礼拝

9月27日礼拝

説  教  題  「我らの希望は神にあり」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙二1章8節から11節
讃  美  歌    280(54年版)

今日の聖書個所において、パウロは、「ぜひ知っていてほしい」ことがあるのだと言います。コリントの教会の人々、皆に知っていてほしいこと、だからきっと、この手紙を読む私たちにも知っていてほしいことがあるのです。

 パウロは、将来、全世界に何十億冊と、自分の書いた手紙が、印刷されて読まれることはあまり想定していなかったかもしれません。しかし、彼は福音の宣教者として、自分が神に立てられた神の言葉のメッセンジャーであることを弁えていました。自分の言葉が神の言葉として聞かれることを、恐れつつも、神に感謝していました。だからそういう福音の宣教者であるパウロが、教会の人々に、「ぜひ知ってほしい」と思っていることは、よほど大切な公式な言葉であるに違いないと想像します。

 けれども、身を乗り出して彼の言葉に耳を傾けますと、彼が知ってほしいのは、「アジア州でわたしたちが被った苦難」であると言います。福音宣教者であるパウロが、教会の人たちにぜひ知っていてほしいと願っているものが、自分の被った苦難であるということは、少し肩透かしを喰わされるような言葉であると、思えるかもしれません。自分の苦難を知ってほしい。自分の大変であったことを知ってほしい。

 もちろん、この言葉に、私たちは共感できないというのではありません。むしろ、ものすごく共感できる、出来過ぎてしまうことだと思います。私は、今、毎日どこかのタイミングで、実家で療養中の妻に電話を掛けますが、何を毎日話すかと言えば、彼女の体調を尋ねると共に、こちらの家庭の様子です。3人の娘たちが言った楽しいこと、行った面白いこと、そう言うことも話しますが、でも、一番話すことは、たいへんだったことですね。一週間の間に三人が順々に風邪をひいて、その度に、病院通いだとか、歯をなかなか磨かせないとか、おばあちゃんの言うこと聞かないとか、どんなにたいへんだったかという話題が多いです。たいへんだったことを知ってもらいたいし、分かち合ってもらうと、すっきり致します。そういう意味で、自分の被った苦難をぜひ知ってほしいというのは、激しく共感できる言葉であるとも言えます。

 けれども、パウロが求めているのはそういうことであるのか?もちろん、福音宣教者が弱みを見せてはいけないということはないと思います。この手紙において、パウロはコリント教会の人々に対して自分の弱さを少しも隠そうとは致しません。パウロがあまりにも自分のことを弱い弱いというものですから、コリント教会がパウロを軽んじ出したという面すらあります。

しかしながら、今日読んだところで、パウロが、自分の弱り切った心をさらけ出し、共感と配慮を求めているだけなのかと言えば、決してそうではないと思います。

 もちろん、そういうことはあっていいし、11節でパウロは、今後とも、私たちのために祈ってほしい。祈りで援助してほしいと頼んでいますから、福音宣教者と教会員の関係は、一方は配慮する側、もう一方は、配慮される側というような、固定化された関係ではないと思います。使徒であっても弱さや不安を、率直に語り、教会員に祈ってもらうことは、キリストの教会にふさわしいことであると思います。パウロもまた、祈りと配慮を必要としています。

 けれども、パウロがここで、自分達の「被った苦難について、ぜひ知ってほしい」と願うのは、それが、コリントの教会の人たち、また、このパウロたちの苦難を知った全ての者たち自身が、神の慰めを頂くことに繋がるからだと、考えているからであると思います。

 既に、直前の個所で語られたことです。パウロが苦難を受けたこと、そしてそのパウロを主であり、父である神さまが慰めてくださったこと、それが、コリント教会の人々の慰めになるのだと語っていました。自分の受けた苦難によって、人を慰めることができる。苦難を共有することにより、慰めをも共有する交わり、それが教会だと、パウロは語っていました。だから、この8節以下は、まさに、その具体化が起こっている。苦難と慰めの共有の実践が始まっていると言っても良いだろうと私は思います。

 「今この私の言葉を聞いている者たちに、私たちがアジア州で被った苦難についてぜひ知っていてほしい。それによって、あなたがたが慰められることになるから、私たちが神より頂いたその慰めが、あなたがたの心にも届くことになるから。」そうやって、パウロはここで聴く私たちの利益となるような自分自身の受けた苦難について語り始めていると思うのです。

 パウロがアジア州で被った苦難がありました。それは、耐えられないほどのひどい圧迫の経験であり、生きる望みさえ失うほどの苦難であった、死の宣告を受けた思いがしたものであったと言います。パウロがアジア州で受けた苦難、具体的にどういうものであったのでしょうか。多くの人が思い出すのは、使徒言行録19章23節以下に記録されている、アジア州の首都であったエフェソの町で起きた偶像製造業者達が起こした騒動のことです。

 手で造られたものは神ではないというパウロの伝道の言葉に、それでは商売あがったりだと怒った人々が、結託し、パウロの仲間たちを野外劇場で吊るし上げにしたのです。それは、当局者が乗り出さなければ収まりのつかないほどの大騒動でした。

