週報
説 教 題 「教会は誰のものか?」
聖書個所 コリントの信徒への手紙二1章1節
讃 美 歌 191(54年版)
今日ここにいらっしゃる皆さん、また、この礼拝を音声で聞きながら家庭で礼拝を献げている皆さんは、それぞれ教会と何らかの関係を持っています。
教会という不思議な集まりに対して、全く無関係ということではなく、たとえ自分は今のところ傍観者、観察者の立場にあると考えたとしても、既に、傍観者、観察者として、教会との関わりを始めています。
教会とは何か?既にそれぞれに思うところがあると思います。良いものと思っているか、それほど良いものとは思っていないか。自分にとって、教会とはどういうものか?どういう存在であるか?
この説教壇から下りて、皆さんお一人お一人の考えを窺ってみたいという思いに誘われます。それを分かち合うだけで、どんなに豊かな言葉を蓄えて、それぞれ帰路に着くことができるかと想像します。
洗礼を受けて間もない新鮮な思いである方から、瑞々しい教会に対する思いを聞けるのではないか。洗礼を受けて、何十年という時を過ごした円熟味を増した方からは、その教会の群れの深い味わいを教えて頂けるのではないか。まだ洗礼を受けていない方からの答えもまた、興味のあるところです。それぞれの言葉を聞けば、教会の色々な側面に気づけるかと思います。どんな答えも、正直な感想であれば、有益な答えです。無駄な答えは一つとしてありません。
けれども、この問いをきっかけに、教会とは一体なんであるかということを、時には回り道も大切ですが、あまり回り道せずに知りたい、自分のこととして、思いを巡らしていきたいと思うならば、私がお勧めするのは、「教会とは誰のものか?」と問うてみることです。
「教会は誰のものか?」これは教会とは何かということを考えていく上で、急所になる教会に関する問いだと思います。教会は牧師のものか?長老会のものか?信徒のものか?国家のものか?教団のものか?公の共有財産か?
既に、司式者に読んで頂いた短い聖書の言葉に、「神の教会」とありますから、少し真剣にこの問いに向き合おうとして下さる方は、教会は、「神さまのものだ」と直ぐにお察しになると思います。その通りです。それがわかれば、今日の説教の結論は伝わったのです。教会は神さまのものだ、そのことを噛み締めて頂けば良いのです。
しかし、この言葉が、私たちの骨身に沁みてわかるようになるまでには、またそれが私たちと何の関係があるかとわかるようになるまでには、実際の私たちの教会に対する思い、考えというのは、段階を経て、また、それぞれの段階を行きつ戻りつしつつ、生涯をかけて深められていくものではないかと思います。
そのことを簡単に辿りながら、「教会は神のものである」そしてそれが私たちにとって良き知らせであるということを、骨身に沁みてわかるようになる、長い旅路に、御一緒に乗り出して頂きたいと願います。
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まず最初に、教会は、私たちにとって、私たちが向き合う他者として存在している段階があると思います。しかも、その初歩の初歩においては、多くの人にとって、教会というと、「東警察署の横にある白い建物ね」という具合に、建物のことを教会と考えることから始まると思います。私もそのように思っていました。
それは教会に対する本当に第三者的な関わり方、傍観者以前の関わり方であると思います。日本に住む人の大部分にとっては、教会とは未だそういうものに留まっていると思います。ここにおいては、教会と自分の関りはほとんど考えつきませんから、「教会は誰のものか?」という問いは、そもそも問題になってはいないでしょう。
ところが何かのきっかけで、その教会と思っている建物の中に入ってくるようになる。日曜毎の礼拝に参加してみるようになる。
すると、教会とは単なる建物のことではなくて、そこに集まっている信者たち、牧師や、そこで語られる言葉、行っている活動を含めた人間の営みの全てを指す言葉として「教会」を考えるようになっていきます。
教会の敷居をまたいだ人に、「金沢元町教会ってどんな教会?」と尋ねれば、東警察署の横にある教会とか、白い建物の教会とかでなしに、そこに集まる人の雰囲気とか、牧師の説教の印象について語り始めると思います。
