちろん、私たちには足りないところがあります。でも、一人で何でもおできになる神さまが、敢えて、私たちをその足りなさを御承知の上で、協力者としてお選びになりましたから、安心して、精いっぱい神の協力者として生きればいいだけです。神の役割まで果たそうとしなくて良いのです。人の信仰を操作しようとしなくて良い、支配しようとしなくて良いのです。

 その代わりに、私たちは人に対して、思いやりを持った行動、別の翻訳では、寛大になってよいのです。それは、色々な言い換えができると思いますが、赦すことと言っても良いと思います。それが具体的にどういうことであるかと言うと、たとえば、パウロにとっては、コリント教会への訪問を延期するということであったのだと思います。顔と顔を合わせて話し合うならば、パウロの存在をかけた言葉により、厳しい裁きを告げざるを得ない状況があったのでしょう。顔と顔とを合わせて話すならば、教会の交わりの中には留めておくことはできなくなってしまう異なる福音、あるいは、罪を犯した人があったのでしょう。けれども、パウロは、思いやり、寛大さ、赦しを選ぶことにし、コリント教会への訪問を延期いたしました。そして、手紙ではどんなに厳しいことを言っても、最後の最後の一手を打つことはしなかった。コリント教会の人々を追いつめ切り、詰め寄り切ることはしなかったのです。

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 さて、この思いやり、寛大さ、赦しですが、これらは、パウロの人格の高さとか、成熟度とか、人間としての器の大きさとだけ理解するわけにはいきません。むしろ、このような思いやり、寛大さ、赦しを選ぶのは、彼の謙遜、彼の限界、自分の不完全さを知るからではないかと思います。

 確かにパウロの目には、コリント教会の人々がまだ見ることのできないものが見えています。たとえば、主イエスの来られる日に、コリント教会の人々が彼らの誇りとなるということまで見ています。それはまだ、コリント教会の人々には見えていないことです。けれども、パウロにもまだ見えない部分がある。全存在をかけて、自分を生かし、そのために死ぬこともできる福音を精いっぱい語りますが、彼もまた終末前に生きているのです。だから、コリント教会の人の過ちが今、パウロには見えているように、パウロもまた、神さまの目には足りない部分があるかもしれません。いや、必ずあるはずです。だから、神さまに委ねられて、福音を精いっぱい語ることは出来ても、また、その福音が自ずと、異なる福音を裁くということが起きても、最後の最後の裁きを、パウロがすることはできません。神さまにお委ねすることです。それが、彼が、思いやり、寛大さ、赦しを持ちつつ、コリント教会の課題に向き合う向き合い方です。あくまでも、信仰を作り出すことのおできになる神の、憐みによって選びだされた協力者であるとの分を越えないのです。

 しかも、それは、それこそが、嬉しいことだと思いますが、誤っている者は、やがて、神さまが裁いてくださると、足の裏の塵を払い落とすように、最後は、コリント教会の問題児たちを、神さまの手にお委ねするというのではありません。そんなつもりであれば、そんな寛大さは、思いやりとは言えないでしょう。

 しかし、目が醒めるような24節の後半の言葉があるのです。「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。」と、パウロは、コリント教会の人々のことをそう見ているのです。

 あなたがたの信仰はぐらついている。異なる福音に傾いている。あなたがたは間違っていると、パウロが言うことは不思議がないことです。だから、お手上げだ。後は神さまにお任せするというのではありません。その代わりにパウロは、「あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。」と、コリント教会の人々の立つ、確かな足場、その確かな姿を、認め、語り聞かせるのです。

 なぜ、そう言えるのか?先週の個所を思い出していただければいいのです。神が、その人たちをキリストに固く固く結びつけていて下さるからです。「一体」と言ってよいほどに、私たちの内に、深くその住まいを定め、神への祈りと信仰に生きてくださるイエス・キリストの霊、インマヌエルなるキリストの霊が、私たちの内にいて下さるからです。

 だから、コリントの信徒たちがしっかりとその上に立っているという信仰、この信仰のことを、「まこと」と訳す人がいます。ここを「まこと」と訳すのは、今現にコリント教会の人がしっかりと立っているのは、あやふやなコリント教会の人々の信仰のことではなく、神の「まこと」、神の真実の上だという理解があるのです。私もそう理解した方が良いと思います。つまり、ここでパウロは、「あなたがたは、神の真実の上に、立っているんだ。」と言っているのでしょう。いやむしろ、より彼の心に沿えば、「神の真実があなたがたを下から支えているんだ」ということでしょう。自分が神の真実という岩によじ登るんじゃありません。人間は、いつでも、間違うんです。失敗に傾くんです。それで、落ちていきます。しかし、落ちて行こうとする私たちの下から、大きな鯨のような神のまことが、私たちを下から受け止め、再びぽっかりと浮かび上がらせてくださるのです。私たちを必ず浮かび上がらせ、立たせてくださる神の確かさが、コリント教会の人を下から支えているのです。

 信仰をお与えくださるのが神の業であるならば、伝道は神の業です。生み出された教会を守り、成長させていく教会形成の業も神の業です。全ては神がお一人でおできになること、神以外にはおできにならないことです。しかし、神はあえて、私たちを協力者に選び、そのお手伝いをさせてくださるのです。それがパウロの働きです。私たち教会に委ねられた働きです。こうして、144年間、トマス・ウィンとか、長尾巻とか、無数の教会員の協力者を神が用いて、この教会の伝道と教会形成が続いているのです。

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 私が副牧師として仕えた前任の教会の主任牧師は、いつも、自分は誰かを信仰に導いたことはない、そんな覚えは一人もないと言います。自分は誰のことも洗礼に導いたことはないと言っていました。隣りで見ている私は、そんなことはないと思うのです。毎年、何人も洗礼を受けていく。その学びを、主任牧師が担当していたのです。そこで、信仰の言葉を学んで、洗礼試問会の席では、それぞれに自分の口で信仰を告白されるのです。教会報には、牧師への感謝を述べるのです。だから、自分がこの教会に仕えている間、何人を洗礼に導いたという言い方をする牧師はいるのです。しかし、川﨑牧師はきっぱりと、だれ一人自分は洗礼に導いていないと言います。

 でも、私は、最近、本当にそうだなと思わされています。一年前に洗礼を受けた一人の姉妹のこと、今、洗礼の学びを始めたばかりの一人の人のこと、神さまが導いているとしか言いようがない。私はそのその神さまの後をついて回っているに過ぎないと、思わされています。そしてそのことが慰めですし、そのことが希望です。

 パウロもまた、その希望に生きたのだと思います。喜びの協力者として、自分の分を弁え、神にお従いしたのです。だからこそ、情熱を失わなかった。諦めるということを知らなかったのだと思います。真に逆接的なことですが、神が先頭に立って働いてくださることを信じるゆえに、一生懸命働くことができたのです。

 私たちも同じです。私たちも、自分のことも、隣人のことも諦める必要がありません。必ず神が導いてくださる。喜びへと導いてくださることを信じ、いよいよ福音の真の味わいを体当たりで追い求めながら、神が私達教会を用いてなさる伝道と牧会に、私達も安心して、体当たりで、したからささえているので協力することができるのです。

 

 

 

 

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