週 報
聖 書 ヨハネ福音書21章1節~14節
説教題 ご復活の主との朝ごはん
讃美歌 161,342,72,26
この朝、私たち金沢元町教会は、喜びと悲しみの二つの思いを抱えています。
喜びとは、この礼拝の中で、二人の幼子に小児洗礼が授けられ、既にこの教会の交わりの中にあったその幼子たちを、私たちの群れに改めて加えられることが許されることです。
ご両親は、この幼子が神様から与えられた幼子であることを信じ、その神様からの大切な預かりものとして、主の助けの内に育てて行くことを願われました。
以前もお話ししたことがありますが、小児洗礼とは、子どもの信仰の自由を奪うことではありません。
むしろ、歴史的には、子どもの人格を尊重することをこそ意識して授けられて来た古代以来の教会の業です。
この子の命は、親の自由にすることのできる親の所有物ではない。自分勝手に扱ってはならない神様から、お預かりしている存在である。その神の委託に基づいて、誠実に、その命を保護し、育てる義務を負っているとの親自身の信仰告白に基づき、小児洗礼が行われるのです。
神は、神の民とするために、天地の創られる前から選ばれた神の者であるこの二人の幼子に、その見えるしるしである喜びの洗礼を、私たち教会の手を通して、今日、お授けになります。
こんなに嬉しいことはありません。
悲しみとは、3年前にコロナが始まろうとする直前に、転倒し、大けがを負い、3年間ずっと入院されていた教会の仲間、東野美智枝さんが、その後、一度も、この礼拝の場に戻ることができず、お亡くなりになったとの知らせを先週、受け、その葬りをしなければならなかったことです。
この入院中の三年間の長い間、教会は、その病床をお訪ねすることはできませんでした。
ご家族でさえ、お母さまにお会いできたのは、長期療養の病院に転院する時の三年前の付き添いの時と、先月、容体が少し悪いということで、ご家族がお一人だけお見舞いに行くことが許されただけの、たった二回でありました。その転院した病院の方針で、5類になっても会うことが許されなかったのです。
ご本人にとっても、ご家族にとっても、どんなに心細く、つらい経験であったろうと思います。
ご家族の希望で、火葬の直前に、祈りの時を持つ、たいへん質素な葬りとなりましたが、その準備のために、ご本人の残していた教会エンディングノートを読みました。
決して平坦な生涯ではありませんでした。
4人の子どもたちが与えられた人生の半ばに、大きな試練に遭い、夜の町を泣きながら歩き回ったという証が記されていました。
子どもを愛し、その子どもたちのために自分は、苦しくても、悲しくても、耐えなければならない。
しかし、子ども達を寝かしつけた後、いてもたってもいられなくなり、泣きながら、暗い夜の道を歩き続けたのです。
どんなに厳しい日々であったかと思います。
そのような中、どのような導きがあったのか、ついにお聞きすることはありませんでしたが、教会の礼拝に繋がりました。
そこで、主イエスに出会い、そのお方の赦しに出会ったのだ、それが本当に喜びであり、感謝なことであった、それを忘れることはできないと記されていました。
主イエス・キリストとの出会い、そのお方がくださった十字架の罪の赦し、それが、身の置き所なく、暗闇を泣きながら歩き回らなければならなかった一人の人の心に、その人生に、喜びと、感謝を取り戻してくださいました。
葬りのために、詩編139編を読みました。
そこにこうあります。
「どこに行けば/あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。//天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。//曙の翼を駆って海のかなたに行きつこうとも/あなたはそこにいまし/御手をもってわたしを導き/右の御手をもってわたしをとらえてくださる。」
私たちの罪の赦してくださる神さまとは、つまり、このような神さまのことです。
私がどのような者であっても、私の罪がどのように深くとも、たとえ、陰府に捨て置かれるような私であっても、この神さまは私をお見捨てにならない。その御手の内に私を捕らえて離すことはない。
罪の赦しを信じて生きるとは、このような決して捨てられることはないという信頼に生きることです。
教会の罪の告白と悔い改めの教えは、たいへん誤解されやすい教えです。
陰気で、消極的で、人間に元気を失わせる教えだと、時に、キリスト者ですら、誤解することがあります。
しかし、それは、とんでもない誤解です。
赦しの信仰、また、それと完全に一つである罪の悔い改めの信仰は、ものすごくポジティブな信仰なのです。
わたしはどんな者であっても捨てられない。私はどんな者であっても生きて良い。私がどんな者であるか、この私以上に、底の底までご存知の神が、私が生きることを望んでくださる。ゆるしてくださる。このような私と、いつでも、どこまでも、共に歩んでくださる。
それは、暗い道を泣きながら歩き回っていた身の置き所のない人を、喜びの中に連れ戻すことができる神の力です。
私たちの愛するその教会の仲間と、私たちはついにこの場所で共に礼拝を捧げる喜びに与ることはできませんでした。