足を踏み入れるまでは、単なる白い建物であった教会が、人々との出会いの場になる。どっぷり浸かるか、何年も観察者的であるかは別として、教会は建物のことを言うよりも、分かりやすく言えば、ダンスサークルとか、テニスサークルとか、ロータリークラブとかいうような、人間の集まりを指す言葉であることがわかってきます。
この段階になると、「教会は誰のものか?」という問いが、にわかに意味を持ちだすと思います。自分の教会理解にとって意味ある問いになってくると思います。今日の説教に耳を傾けている方は、今日初めて、聞いたという方であっても、既に、この問いの入り口に立っています。
そして、おそらく、教会の組織の形というのがまだわからない頃は、お寺がお坊さんのものだというのと同じ感覚で、最初は、教会イコール牧師のものと考えたり、あるいは、もう少し、組織の形が分かるようになれば、教会イコール長老会と理解するようになっていくと思います。その段階では、教会はわたしに向き合う他者として、そこに存在しています。
たとえば、教会のことを評価する一般的な言葉で、あの教会は温かいとか、冷たいとか言うことがあります。そんな風に教会の温かさ、冷たさを語る人にとって、教会とは、牧師個人とか、その教会に連なる自分とは違う他人に代表されるものであり、自分は、それと向き合った存在です。単なる傍観者を越えて、自分と教会は、「わたしとあなたがた」という二人称の関係になっていますが、まだ、自分は教会のゲストに留まっている段階です。
そしてこれは、教会に足を踏み入れた段階から始まる教会理解だと申しましたが、教会とのお付き合いの始まりにおいてだけではなく、かなり長い間、引きずり続ける可能性のある教会理解です。
洗礼を受けてなお、教会の温かい、冷たいが、一番の問題になり続ける。教会が自分に何をしてくれるかが、何をしでかしたかが、大きな関心事であり続ける。それで自分のニーズが満たされる教会を求めて、教会を渡り歩く教会ショッピングを始めたり、「教会は、わたしに何もしてくれない」と言って失望し、群れから離れるということが起こることがあります。こういう思いから完全に自由であるということは、あまりないと思います。
けれども、ここを行きつ戻りつしつつも、洗礼の志が与えられ、説教を聴き続ける中、洗礼の準備会を進めていく中で、徐々に訂正されていく部分があります。
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そこで、だんだんと分かってくることは、教会とは、建物のことでもなければ、牧師のことでもない。またただ、長老会という組織のことでもない。まして、そこに集まっている声の大きな人、雰囲気を造り上げている人のことではない。教会とは、まったく他人事ではない。神に召され、その中に加えられようとしているこの自分自身のことでもあるということが分かってまいります。
今日の個所でも教会と訳されているエクレシアというギリシア語は、「呼び出されもの」という意味です。教会とは、正に人のことです。隣に座るあの人、この人、また神に呼び出された私自身のことです。
教会が実に自分自身のことであるのだというこの側面は、私たちにとっては、ヨーロッパのキリスト者よりもむしろ理解しやすいし、大切になる理解であると思います。
私たち日本の教会は、国立の教会ではなく、自由教会です。自分がどの教会に通い、そのメンバーになるかは、たとえば、中世のヨーロッパのように、領主に決められたりするわけではありません。ドイツの教会では今も、自分の信じる宗教をキリスト教であると申告すれば、所得税の内の何パーセントかは、教会税として、自動的に引かれることになります。そのような事情はわれわれの教会とは全然違うのです。
東神大学長であった近藤勝彦先生は、日本の教会は、自由教会であり、ヴォランタリーアソシエーションの原型であることをよく理解するようにと強調されました。
ヴォランタリーアソシエーションとは、憲法第21条が謳う「結社の自由」に語られる自発的結社のことです。辞書的な意味では、「人々が自由な意思に基づき、対等の立場で、共通の目的のために集まる非職業的な組織」のことです。
この人間の基本的な権利は、アメリカ合衆国の政教分離、信仰の自由を勝ち取る戦いの中で形作られていったものであり、まさに、教会こそがNPOの原型であります。
教会は、非営利民間組織として、誰にも強制されずに同じ志を持つ人達が、経済的な必要からでもなく、自発的に集まって始まる団体です。