 しかし、ある人は、その個所を丁寧に読みながら、確かに、大変な事件であるかもしれないけれど、死を宣告されたというほどのものではない。生きる望みさえ失ったというほどのものではないのではないか?だから、この事件というのは、使徒言行録に書かれた記述以上に、パウロたちが投獄されるとかいうことが起きたのではないかと想像いたします。

 また、聖書を熱心に調べる人は、第一コリントの15:32の記述を思い出して、そこに、「エフェソで野獣と戦った」と書いてありますから、映画で見る闘技場で、人間とライオンを戦わせるみたいな事さえあったのかと考えます。

 しかし、ローマの市民権を持っていたパウロが、野獣と戦わさせられるようなことはありえません。それで、おそらく、これは、野獣のような人々という比喩なのだろうというふうに、考えられています。

 結局、どの程度の事件であったのかわかりません。しかし、私は、獣と戦わされなくても、あるいは投獄に至らなくても、こんな出来事に遭遇するのは、恐ろしいことだと思います。

 もちろん、時間が経って、後から振り返れば、結局集まっていた人たちの大多数は自分達が何のために集まっていたのかさえ、よくわかっていなかった烏合の衆ですから、死を覚悟しなければならないほどではなかったというのは、その通りでしょう。しかし、実際のその瞬間の、その現場というのは、パウロたちにとって、とても恐ろしかったと思います。

 自分の感じている苦しみとか、悲しみとか、しんどい状況というのは、客観的に見て、人と比べてマシであるかどうかなんて、少しも関係ないと思います。

 他の人が見てどころか、もちろん、自分が後から振り返って、大したことなかったなと思えることだって、その当時は、苦しくて、しんどくて、それこそ、死すら覚悟するということは、十分あり得ます。

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 本当のことを言えば、誰も同じ苦難なんて、経験できません。人はそれぞれ一人一人、ただ一人、他の誰とも変わることのできない自分として、自分に与えられた苦しみ、悲しみを担っていく他ありません。どんなに似たような経験を持っている人でも、違う人間ですから、全く同じように、苦しみ、悲しむということはできません。

 けれども、人それぞれ違うのだけれども、やはり、同じ人間仲間として、どうしようもなく共有していることがあります。それは、人間は苦しむ者であるということ、悲しむ者であるということ、そして私たちがやがて死ななければならない者であるということなどです。

 苦しみとか悲しみというのは、同じ出来事にあっても、人それぞれ感じ方、その似たような出来事の受け止め方の重さというのは、それぞれ違うでしょう。でも、苦しみとは何かは知っている。悲しみとは何かを知っている。そして、その苦しみ、悲しみが極まったところには、生きる望みさえ失い、死の宣告を受けたような思いになるということを知っています。

 もちろん、パウロたちがここで経験しなければならなかった、死を覚悟しなければならないような苦難というのは、伝道に伴う苦しみです。私たちは恐らく一生の間、幸いなことに、どんなに一生懸命伝道しても、パウロたちと同じような目に遭わずに済むだろうと思います。だとしたら、パウロたちの受けた苦しみは私たちには関係がなく、だから結局、パウロが頂いた神よりの慰めを頂くことが私たちにはできないのか?

 そんなことはないと思います。人それぞれ、誰にも変わってもらえない自分だけの苦しみ、悲しみを担わなければなりませんが、誰もが苦しむ者であること、悲しむ者であること、そして、死に定められた者であることに変わりはないからです。

 この土俵において、私たちは、たとえ、同じような経験をしても、同じように、感じることはできないとしても、隣人の悲しみがわかるし、隣人の苦しみが分かると言えます。

 自分になら耐えることができる苦難を前に、たとえ、隣人が死に向かいそうになるほどに、苦しみ、悲しんでいるとしても、共感できないということでなしに、やはり、死ぬほどに苦しい、死ぬほどに悲しいということはどういうことであるのか、わかるのです。国籍が変わろうが、肌の色が変わろうが、生きる時代が変わろうが、置かれた立場や、生まれながらに持つ心と体の強さに違いがあろうが、わかるんです。誰もが苦しみを知っている。誰もが悲しみを知っている。誰もかれもが死に定められているのです。

 もちろん、それだけならば、苦しみと悲しみが共有できるというだけかもしれません。もしも、そこで慰めを受けることができるとしても、「みんな同じだね。みんなやがて、死んで、どこかに消えてしまうような命なんだね。」という、もの悲しい共感の中に、慰めとも言えないような、弱々しい諦めである慰めを共有するということに過ぎないかもしれません。このもの悲しい共感も、隣人への優しさに繋がるものだとは思います。それはそれで、人間にとって尊いものであるかもしれません。

 けれども、パウロが苦難と共に、コリント教会の人々と、また私たちと共有しようとする慰めはこれとは違うものです。パウロが彼と共に耐えがたい圧迫を知る者、生きる望みを失った者、死の宣告を受けた思いにある者と共有する慰めは、9節、「自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにする」という慰めであります。

