聖書:イザヤ書56章6節~7節
マルコによる福音書11章15節~19節
説教題:すべての民の祈りの家
説教者 松原 望 牧師
イザヤ書56章6~7節
6 また、主のもとに集って来た異邦人が主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら、わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。
マルコによる福音書11章15~19節
15 それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。16 また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。17 そして、人々に教えて言われた。「こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしてしまった。」18 祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのようにして殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。19 夕方になると、イエスは弟子たちと都の外に出て行かれた。
序、
主イエスがエルサレムの町に入られたのは、日曜日だと考えられています。聖書に、その日が日曜日だと書いてあるわけではありませんが、十字架にかかられた日が金曜日であることがはっきりしているので、そこから逆算して、エルサレムに入られたのが日曜日だと考えられているわけです。そのように逆算することができるのは、マルコによる福音書が、主イエスのエルサレムの町に入ってから、一日一日何をしていたかがわかるように記しているからです。
それによりますと、日曜日にエルサレムに入り、月曜日に神殿で商売をしている人々と追い出し、火曜日に神殿でいろいろの人々と論争をし、水曜日はベタニアの村で一人の女性から香油を頭に注がれ、木曜日に弟子たちとの最後の食事をし、その夜から金曜日にかけて役人に捕らえられ、十字架刑に処せられ、墓に葬られました。土曜日は空白で、日曜日の朝、主イエスは復活しました。
この主イエスの最後の一週間を「受難週」と呼んでいます。当時のユダヤでは、太陰暦が使われていましたので、この受難週、そして特に私たちが大切にしている主イエスの復活を記念する復活日は、毎年3月から4月にかけて日が変わっています。主イエスの復活日は、昨年は3月31日でしたが、今年は4月20日であるというのも、そういう理由からです。
1、エルサレム神殿
主イエスと弟子たちがエルサレムに到着した日曜日、いったんベタニアの村に行き、一泊しました。翌日の月曜日、主イエスと弟子たちは宿泊していたベタニアの村からエルサレムの町にやって来ます。エルサレムの町の東に城壁に沿って南北に走るあまり険しくはないキドロンの谷があり、それを越えた東にオリーブ山があります。あまり高くない山ですが、山頂近くからはエルサレムの町がまじかに少し見下ろすことができます。
ベタニアの村からエルサレムの町に行くときはこのオリーブ山を越えていくことになりますが、あまり険しい道ではありません。
朝、ベタニア村を出発し、オリーブ山の山頂を越えると、その山頂からエルサレムの神殿が、朝日を受けて真っ白く輝いて見えます。その神殿を建設したのは、ヘロデ大王で「ヘロデの神殿」と呼ばれています。
エルサレムの神殿の歴史を振り返ってみましょう。
ダビデ王の時代、町はダビデ王の支配下にありましたが、神殿は建てられておらず、町の北にある小高い山モリヤに移動式の神殿「会見の天幕」がおかれていただけでした。この場所はアブラハムがイサクをささげようとした山として知られています。
最初に神殿を建てたのはダビデの息子ソロモン王でした。大規模な神殿でしたが、ヘロデの神殿には遠く及びません。バビロン捕囚の時代、ソロモンの神殿が破壊され、数十年後、バビロンから帰ってきたユダヤ人たちの手により、神殿が再建されました。
その神殿を、ヘロデ大王が増築拡張し、大規模な神殿になりました。とは言いましても、ヘロデ大王が生きている間に完成してはおらず、数十年たった主イエスの時代でもまだ工事が続いていました。それでも、人々が感動するほど美しい建物でした。
ヘロデの神殿の一番の特徴は、広大な「異邦人の庭」でしょう。神殿の境内の中で異邦人が唯一立ち入ることが許されている場所です。ヘロデ大王自身が異邦人でしたから、エルサレムの神殿で礼拝する場所を確保する目的があったのかもしれません。
エルサレムの神殿は「異邦人の庭」に囲まれており、その中央に神殿の建物とそれを囲む祭司だけが入る事を許されている「祭司の庭」、ユダヤ人の男性だけが入る事を許されている「イスラエルの庭」、ユダヤ人の女性だけが入る事を許されている「女性の庭」がありました。そしてそれぞれの壁に、「異邦人は、何人たりともこの囲いの内側に入ってはならない。この禁を犯した者は死刑に処せられる」という警告文が掲げられていました。当然、ヘロデ大王もこれらの囲いの中に入って行くことはできません。
2、過越の祭り
さて、主イエスがエルサレムの神殿に来た時、過越の祭りが近づいていました。主イエスとほぼ同じ時代に生きたユダヤ人にヨセフスという人は、過越の祭りの巡礼者は2,700,200人ほどだと記録しています。また、この祭りのためにささげられた小羊は256,500頭だったとも記しています。
とにかく、非常に多くの人であふれかえっていたのがこの時のエルサレムでした。
ヨハネ福音書はこの時、主イエスを捕らえようとして「居所が分かれば届け出よ」(11:57)と人々に指令を出していたとあります。その噂は主イエスの耳にも届いていたはずです。すでに危険な状態にあるわけですから、身を隠すなり、目立たなく行動すべきです。しかし、主イエスは、すべての人々の注意をひくような行動をします。ろばに乗って人々の歓呼の中エルサエムの町に入ったこともそうでしたが、再びエルサレムに来て、神殿で騒動を起こしたのです。
3、主イエス、エルサレムの神殿で、商売をしている人々を追い出す
主イエスがエルサレムに入ったのは神殿の東に面している黄金門からだと思われます。そこを抜けると異邦人の庭に出ます。
