聖書:イザヤ書25章6節~10節
マタイによる福音書28章1節~10節
説教題:キリストは復活した
説教者 松原 望 牧師
聖書
イザヤ書25章6~10節
6 万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。
それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。
7 主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし
8 死を永久に滅ぼしてくださる。
主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。
これは主が語られたことである。
9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。
この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。
その救いを祝って喜び躍ろう。
10 主の御手はこの山の上にとどまる。
マタイによる福音書28章1~10節
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
「 説教 」
序、 主イエスの復活を記念するイースターは毎年3月から4月の間を移動しますので、イースターがいつなのか混乱することがあります。昨年のイースターが3月31日で、今年が4月20日ですから約3週間のずれがあることになります。4月20日がイースターであるのは、かなり遅いと言えます。この数十年で一番遅いのが2019年と2030年の4月21日です。
イースターは、春分の後の、満月の後の、最初の日曜日という決まりになっています。月の満ち欠けが関係しているので、毎年、イースターの日が変わるわけです。 ただ、イースターは必ず日曜日だということが重要です。主イエス・キリストが復活したのが日曜日だったからです。そして、イースターに限らず、毎週の日曜日に私たちが教会で礼拝するのが日曜日なのも、主イエスが復活したからで、日曜日に礼拝することを重んじているのです。
1、日曜日の朝早く
日曜日の朝早く、マグダラのマリアという女性ともう一人、同じマリアという名前の女性が、主イエスの葬られた墓へ行きました。
主イエスと弟子たちがガリラヤからエルサレムに来た時、多くの女性たちも一緒に来ていました。主イエスが十字架にかけられた時、弟子たちがユダヤ人たちを恐れて身を隠していたのに対し、彼女たちは遠くからではありましたが、主イエスが息を引き取った瞬間まで見守っていました。主イエスが墓に葬られた時は、二人のマリアがその場にいて、その様子を見ていました。
主イエスが十字架の上で息を引き取られたのが金曜日で、翌日の土曜日は安息日でした。そのため、出歩くことはできません。それで日曜日の朝早くに出かけたわけです。早朝、あたりがまだ薄暗い時に出たのは、人目に付くことを恐れたからでしょう。
彼女たちが墓に向かったのは、主イエスの遺体に香油を塗るためでした。そのため、安息日が終わった土曜日の夕方に香油を買い、用意を整えていたのです。
主イエスが息を引き取った時、日が沈み安息日が始まろうとしていました。そのため、慌ただしく墓に葬られました。それを見ていた女性たちは、後で主イエスの遺体に香油を塗り、丁寧に葬りなおそうと考えたのです。
人目に付かないように急いでいた彼女たちは、墓の入口を塞いでいる円盤状の石をどう動かすかまでは考えていませんでした。墓に近づいた時、はじめてそのことに気づき、どうしようかと心配し始めました。
当時の墓は、崖に横穴を掘り、いくつかの部屋を作り、遺体を石のベッドに寝かせるというものでした。そしてその墓の入口を、円盤状の大きな石で塞いでいたのです。2節の「石をわきへ転がした」とあるのは、墓の蓋の役目をする石の円盤のことです。この石の円盤は、とても重く、屈強な大人二、三人が必要で、女性二人ではとても動かせません。
解決策が見つからないまま墓に到着しましたが、その時、大きな地震があり、墓石がわきへ転がり、入り口が開きました。
マタイ福音書は、主の天使が降ってきたからだと記しています。福音書は、墓が開いたのは、単なる自然現象ではなく、神が墓を開いたと告げているのです。
女性たちの行動は、他の誰よりも早かったのですが、しかし、神の行動は、どの人間よりはるかに迅速でした。
2、天使のメッセージ
