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9月6日礼拝

説  教  題  「恵みと平和はどこからくるか」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙二1章2節
讃  美  歌    301 (54年版)

今日もまた、たいへん短い聖書の言葉を読みました。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」あっという間に読み返すことができる小さな一文です。その内容も、どうと言うこともない挨拶の言葉であると読み飛ばすことができそうなものであるとも言えます。

新約聖書の中に収められているパウロの手紙、また、パウロの名で書かれたその後継者たちの手紙には、ほとんど定型句として、同じ挨拶の言葉が最初の方に記されています。

こういう個所を読んでも、私たちの心は動きにくいかもしれません。というのは、現代でも手紙の冒頭にある時候の挨拶は、本当はあってもなくてもいいようなもので、ただ礼儀作法として、書く必要のある文章であり、本文は、挨拶の部分が終わってから始まると考えているからです。

そう思えば、1:1~2は、飛ばして読むようなことができそうなところであり、実際に、ここをほとんど数行で片づけてしまう解説書や、そもそも取り上げず、1:3から、説教を始める説教者もいます。

けれども、今の私たちにとってはどうと言うこともないキリスト者らしい、特に目立ったところがあるようにも思えない常識的な挨拶の言葉に見えますが、パウロの当時は新鮮な挨拶であったに違いないと想像する者もいます。

聖書を読む時には、一つの書物の全体をとりあえず一気に読むと同時に、その小さな部分を非常にゆっくり読むという、その両面がより豊かな聖書との出会いになるコツだと思います。

そのゆっくり読むやり方を、人によって、デヴォ―ションと言ったり、カトリックではレクティオ・ディヴィナ、聖なる読書と呼ばれたり、私は、聖書黙想と呼びますが、その小さな部分をゆっくりゆっくり読むやりかたでここを読んでみますと、いちいち一つ一つの言葉にざらっとした手触りを感じる部分があります。やっぱり簡単に読み過ごすわけにはいかない。

腰を落ち着けて考えてみれば、先ず何よりも、神さまを「父」と呼ぶことが当たり前のことではないわけです。

もちろん、神さまを「父」と呼び始めたのは、キリスト者が初めてではありません。旧約の中にも神さまを父とお呼びするところはあります。

けれども、それは謂わば、たとえのようなもので神さまを表現する様々な言葉の一つとして、この世界を創造され、だから、私たち人間の創造者でもあられるという意味において、「父である神さま」というニュアンスで、語られているだけです。

そこに表現されるのは、造った方と造られた者の逆転しがたい主従関係であり、神を父とお呼びすることができるのだという衝撃の伴う親密さの告白ではありません。

けれども、キリスト者であるパウロの口から、神さまを「父」とお呼びする時、そのように私たちの父として神さまのお名前を手紙に書き記す時、それは全く新しいことなのです。それは、天地万物を造られた主なる神様が、この私たちの「アッバ」、「パパ」、「お父さん」なのだという目の覚めるようなことであったのです。

しかも、キリスト者にとってはこんな呼びかけは当たり前であるかと言えば、そういうことではないと思います。

本当はキリスト者こそ、神と人間との隔たりを知る旧約の民以上に、神さまを父と呼ぶことの衝撃を誰よりも深く知るはずの者であります。

神と人間は作ったお方と造られたものであって、比喩以上には、神を「父」と表現することは許されない断絶があるどころではないのです。

ある牧師の印象深い表現によれば、私たちは神の不倶戴天の敵であったのです。

神を憎み、あわよくば神を殺し、己が神になることをこそ、ひそかに恋焦がれるのが、私たち人間であります。それが聖書の語る人間の深堀りされた真実の姿です。イエス・キリストの十字架において、赤裸々なものになってしまった私たち人間の罪の深さです。

神さまを父と呼ぶことがどんなに畏れ多いことであるか、道理に合わないことか、本当にそのことを知り得るのは、旧約の民ではありません。キリスト者であります。神を父と呼ぶのは暢気なことではないのです。甘ったれたことでもないのです。

私たちが神を父とお呼びする時には、神のお名前をお呼びするのが最もふさわしくない者が、最もふさわしくない仕方でお呼びしている驚くべきこと、不思議なことが、今、ここで現実となっているのだという理解と深い感慨なしには、なし得ないことなのです。

だから、もしも、私たちがこれをつまらない飛ばしても良い挨拶だと考えるならば、私達と頭と心は、錆付いてしまっているのです。

たとえば、有名なルカによる福音書第15章の放蕩息子のたとえ話の中にある放蕩息子の立ち返りの言葉以上の言葉が、私たちの言葉であるはずです。

「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇人の一人にしてください。」

放蕩息子の言葉はここで終わってしまい、彼はふさわしくない者にもかかわらず、その父に、ご自分の息子として、何の留保もなく迎え入れられます。

私はいつも想像するのですが、そのように父に受け入れられ、迎え入れられた息子の、悔い改めと謝罪の言葉は、変わらずにこのままだろうかと想像するのです。

そうではないと思うのです。彼が父に求めた憐みは、このふさわしくない者をどうか雇人の一人として迎えてほしい、それも虫のいい話であることは分かっているということであったのに、彼が考えもしないことが起きたのです。

