礼拝

4月7日(日)主日礼拝      松原望牧師 最初の説教

説 教 神は天地を創造された 松原望牧師

聖 書 創世記1章1節~5節、 マルコ10章23節~27節

讃美歌 172,6,72,28

皆さんおはようございます。前の教会で説教の前に挨拶をすることはなかったんですけども、今日は初めて皆さんと一緒に礼拝をしますので、少し自己紹介も兼ねて説教をして行きたいと思っております。

またその意味でも挨拶の言葉を述べさせていただきました。

 

私は1973年当時富山総曲輪教会と言っていた、今、富山鹿島町教会と言う名前になっておりますけれども、その教会で洗礼を受けました。高校三年生の時です。私の家はもともとクリスチャンの家はありませんので、友達に連れられて教会に行ったということが初めてでした。初めて行ったのは高校一年生のクリスマスの頃、中学生高校生のための集会に連れられて行ったというのが最初でした。それから一年ちょっと経ってから洗礼を受けることになりました。

(マスクを外して良いということですのでマスク外させていただきます)洗礼を受ける少し前にその教会で聖書の学びをする機会がありました。その聖書の学びは創世記から始めて二年間で旧約聖書と新約聖書を学ぶというものでした。最初の学びは、先ほど読んでいただいた創世記一章一節以下の部分でした。

神が天地を創造されたという、ここから学びが始まってきました。二年間で旧約聖書と新約聖書を学ぶわけですから一つ一つの言葉を丁寧に学んでいるというのではなくて、二年間で旧約聖書新約聖書の全体を貫く神様の働きを見ていくという学びであったわけです。最初の一年は旧約聖書、二年目は新約聖書でした。

その旧約聖書を学んでいく中で神様が人間の歴史を通して救いの業を準備をし、そして進めて行かれたということがそこで教えられたわけです。その時に私たちが、その聖書の言葉で注目すべきことあるいはヒントとなるのがマタイによる福音書でした。マタイによる福音書の一章の一節からはイエス・キリストの系図が記されております。アブラハムから始まってイエス・キリストにいたるという系図です。最初初めてそれを読んだときには、外国人の名前がずらずらっと出てきて何でこんなことから始めるんだろうというふうに不思議に思ったものでした。

しかし旧約聖書を学んでいく中で、なぜイエス・キリストの系図から始め、しかもそれがアブラハムから始まっているのかということが次第に分かるようになりました。イエス・キリストの系図についてはマタイだけではなくて、ルカによる福音書にも記されております。ルカによる福音書の場合は逆にイエス・キリストから始まってずっと歴史を遡っていくような形で、しかもそれはアブラハムに辿り着くだけではなくて、さらにその先のアダムにまで、そして神に至るという言葉でその系図が閉じられております。

マタイによる福音書とルカによる福音書では同じ系図ですけれども、しかしその系図の意図が違うっていうことをそこで知ることになってきました。特にマタイによる福音書はアブラハムから始めるということにはそれを単にイエス・キリストの血筋を私たちに伝えるのではなくて、アブラハムから始まる神の民ユダヤ人のその歴史を通して神様がすべての人々を救う、そのご計画を実行なさった、そういうことを系図という形で私たちに教えているということであります。

そうであれば今日の礼拝の説教もアブラハムから始めるのが当然ということにもなるかと思いますが、創世記一章からこの旧約聖書を読み始めることにいたしました。その理由の一つが先ほども私が申し上げましたように私が洗礼を受けるきっかけになりましたのがこの創世記であったからです。

しかも神が天地を創造された、説教の題としては「神は天地を創造された」というふうにしましたけれども、それは宇宙のすべてを神様が造ったというだけではなくてその中に住む私たちをも神様が造ってくださったということを意味しております。どちらかというと宇宙の成り立ちというよりも私たちは神様に造られたというところに聖書が最も言いたかったことがあるのではないかと思います。

私が洗礼を受ける少し前にもう一つ旧約聖書の言葉を教えてもらったことがありました。あなたの若い時にあなたの造り主を覚えよ、と言う言葉であります。今翻訳が違っておりますのでこのままの言葉ではありませんけれども、しかし当時の私は私が神様に造られたこと、それを知るということが私たちにとってとても大切なことなんだということを、その旧約聖書の言葉が教えているということです。

なぜ私の造り主が神であるということを知ることが私たちにとって大切なことかということを改めて考える機会になりました。その中で神様が天地のすべてを造られたっていうのが単に宇宙の成り立ちあるいは私たち人間がどのようにして存在を始めたかということだけではなくて、むしろ私たちが生きていることには意味がある、ということを聖書が教えているということに気づかされていったわけであります。

例えばこの私松原望は生きていて意味があるのか。確かに科学の世界は松原望は地球に住む、人類の日本種と言った方が良いでしょうかね、私は科学に疎いもんですから正式な種別種族の言い方がよくわからないんですけども、まあ日本人で、まあ男女で言うと男に分類される、そういうふうに科学的に説明することはできるかもしれません。あるいは遺伝子の話をすることもできるかもしれません。しかしそのようなことを教えられたから、あるいは知ったからと言って、松原望に生きる意味があるのか、生きる価値があるのかということについては科学は何も教えてくれないわけです。しかし聖書が私たちに告げていることは単に神様が私たちを造ったというだけではなくて、神様はある意図をもって私たちを造ってくださったということを教えようとしているわけです。