天使がマリアたちに告げたことは、第一に主イエスは墓にはおられないということ、第二に、主イエスが復活されたということ、第三に、弟子たちに、ガリラヤへ行き、そこで主イエスにお会い出来るということです。その言葉どおり、弟子たちはガリラヤで主イエスに会い、「全世界に宣教せよ」と命じられています。
主イエスの復活について、天使が「かねて言われたとおりに」と言っているのは、主イエスの十字架と復活は、神の御計画であったことを示しています。主イエスも御自身の十字架の死と復活をあらかじめ告げておられました。
これまで聖書を読んできて、私たちは、主イエスが十字架にかけられたのはイスカリオテのユダの裏切りのせいだとか、ユダヤ人たちやローマのユダヤ総督ピラトの不当な裁判のせいだとか考えます。確かにそれらは重要な要因でした。しかし、もっと重要なことは、主イエスの十字架の死は神御自身の御計画によるのだということです。
先ほども言いましたように、主イエスは、エルサレムに来られるまでに三度にわたって御自身の受難と復活を予告されていました。「そうなるだろう」という予測ではなく、「そうならねばならない」とおっしゃって、確実に起きること、それが神の御計画であることを明らかにされていたのです。
3、主イエスの「おめでとう」という祝福の言葉
天使は主イエスの復活を弟子たちに告げよと命じ、マリアたちは、弟子たちのところへ急ぎました。すると、その途中主イエスに出会ったのです。
主イエスは「おはよう」とおっしゃったとあります。普通に行われる挨拶の言葉ですが、直訳すると「喜べ」とか「恵みがあるように」という言葉です。ルカ福音書の受胎告知の場面で、天使が母マリアに「おめでとう、恵まれた方」とあいさつしていますが、この「おめでとう」と同じ言葉です。ですから、主イエスの「おはよう」という言葉は単なる朝の挨拶ではなく、復活の朝、主イエスが「おめでとう」と、女性たちを祝福したということです。
そうだとしても、「おめでとう」という言葉は、マリアたちが主イエスに言うべきで、主イエスがマリアたちに「おめでとう」というのは逆のように思えます。
主イエスが復活されたのは、ご自分のためではありません。目の前にいるマリアたちのためでした。ですから、主イエスは、彼女たちに「おめでとう」と祝福なさったのです。そして、主イエスが祝福されたのはマリアたちのためだけではありません。全ての人々のための復活でもありした。主イエスの復活は、全ての人々を祝福する出来事なのです。それ故、今、礼拝している私たちにも、主イエスは「私はあなたのために復活し、今、ここにいる。おめでとう」と祝福してくださっているのです。
4、主イエスの伝言
天使と同じように、主イエスもマリアたちに弟子たちへの伝言を託されました。
「ガリラヤへ行きなさい。そこで、わたしに会うことになる」。
マリアたちは命じられたとおり、弟子たちに主イエスの言葉を伝えました。弟子たちはガリラヤへ行き、そこで主イエスに会い、「すべての人々に十字架と復活のキリストを宣べ伝えよ」と命じられ、新たな出発をしました。
弟子たちに主イエスの言葉を伝えた女性たちが、その後、どうなったかは全く分かりません。伝説はいろいろあるようですが、聖書は何も語っていません。
大切なことは、彼女たちが、伝えよと命じられたことを忠実に伝えたということです。その意味で、彼女たちを小さな「使徒」と呼んで良いでしょう。マリアたちは、主イエスの復活を弟子たちに告げるように言われました。これは使徒たちに与えられた使命とも一致します。彼女たちは、後の教会の組織の中で、何らかの地位や位置が与えられたということはありません。しかし、伝えよと命じられたことに忠実であったことが大切なのです。
5、イエス・キリストの復活の証人
使徒たちは、「すべての国民を弟子とせよ」と命じられ、彼らも「復活の証人」(使徒1:8、22)として、主イエスを宣べ伝えていきました。使徒たちの大切な任務は、この「復活の証人」という言葉に言い表されています。使徒パウロも同じように、彼自身の最も大切な使命は、十字架と復活のキリストを宣べ伝えることであったと告げています。(Ⅰコリント15:3~11)
十二人は主イエスに「復活の証人」として立てられ、世界へと遣わされました。キリスト教会もまた、同じ使命を与えられています。十字架と復活は、私たちの罪の赦しと救いです。それを多くの人々に宣べ伝えよと命じられているのです。ですから、キリスト教会そのものがキリストから遣わされた使徒なのです。そして、その教会の肢(えだ)とされている私たち一人一人のキリスト者も、主イエスから遣わされている使徒なのです。
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