私たち教会は遂に一度も、その病床を訪ねることはできませんでした。ご家族に託した教会のメッセージをその病床で読み上げて頂くことさえできませんでした。
それは、たいへん悲しい。厳しいことです。
けれども、「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし/陰府に身を横たえようとも/見よ、あなたはそこにいます。」神は、ほんの一瞬も離れることなく、その傍らにいらっしゃり、今もなお、その存在の丸ごとを御顔の前に置き続けてくださると、私たちは、聴かされているのです。
もう一度、申し上げますが、これは気を紛らわすだけの言葉ではありません。
暗闇の中に身の置き所なく歩き回る私たち人間を、東野さんを、事実、喜びの中に連れ戻す力を持った神の言葉なのです。
今日、共に聞いております聖書の出来事、ヨハネによる福音書の最後の章です。
この福音書が最初に書かれた時にはおそらく、第20章で筆を置かれました。
まだ書ききれないことがたくさんあるけれど、ここで閉じると、名残惜しそうに筆を置いたのです。
けれども、おそらく、その福音書記者の弟子が、あるいは、その福音書を書いた教会共同体が、やっぱり、どうしてもこれを書き足さなければならない。
どうしても、どうしても語りたいと、ほどなく、書き加えたのが、この21章だと考えられています。
神の霊に促されて書き加えたのだと、信じていますが、それにしても、よく書き加えて、後代に伝えてくれたとお礼を言いたいような、本当に印象的な主イエスと弟子達の姿がいくつも描かれています。
それぞれに独特な味わいを持ったお甦りの主と弟子たちのやりとりが記録されていますが、今日の箇所も同じです。
「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちにご自身を現された。」と、語りはじめます。
「その後」、と「また」という何気ない言葉が使われています。
この二つの単語は、エピソードとエピソードを繋ぐだけの、あまり意味のない小さな言葉にも見えますが、立ち止まった考えると、不思議な言葉です。
つまり、二度も、ご復活の主イエスに会って頂いた「その後」です。
そのお方より、「わたしは甦ったんだ。あなた方を伝道のために遣わすのだ」と語られたにも関わらず、「また」です。
「その後、また、」お甦りの主イエスは、ティベリアス湖畔で、弟子たちの前に姿を現さなければならなかったのです。
ティベリアス湖畔というのは、もしかしたら、耳慣れない方もおられるかもしれませんが、よく知られた方の名前では、ガリラヤ湖のことです。
つまり、弟子たちの故郷です。
20章にあるように、エルサレムで何度も何度もご復活の主に出会って頂き、「あなた方を罪の赦しのために遣わす」と派遣されたのに、弟子たちは、ホームグランドであるガリラヤ湖周辺に戻り、漁を始めているのです。
他の福音書の語る所によれば、元々ガリラヤで漁師をしていたシモン・ペトロ達を、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と、主が召したもうたのです。
ご復活の主が、その人達を改めて、罪の赦しの福音の伝道のために、つまり、人間をとる漁師として、派遣されたのです。
それにも関わらず、ガリラヤに帰り、魚を獲っているのです。
ここに私たちの現実の姿があります。私たち人間の頑なさがあります。
ご復活の主にお会いしたにも関わらず、少しも変わらないままの人間です。
まるで、キリストの墓からのお甦りなどなかったかのように、その主にお会いして頂いたことなどなかったかのような古いままである私たち人間の世界、私たち人間の姿です。
けれども、神の都エルサレムに象徴される特別な場所、特別な瞬間から戻った、ティベリアス湖畔、すなわち、私たち人間の古いままの日常そのものの中に、ご復活の主がやって来られる。
私たちの日常の思いもかけない時に、主が近くにおられることが露わになる。
それが、今日、私たちが耳にしている物語、ヨハネ福音書記者の弟子が、その共同体がほどなくして、どうしても書き加えなければならないと促されたご復活のキリストの顕現伝承です。
古い生活に戻った主の弟子達が、夜通し行った漁の甲斐なく、何も獲れずに寄港しようとしていた朝ぼらけの岸に、誰かが立っている。
湖上のシモン・ペトロ達に向かって、「子たちよ、何か食べる物があるか」と、その人が尋ねる。
「ありません」と応えると、舟の右側に網を降ろすようにと、命じられる。
弟子たちは、不思議にも命じられるままに素直に、網を降ろす。
すると、網には持ち上げるほどのできない魚がかかる。
すると、突然、目が開かれるようにして、その岸辺に立つ見知らぬ人が主イエスであることに、一人の愛されている弟子が気付く。
裸であったペトロは、上着を身に纏うと、湖に飛び込みます。
一刻でも早く主の元を目指す行動だと言う人もいますが、私は、恥かしかったのではないか?身を隠すように、上着を纏い、水の中に飛び込んだのではないかと想像します。
ここからが、また、面白いところだと思いますが、弟子達が陸に上がると、既に岸辺には火が熾してあり、主が手ずからご用意された魚とパンが火にかけられ、弟子たちのための朝食の準備が整えられていました。