すなわちどのようにして造られたかということよりも、造られた私たちにどのような意味があるのか、生きていることにはどのような意図があるのか、それは神様を知ることによって初めて私たちは自分の人生の意味を知ることになるということです。私たちはほかの誰からもあなたに生きる値打ちがある、生きるに値するというふうに言われることはないかもしれません。しかし私たちを造ってくださった神様は私たちひとりひとりの名を呼んで、私はあなたを造った、あなたには生きる価値がある。私はあなたに生きる価値を与えた。私と共に生きなさい。そのように言ってて神様は私たちを造ってくださった。それは聖書が私たちに告げようとしていることです。

ですから私たちが神が天地を造られたという風に教えられた時に、それはすべてのものの成り立ちを知るということよりも、私たちが神様に造られたことには意味がある、そしてそこには神様の愛があるということを知るということ。このことがとても大切だということす

神様が私たちを造ったというときに、そこには神様のご計画があります。私たちもそうですよね。家を建てるにしてもあるいは家具を作るにしても、あるいは折り紙を折るにしても、初めからなにかを作るという意図があります。折り紙であれば鶴を折るなり、あるいは亀を折るなり、始めから何かを作ろうと考えてどのように作ろうかというふうに考えて、そして作っていきます。同じ椅子であっても誰が座るかどういう場所で使うかということで椅子の形はいろいろ変わってきます。それと同じように私たちがつくられるということにも神様は意図をもって計画を立てて造っているということです。

私たちは自分の人生を見失うことがあります。何のために生きてるんだろうか、このまま生きていていいだろうか、そのように思い悩むこともあります。その時に私たちは神様に祈り、神様に問うということができるわけです。わたしを造ってくださった神様。私に生きる意味はあるでしょうか?答えてください。そういう風に祈ることができます。すぐにその答えが返ってくるとは限りません。色々な経験をさせられつつ、その中で神様は私たちに生きる意味があること、それを教えてくれるわけです。

そして聖書は特に私たちを造ってくださったということには、神が私たちを愛してくださっているということを伝えようとしているということです。神様はご自分が造ったものに対して責任を持っておられます。造ったら造りっぱなしであとは放っておくということは決してなさらない。造った以上は最後の最後まで面倒を見ていかれるのが神様の決意なんです。私たちは神様に愛されている。それを私たちは旧約聖書を通してみていくことになります。

先ほども言いましたようにこの旧約聖書は天地創造から始まります。私の計画としてはクリスマスの頃にマタイによる福音書にたどり着いて、そしてマタイによる福音書一章にあるあの系図をもう一度皆さんと一緒にここで読んでいきたいと思っております。

それまでの日々はこの日曜日の礼拝においては旧約聖書を学んでいきます。まあ学んでいくというよりも礼拝の中で一緒に旧約聖書を読んでいく。礼拝の中で旧約聖書を読むということは礼拝の中で旧約聖書を通して神様の愛をみるということが第一の目的。第二の目的は神様がイエス・キリストをこの地上にお遣わしになるに際してどのような準備をしてきたかということを旧約聖書を通して知ることになります。そのこともとても大切なことだろうと思います。

神様が計画を立てて、イエス・キリスト世に遣わしてくださいました。使徒パウロはガラテア人への手紙の中で、「時の満ちるに及んで神は御子を女から生まれさせた」という風に書いております。時の満ちるに及んで神様がご計画なさって、そしてある時が来るまでずっとその準備を続けてこられて、そしてその時が来たならば神様は御子をお遣わしになられたということを使徒パウロは告げているわけです。ということは、イエス・キリストがこの地上に来られたのはいつでも良かったというわけではなくて、あの時でなければならなかったという神様の計画があったということです。

すべての準備が少しずつ整えられていく、そしてこの日このタイミングでという時に神様はイエス・キリストを遣わしてくださった。それが新約聖書が私たちに告げていることです。となるとやはり旧約聖書の中で神様がイエスキリストを遣わす前にどんな準備をしてこられたのか、それを見るということがイエス・キリストがどのような準備をへて神様に遣わされてきたのか、それを知るということになります。

私たちも神様の救いにあずかっています。それは神様の気まぐれではありません。私たちを救うために神様は計画なさり、そして準備を重ねて来られたんです。その神様の計画と神様のなさってきた準備を一つ一つ辿っていくということが、私たちが神様に救われていること、神様に愛されていることをますます確かなものにしていくことになると思っております。

私たちは旧約聖書を学ぶときに、それは過去を学ぶだけでなく、今ここで共に礼拝している私たちが神様に愛されていることを確認している。そして、その神様の愛に応えて、私たちも自分の人生を神様に焦点を合わせて進めていくということがこの礼拝においてとても大切なことではないかと思います。今日からまた私たちがいっしょに礼拝をすることになります。聖書を通して神様が私たちを愛してくださっていること、私たちを救うためにどれほどの年月を重ねながら準備を重ねてきたかを共に見て行きたいと思います。お祈り致します。

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