この側面から言っても教会とは、志を持った人達の自由な集まりのことです。だから自由教会に集まり、教会員となった者は、教会を第三者的に語ることはできません。自分と相対して、教会があると考えることは誤解です。
先日NHKから連絡がありまして、私たちの教会のことも取り上げられた「いしかわの壺」という小さな番組の再放送が10月5日夕方6:10にあると伺いました。ご興味のある方はご覧ください。私たちの教会は歴史ある教会です。それは誇らしい事です。
しかし、金沢元町教会とは、100年以上に渡り、この教会を懸命に支えた今も歴史に刻まれる先達の牧師や長老や信徒たちのこと、その歴史と伝統が主ではありません。
それは私たちの大切な財産ですが、むしろ、今この時は、教会と言えば、この私たちのことなのです。ここに集う一人一人は、この教会を設立しようと集まった最初の13名と同じ重さを持った存在と同じなのです。
だから、身も蓋もない言い方をすれば、この教会自身であるお一人お一人が、この教会の使命は終わったと判断すれば、この教会が100年以上にわたって、存続しつづけてきたとしても、正式な手続きを踏めば、自由に解散することができるのです。そういう自由と責任を皆さんは、この共同体に対してお持ちです。
今、私たちの教会は、この会堂を献堂して、40年以上経ち、今までもこつこつと修繕してきたソフト面だけではなく、ハード面が傷んでまいりました。この会堂をもう20年も、30年もいやそれ以上、100年さえ目指して、保たせようとするならば、近い内に大規模な修繕をする必要があります。
皆さんが、選び、教会の判断を委ねた長老会が、今日の午後は、そのことを巡って、会議をいたします。しかし、原案は出しますが、長老会だけで決められることではありません。しかるべき時に、教会総会を開く必要があります。
その時も、自発的に集まった自由教会であるその一人一人が「わたしが教会である」という意識を持って、自分自身のこととして、判断して頂きたいのです。
使命が終わったと思えば、教会を解散することすら出来るのですから、そんなことを実際に検討する勇気は私にはありませんが、この会堂が朽ちたら、その時には、自前の会堂を持つことを止めるという判断すらあり得るのです。それほどの教会に対する自由と責任を負っている一人一人なのです。
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さて、他の自由結社では、このような会員一人一人の主体性と自発的な関りということで、共同体の健康は保たれていくと思いますが、教会はこれでおしまいではありません。
というのは、教会は、志を持った人の自由な同意と、参加によって成り立つものですが、その教会の部分部分である個人の心を燃やし、共同体とする最も重要な志は、その人の趣味や好みに基づいて、自由に選んだものではなく、むしろ、神がその人を選ばれたということが、教会を教会とする決定的なことだからです。
教会は自発的な集まりです。誰もが、主体的に関わります。しかし、個人と個人を教会として結び付けているそれぞれのその志は、「神の選び」に対する「私たちの応答」である志です。
そのキリストの体である教会への召しとは何かと言えば、実は、自分を自分のものとすることを止めて、神のものしてお捧げしてしまうということです。
私たちは教会に加わるということによって、何をしたかと言えば、キリストの出来事において、「あなたはわたしのものだ」と呼び掛けてくださる神の言葉に、「主よ、わたしはあなたのものです」と、答えたのです。
これは強制されない応答です。律法ではありません。自分で好き好んで、自分に対する所有権を、神に譲渡するのです。けれども、これが律法ではなく、自発的なものだからと言って、それは、自分の意志一つ、自分の気持ち次第というのとは違うと思います。
神さまの召しに応える私たちの自発的な応答は、罰を伴った命令によって強制されるよりも、もっともっと已むに已まれぬ応答であります。
そうです。キリストの出来事を思うとき、その方が、ご自分の自由を用いて、父の御心を選び取り、私たちのために、その命を十字架で注ぎだされて、滅びより私たちを買い取ってくださったことが胸に迫ってくるとき、私たちは、私たちを教会として招き、その召しに応えてほしいと、願ってくださる父の思いに、いてもたってもいられなくなり、自分を手放さずにはおれなくなるのです。
主よ、私などを必要としてくださるのですか?この不器用な者をお選びになるのですか?