「さあ、来て、朝の食事をしなさい。」
こうして、ガリラヤの日常の只中で、ご復活の主イエスに出会い、主から分け与えられたパンと魚の食事を共にしたのです。
誰もあえて、「あなたはどなたですか」と、お尋ねすることはありませんでしたが、そこにいた誰もが、そのお方が主であることを知っていたと言います。
考えてみると、これは、とても愉快な光景だと私は思います。
みんな黙って、ガリラヤ湖の辺りで、パンと焼き魚を食べているのです。
口の中にいっぱいに広がる魚のあじ、鼻腔いっぱいに広がる焼きたてのパンの香りを吸い込みながら、ああ、私たちは今、ご復活のキリストと共に、私たちの生きるこの地、この時を、生きているのだ。
まるで、主がお甦りにならなかったかのようなこの世界、この古いままの時間、古いままの私の日常のその真ん中で、主と共に朝ごはんを食べているんだ。
そういうリアルがここにはあります。
私たちキリスト教会が語る新しさとは、このことです。
洗礼を受け神に結ばれる者は、超人になるわけではありません。
その本質が変化する特別な人間になるわけではありません。
キリストとの関係が新しいのです。新しくなったキリストとの関係の内に、ありのままの自分、ありのままの世界を生きるのです。
しかし、キリストとの関係が新しくされているゆえに、自分とも、世界とも、新しい関係に生きるのです。
その新しいキリストとの関係というのは、もう、最初に申し上げた通りです。
私がどのような者であっても、私の罪がどのように深くとも、たとえ、陰府に捨て置かれるような私であっても、この神さまは私をお見捨てにならない。その御手の内に私を捕らえて離すことはない。
このようなインマヌエル、神が私たちと共におられる根源的な事実に生かされる、その神と私たちのキリストにある新しい関係性のことです。
それは、特別な関係ですが、少数の人が特別な瞬間にのみ経験できるようなものではありません。
この福音書が誤解なきように、どうしても書き加えなければならないと促されたように、弟子達が戻っていた生活の只中で、日常のど真ん中で、現に、与えられる出会いであり、始められる毎日の生活なのです。
もう随分、古い方ですが、椎名麟三という作家が愛したのは、まさに、この魚を焼き、弟子達と共にそれを食べるご復活の主イエスのお姿です。
彼の場合は、ヨハネではなく、特にルカによる福音書に記されたご復活の主のお姿ですが、焼いた魚をむしゃむしゃと食べるそのユーモアたっぷりの主イエスの姿を読んで、この人は復活の信仰を与えられました。
なんて、なんて、自由なんだろうと。
椎名は言います。
「くだらなくも焼魚の一きれをムシャムシャ食って見せているだけである。そのイエスの愛が私の胸をついた。同時に死んでいて生きているイエスの二重性は、私が絶対と考えていたこの世のあらゆる必然性を一瞬のうちに打ちくだいてしまったのである。」
そこで言います。
「イエス・キリストを信じるものは、すっかり救われているかというとそうではないということだ。救われていないし、といって救われてもいるという仕方で生きるのである。たとえていえば、人間の苦しみや悲しみの海のなかに投げ込まれていながらも、おぼれないように首を水の上に出してちゃんと息ができるということなのである。もうダメだと思ったときさえ、その首をしっかり支えていて下さるのが、イエス・キリストなのである。」
ここに人間の本当の自由があると椎名麟三は言います。私も同じように信じています。
いいえ、私だけではありません。キリスト者とは、そのように信じている者です。
使徒パウロは言います。
私たちは、「死にかかっているようでいて、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(Ⅱコリント6:9.,10)
東野美智枝さんもまた、同じ信仰に生きたのです。
そこに、喜びがありました。いいえ、暗闇の中にあっても、変わらぬ光であり、共にある神であられる喜びのキリストがいらっしゃいました。
この方は、何度でも何度でも、私たちのもとにやって来られ、命の食卓を整え、その食卓を共に囲む、現実を作り出してくださるのです。
詩編23:5以下が語るように、「わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしの食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。」主が、ここにおられるのです。
それは、真実であり、血の通った現実であります。
今日、この時、洗礼を受ける二人の幼子にとっても、生涯変わることのない現実として与えられているキリストとの出会いです。
詩編23篇の続きは語ります。
「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」
私たちを神の家に住まわせるために、私たちを追いかけて、主の元に連れ帰ってくださる恵みと慈しみとは、今日、私たちが聴いたご復活のキリスト、このお方のことです。
焼きたてのパンと魚の匂いが立ち上るこの毎日に、キリストが、何度でもやって来られるのです。
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