主イエスは神殿に入ると、異邦人の庭で売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返しました。また、境内を通って物を運ぶことも許しませんでした。このような行動は、当然、人々の注目を集めます。自ら危険を招いているようなものです。
そもそも、その商売は宗教的に重要で、犠牲として献げるための動物を売ったり、献金のための貨幣を両替していたのです。
神に献げる動物は傷のないもの(レビ22:19~21)でなければなりません。犠牲にする小羊や山羊を用意することのできない人々は鳩を買い求め、それを献げていました。鳩は、一つがいで、外で買う15倍の値段(金貨1枚)であったと言われています。
それらの動物は、献げる前にその動物は祭司たちによってチェックされます。その動物に傷跡や病気の跡があれば、献げ物にふさわしくないとして退けられてしまいます。そこで、チェック済みの動物が神殿に用意されたのです。また一般に使われる貨幣には、肖像が刻まれていましたが、それは献金にふさわしくないとされ、肖像が刻まれていないユダヤの貨幣に両替する必要がありました。その手数料は15~20%だったと言われています。
これらの商売は大祭司の許可を得て行われていました。その仕事を妨げることは、大祭司に逆らうことを意味しています。マタイ21章23節以下で、祭司長たちや長老たちが「何の権威でこのことをしているのか。誰がその権威を与えたのか」と詰問しているのは、神殿における商売を邪魔したことに対する非難です。しかし、主イエスはこの非難を斥けました。
しかし、それにしても主イエスが商売のための台や腰掛けを倒し、売り買いをしていた人々を追い出すのはあまりにも乱暴な行為と言わざるを得ません。私たちが頭に思い描く主イエスの姿からかけ離れているように思われます。しかし、それほどに主イエスの怒りが大きいということを示しています。
4、すべての人々が神から祝福されるために
主イエスは、神殿で商売をしていることよりも、それを異邦人の庭で行っている事に怒っているのです。それは主イエスが引用された預言者イザヤの言葉「私の家は祈りの家と呼ばれるべきである」(イザヤ56:7)に現れています。イザヤ書を見ると「すべての民の祈りの家」となっています。ユダヤ人だけではなく、すべての人々を救うことが神の御心なのです。ユダヤ人の祖先アブラハムを召し出したのも「地上の氏族はすべて祝福に入る」という目的がありました。神殿の異邦人の庭は、異邦人が唯一許されている礼拝の場です。商売人たちが礼拝に来る人々のための供え物の用意をしているわけですが、それを異邦人の祈りの場所を奪い取って行っているのです。それ故、「すべての民の祈りの家を、強盗の巣(エレミヤ7:11)にしている」と主イエスは厳しく非難しておられるのです。
5、「地上の氏族がすべて祝福される」ために
主イエスが「異邦人の庭」のことで、怒りをあらわにしたのは、異邦人の祈りの場所がないがしろにされているという理由だけではありません。
神は地上のすべての人々を救うために、アブラハムと子孫を選び、神の祝福の担い手としての使命を与えました。そのことは創世記12章2~3節に「あなたは祝福の源となる。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と記されています。この使命は、息子のイサク(創世記22:18)に、そして孫のヤコブ(創世記28:14)に、さらに預言者エレミヤは神の言葉を伝えて「諸国の民は、あなたを通して祝福を受け、あなたを誇りとする」と告げました。
神の民であるユダヤ人は、その使命を忘れ、自分たちが神に祝福されていることにのみ目を向けていました。自分たちを優先する権利があるとして、異邦人をないがしろにしていたのです。
自分さえよければと言って、祈ろうとする人々を追い散らしてしまうのは、強盗と同じだと主イエスはおっしゃっておられるのです。「強盗は、力ずくで押し入り、自分の欲しいものを奪い取っていく。自分の都合しか考えない。相手のことは全く考えない。人間に対して強盗であるだけでなく、神に対しても強盗であると」。
6、主イエスの商人たちを追い払う行為は、象徴的行為
主イエスの商人たちを追い出したのは月曜日でした。火曜日にも主イエスは神殿に出かけています。そこでは、やはり動物を売り買いしたり、両替をしたりしていたはずです。しかし、火曜日に主イエスがそれらの人々を追い出したとは記されていません。おそらく商人たちを追い出すようなことをしていないからでしょう。そうだとすると、月曜日に主イエスが行ったことはどういう意味があるのでしょうか。
旧約聖書の預言者たちは、神の御心を伝えるのに、言葉だけではなく、象徴的な行いによって伝えることがありました。(イザヤ20:2~5、他)
主イエスの商人たちを追い出した行為もまたそのような神の御心を示す象徴行為だったのかもしれません。
また、もはや動物を犠牲にする礼拝の時は終わり、新しい礼拝が行われる時のはじまる象徴であったとも言えます。
ヨハネ福音書2章19~22節に、主イエスが商人たちを神殿から追い出したときの様子が記されています。
「イエスは答えて言われた。『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』それでユダヤ人たちは、『この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか』と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」
マタイ福音書21章12~17節の出来事と似ています。主イエスは単に神殿の存在を批判したのではありません。神殿の役目、目的は、主イエス・キリストの到来によって終了したのです。動物の犠牲が必要でなくなったように。
主イエスは、「神殿よりも偉大なものがここにある」(マタイ12:6)とおっしゃったことがありましたが、これはご自身のことを言っておられたのです。主イエスは神殿の役目をはるかに完全に果たされるのです。
罪の赦しのための執り成しがなされ、神の赦しが宣言され、その恵みが語られる神殿。地上の神殿は不完全ではありましたが、その働きは充分果たされました。とは言え、その働きは主イエス・キリストが到来するまでのものでした。主イエスが到来したことにより、その役目は終了します。そして、完全な罪の赦しがすべての人に与えられるのです。
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