いや、お前がいいんだ。お前を召すんだ。お前を教会にしたいんだ。
私たちは、神様とこのようなやり取りをするのです。
そしてこの召しと服従の応答は、既に、お気付きのように福音であります。取るに足らぬ者をどこまでも追いかけ、「あなたはわたしのものだ」と、私たちの一切を引き受け、ご自分の御業に用いようとしてくださる神の恵みであります。滅びから救われるだけでなく、生きる目当ても与えられるのです。
恵みによって一方的に救われた私たちが、もう何もすることはないから、終末まで囲いの中で休んでいろということでなしに、神の働きのために用いられるのです。
猫の手も借りたいから、我々のような者までも神は用いるというのではありません。
主なる神様は、我々なしに、ことをお運びに慣れるお方です。主イエスが仰ったように、私たちが黙れば、石が叫びだすのです。
ここで、タラントンのたとえの主人の言葉を思い出すのは有益であると思います。
主人が、その僕達に仕事を任せるのは、効率を求めてのことではありません。効率を求めるならば、僕が全員首にして主人自らが行えばいいのです。けれども、たとえ話の主人は、あの人にも、この人にも任せます。
その理由は、イエスさまのお言葉によれば、その僅かな仕事に従事させることによって、その者をほめ、主人と一緒に喜ばせるためなのです。「忠実な僕だ。よくやった。主人と一緒に喜んでくれ。」
私と一緒に喜んでほしい。あなたを喜ばせたいんだ。
このような理由で、神さまは、御自分のものとして選び、召し出した私たち教会を、飼い殺しにするのではなく御自分の業に参加させるのです。
ここに至って、この世における私たち人間の営みである「教会は何であるか」、「教会は誰のものか?」ということがはっきり致します。
第一に、教会とは、他の誰でもない私たち自身のことです。教会とは建物のことではなく、牧師のことではなく、長老会だけではなく、神に召されて、この群れに加えられた一人一人の教会員自身とその営みの総体です。
皆さんが教会について語るときは、「私たち教会は」、「教会である私は」ということが、自然な主語なのです。教会の事柄はすべて私の自由で主体的な参加によって成り立ちます。
けれども、教会である私たちは、神の所有である私たちです。私たちを共同体として成り立たせている個人の自由な志は、「あなたはわたしのものだ」と呼びかける神様への応答であり、だから、私たちは、私たち自身が教会ですけれども、その所有者は、私たちではなく、神さまです。
だから、より正確な教会を語るための主語は、「私たち神さまの所有である教会は」となります。
そうすると、今まで、教会における私たちの主体性と、自由についてお話しましたが、本当は、自分のことも教会のことも好き勝手にしていい自由なんて私たちにはないのです。私たちも教会も神のものですから。
一昨日、この説教の準備中に、突然、教会の電話が鳴りまして、服部陽一さんの逝去の知らせを受けました。午後3時前にご自宅に伺い、枕辺の祈りをし、病状の経過を窺い、思い出を語り合い、葬儀の打ち合わせまで済ませ、帰宅し、古い教会報を引っ張り出して読んでいました。
1989年の12月24日号の教会報です。そこに、元町教会に2年間通った後に、転入会された服部さんの言葉が掲載されています。
自分が洗礼を受けた母教会に思い入れがあり、転入会する決心がなかなかつかなかったけれど、「常々健全な信仰生活は日々みことばと祈りを通して主につながっていること、同時にどこかの教会に所属してそこの会員として忠実に義務を果たすことの両面がなければならないと考えていた私は、母教会に出席することが不可能になった以上、しかるべき時期にこちらの教会に加えて頂いて、皆様と共に宣教の重荷を担わなければならないと思っていました。」そう仰います。
この教会に来て、まだ4年と経たない私以上に、皆さんは、このような言葉を語る者とされた服部陽一さんの姿から、今日は、何のエピソードもご紹介はしませんが、「私たち神の所有である教会は」という主語が、一体、何を意味するか、この人のことを見ても、教えられたのではないでしょうか?私のような共に過ごした年月の短い者でさえ、この方の折々のお姿から、教えられたのです。
ほんの数週前まで、私たちが目の当たりにしていたその人の姿を思い浮かべながら、自分は到底そのような信仰者としては生きられないと、尻込みする必要はありません。
パウロが、「神の教会」と呼び、「聖なる者たち」と呼ぶのは、ほとんど教会としての内実を失おうとしているコリント教会に対してです。福音を取りこぼそうとしているコリント教会に対してです。
しかも、コリント教会が福音を取りこぼそうとしているのは、その不道徳や、教会内の諍い以上に、その熱心によって、自分は正しく、神に認められるにふさわしく成長したと胸を張ることによってなのです。
先ほどご紹介した服部さんの転入会時の文章の中にも次のような言葉があります。
「この教会で教えられることは、先ず第一に自分が無力な罪人であることを知って己を全く主の御手に委ねるという信仰の基本であり、第二には信者は孤立して在るのではなく主にある兄弟姉妹と自分とは同じ幹につながる枝であるという連帯感です。」
この言葉通りです。私達が今日聴きとり、語りたかったことは、この言葉に尽きます。皆同じ幹に繋がっているのです。私もその木の一枝です。私たちが無力な罪人である時、私たちは、この木から半分折れかかっているのではありません。もう落ちようとしているのではありません。
そのような者こそが教会として選ばれているのです。そのような貧しい者である私たちをこそ、神は滅びないようにがっちりと力強く握っていてくださるのです。
私たちも、ほんの小さな、弱い弱い握力であるかもしれませんが、その神さまが私たちを硬く握りしめていてくださるその愛の御手を、自由に自発的に握り返してまいりたいと願います。主よ、どうか、そのような信仰と力を、私たちに、お注ぎくださいそのように願うことが許されているのです。
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