再び、何の留保もなく、息子として迎え入れられたのです。そうだとすれば、彼の悔い改めの言葉がそのままであったはずなどない。彼の謝罪と悔い改めは、父の愛の深さを味わい喜ぶ彼の喜びの深まりと正比例して、もっともっと深まっていくと思うのです。

そしてその父に迎え入れられた放蕩息子の、記されてはいない悔い改めの深まりと、喜びの深まりを、私たちのこの身で経験しているのだと思います。

御子を十字架に架けるこの私が、私たちが、本当ならば、神の独り子である主イエスにだけ許された呼びかけ、神を親しく父とお呼びすることが許される者とされているのです。

キリスト者は、旧約の民よりも、もっとももっと、自分がどんなに途方もない呼び方を神に向かってしているかを、知るはずの者たちであります。

このような挨拶を互いに交わすことができる者であることに、いちいち驚いたり、喜んだりすることは、そうすべきとか、そうしなければならないということなしに、そうすることができる、そうすることが許されているという、嬉しい許可であると思います。

そしてこのように神を父とお呼びすることができるのは、この短い1:2にも父と並んで登場する私たちの救い主イエス・キリストのゆえです。

 このお方抜きには、私たちは神を父とお呼びすることが、一体どのような深みを持った幸せであるかを知ることはできないし、そもそも神を父とお呼びすることはできません。

 だから、必ず、神を父とお呼びする時には、同時に、神の独り子なるよび主イエスのお名前をお呼びせずにはおれません。

 私が洗礼を授けられ育った母教会では、主なる神様を、「天のお父さま」と呼びかけて祈るのが通例ですが、今はそれに抵抗があります。それはちょっと立ち止まって吟味すべき呼び方であると思っています。

 私達が主なる神様に向かい、「父よ」と、お呼びすることができるのは、御子イエス・キリストに教えて頂いたからです。

 しかも、そのような神さまのことを父とお呼びすることを教わったというのは、単に私たちがそれまで知らなかった神さまと私たちの近さを、主イエスが気付かせてくださったということではないのです。

 神の不倶戴天の敵であった私たち、神と遠く遠く隔たっていた罪人であるわたしたちと神が近づき、親しくなるためには、主イエスの十字架が立たなければならなかったのです。

 主イエスのなさったことは、神を親しい者と知らなかった私たちの信仰心に、神をお父さんと呼ぶ感覚を伝えたというようなことではありません。

 本来ならば、神を父とお呼びすることなど、決して許されなかった神の敵である私達を、御子イエス・キリストが、ご自分の命の値段によって、私達と神を仲直りさせてくださったのです。

 そうであれば、私たちは、直接、「天のお父さま」と呼びかけることが私たち自身の思いとして、本当にふさわしいかどうか、もしも、それを選ぶとしても、いつでも、声に出さない心の内では、「主イエス・キリストのゆえに」、私たちのために命を注いでくださった御子イエス・キリストのゆえに、今はわたしたちの父となってくださった、天のお父さまと、及びせずにはおれないと思うのです。

 余計なようですが、それは聖霊なる神さまについても同じだと思います。私は、単に「聖霊様」とお呼びするのには、違和感を覚えます。やはり、きちんと、御子イエス・キリストが父と共に私たちのためにお遣わしになった聖霊なる神さまと、お呼びしたい。

 まるで主イエスを離れた所で、私たちが自由にお呼びできる、お付き合いできる存在として、父である神さま、聖霊であられる神さまのお名前をお呼びすることができると考えたり、あるいは、考えなしにお呼びすることは、本当に神をお呼びすることになるだろうかと、都度、立ち止まり、反省する価値のあることだと思います。

 それは、何も、誤解のないような正確な呼び方をすれば、それで解決するものではありません。正しい呼び方をしても、たとえば、この1:1がただのあいさつ文で、読み飛ばすことも可能であると、私達が思うとき、私たちの心と耳は、もう一度、神さまによって、目覚めさせて頂かなければならないのだと思います。

 それこそ、朝ごとに、神さまのお名前を呼ぶ毎に、何度も何度も、悔い改めを促され、心を新たにされ、新しく神さまのお名前を呼ぶことを学び直す。そこでまた新しく恵みの神さまと出会い直すのです。

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 そうすると、今日の個所で、父なる神さまと主イエス・キリストから、送られてくるという恵みと平和が具体的に何を指しているのかもだんだんとはっきりしてくると思います。

 たとえば、私たちが「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と、パウロの真似をして、書いてみたり、その手紙を受け取ったりすると、思い浮かべることは、千差万別であるかもしれません。

 今私は自分の生活を振り返って、神さまからこういう面で恵みを注いでほしいとか、平和の方がもっと具体的に思い浮かぶかもしれませんが、教会のあの人と仲違いしているとか、職場のあの人とぎくしゃくしているとか、家族の雰囲気が険悪であるとか、この関係に中に、あの関係の中にということを思い浮かべるかもしれません。

 けれども、私たちにとって、本当に問題となる平和は、神さまとの間の平和です。神さまと仲直りできるかどうかです。神さまと仲直りできなければ、人とどんなに上手く行っていても駄目です。本当に平和に生きることはできません。特に、信仰者として生きる者、教会に生きる者は、そのことをよく弁えているはずです。

 讃美歌358に、「こころみのよにあれど」という歌があります。「試みの世にあれど、導きの光なる、主を仰ぎ、雨の世も、高らかに誉め歌わん」という歌詞です。

 これは神さまと仲直りしている人の歌だと思います。神さまと仲直りしているならば、この世では、どんな試みに会おうとも、土砂降りの雨の夜のような日々を過ごそうとも、誉め歌うように生きていくことができる。そういう道が開かれる。神さまと仲直りして、神さまと共に生きるようになれば、世界中のすべての者が敵になっても、御翼の陰に隠されて、息つくことができる。

 ここでパウロが語る恵みも、この平和と別のものではありません。恵みとは、ふさわしくない者に、憐みによって与えられるプレゼントのことです。神さまとの平和、神さまを「私たちの父」と呼ぶことを得させて頂くほどの神さまとの仲直りが、ふさわしくない者に、ふさわしくないこの私に、憐みのプレゼントとして与えられるというその恵みのことだと思います。

 パウロがコリント教会に書き送る挨拶の言葉が語る恵みと平和がこのようなものであるならば、それはつまらない挨拶ではありません。私たちが是が非でも必要としているもの、これがなければ本当には生きられないものをコリント教会への挨拶の中で取り上げているのだと言えます。考えてみれば、福音の要約のような趣すらある言葉のように思います。

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 そこで、ふと思うのは、これは祈りの言葉として記されていますから、まだこれはコリント教会の人々には与えられていない恵みと平和、あるいは、教会の陥っている問題のゆえに、失ってしまった恵みと平和なのかということが私は気になります。

 それで、改めて原文に目を通してみますと、この箇所を祈りとして訳すことが通例であるかもしれませんが、別に、「与えてください」、「叶えてください」というような動詞があるわけではありません。

 本当にそのまま直訳すると、「恵み、あなたたちに そして平和 私たちの父なる神と私たちの主人イエス・キリストからの」となります。

 日本語に訳せば、言葉を補って、「与えてください」「叶えてください」、もっと自然にbe動詞を補って「ありますように」と、祈りとして訳すのが自然なのでしょうが、これは祈っているのではなくて、単純に宣言していると見做すこともできます。

 つまり、「私たちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたたちにある」という宣言、祝福の言葉であると言っても良いのです。

私たちの礼拝式順の中にある最後の「祝祷」と書かれた言葉、最近では、ここを「祝福」と書き直している教会が増えています。

「主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」という祝祷の言葉は、実は、私たちが読み始めた第Ⅱコリント書の最後の挨拶の部分に含まれる最後の最後の言葉ですが、これは祝福を祈ってるんじゃない。

 文の構造がまさに、1:2と似ているのですが、単純に祝福を宣言しているのだ、これは祝福の祈りではなく、祝福そのものだと言って、最近では、祝祷ではなく、祝福と書かれることが、だんだんと多くなっているのです。

 これはわたしたちにとって大切なことであると思います。もう既に、私たちは祝福の中にあるのです。

 これからパウロに相当厳しいことを言われなければならないコリント教会、福音を取りこぼして、自分達の自意識としては、いよいよ霊的になって行っていると勘違いしながら、実は、世と同じ姿になってしまおうとしている危機的なコリント教会、そのコリント教会が、祝福の中にいるんです。

 パウロと仲違いしているかもしれないけれども、主イエスにあって、父なる神さまとは仲直りしたものであり続けているのです。

 もちろん、それはコリント教会が罪なしということではありません。改めるべきところは改めなければならない。この世のものであるか、教会であるかの境界線は、自分たちが考えるよりも、ずっとずっとあやふやなものになってしまっていることには変わりがない。

 けれども、神は、そのコリント教会を手放すということはお考えにはならないということです。神がその者たちを手放さない、ただそれだけの理由により、教会であり続ける、聖なる者であり続ける、神と和解し、神を父とし、主イエスを救い主として持つ祝福の中にあり続ける。だからこそ、パウロも、この教会のことを諦めることはできません。

 私達も同じです。主イエス・キリストの父なる神様が諦めないから、私たちは聖なる者であり続けます。それは、私たちだけではありません。私たちの心に今、浮かぶあの人、この人、今、この場には顔が見えないかもしれないあの人、この人、コリント教会を諦めない神は、その人たちをも諦めません。

 もっと言えば、一度洗礼を受けて教会として、キリスト者としての歩みを停滞させてしまった者だけではありません。パウロに言わせれば、神は、異邦人をも、ユダヤ人をも諦めない、誰も諦めないのだというのが、キリストの出来事ではなかったか?

 パウロの尋常ならざる働きというのは、この先立つ神の祝福、尋常ならざる神の祝福を、後からなぞるように言い表すことでしかなかったのです。

 今、私たちも、この神の尋常ならざる祝福を味わい、告げるために、ここに置かれ、遣わされて行こうとしているのです。

 

 

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