 自分の力ではどうすることもできない苦難があります。人それぞれ乗り越えることのできる苦難の幅はあるかもしれないけれども、しかし、どんな人であっても、もう自分の力ではどうにもならない、人間にはどうすることもできないという地点が存在します。そこから自由な者は誰一人いなくて、死という境界線によって定められた、その死が象徴的に、また現実的に区切っている、私たちの力の及ぶ限界であるこちら側とあちら側があります。

 けれども神は、私たちの慈愛に満ちた父である神には、あちらもこちらもないのです。

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 ところで、ある人は、ここでパウロが見ている死者の復活の希望、死者の復活の神が下さる慰めというのは、神さまが全知全能だから、出来ないことは何もないから、死にそうな私、あるいは死んでしまった私をやがて復活させることができるだろうという希望、慰めではないと言います。

 死者を復活させてくださる神への希望というのは、全地全能の神の力を信じるというような曖昧な希望ではないと言います。

 耐えがたい圧迫、生きる望みを失ったパウロの心にやって来た希望、その目がありありと見るように釘づけにされた死者を復活させてくださる神の姿とは、十字架の主、私たちの救い主イエス・キリストを甦らせてくださった神の姿であった。パウロの希望、パウロの信仰は、神が彼の目の前に示してくださったキリストに対するものであると言います。

 全地全能の神がいらっしゃる。神は何でもできるお方である。しかし、これは曖昧さを含んだことです。漠然としたことです。なぜならば、神には何でもおできになることができたとしても、生き折る望みを失った私と全地全能の神がどういう関りがあるかは定かではないからです。けれども、キリストを死者の中からお甦りならせた神、キリストにあって私たちの慈愛の父となってくださった神さまは、私たちのために、一人子をさえ惜しまれることはない神さまでいらっしゃいます。

  死者が復活しないのならば、キリストは復活しなかったのだ。なぜならば、キリストが死んでお甦りになられたのは、ご自分のためではなかったからだ。私たち死に定められた人間を、死から買い取るためであったのだから。これが、パウロがかつてコリント教会に向けて語った福音です。

 2000年前、キリストがこの世界に来てくださり、神の独り子が私たちと全く同じ血と肉を備える人間仲間となってくださり、私たち人間が共有する苦しみ、悲しみ、死の定め、誰に説明してもらう必要もなく、ご自分のその身で共有して下さいました。死に定められた苦しみ、悲しみを共有しているのは人間だけではない。神の独り子、子なる神までもが、共有してくださっている。

 けれども、それでは終わりませんでした。私たちの死ななければならない苦しみと悲しみを、神御自身の苦しみと悲しみとして際立たせることでは終わりませんでした。真の人となった、私たち人間仲間となり切った御子を死の中からお甦らせになることによって、その御子を、十字架の上で、最大の罪人として完膚なきまでに裁き、陰府に引き渡した後、なお、陰府に捨て置くことなく、お甦らせになったことによって、全ての人間に、復活の命を共有させたのです。

 最低最悪、最大の罪人として十字架の上で断罪され、神に捨てられたキリスト・イエスをお甦りに与らせることによって、最大の一つ手前の罪人とされたすべての人間が、今や、復活の命を共有する者とされているのです。

 キリストの十字架の死、キリストのご復活、このことをしてくださった神さまは、神の独り子の身に起きたこれら全てのことは、私たちのために、私たちを目指して、してくださった私たちのための出来事であったのです。

 自然のまま、あるがままの私たち人間は、誰もが死の定めを共有しているところまでは、理解できるかもしれません。けれども、私たち教会、キリストの十字架とご復活を信じる私たち教会は、人間に加えられたもう一つの共有、御子の復活の命にあずかる共有を知っているのです。そして、それが、苦難を分かち合う者たちが、新しく分かち合うようにされている慰めです。それは全然弱々しくないのです。燃えるような慰めです。

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 私が今日の聖書個所を読みながら、本当にわくわくさせられることは、10節の言葉をパウロのような信仰者が語っていることです。

 「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださるでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています。」

 この言葉を聞くと、パウロのような使徒であっても、救いの喜び、神のくださる慰めを味わい尽くしていないのだなあと思わされます。一度手にして終わりではない。一度味わって終わりではない。今、彼が信じ、確信し、力づけられている、その福音の慰めが、まだ先にも待っている。さらにもう一度、更にもう一度、その救いがパウロを訪れるのです。これからも、何度でも、新しく神の慰めが彼を訪れるのです。そういうことを予感している言葉、正確には、予感でなくて、信仰に支えられた希望の言葉、彼の確信であると思います。

 それは、希望ですから、がっちりと手にしているというのとは違います。この救い、この慰めは、自分の持ち物だと言うことはできません。それは信仰の対象であり、希望の対象、つまり、神さまからの救いと慰めは私たちの所有物とはならないのです。

 けれども、それは少しも心許ないことではありません。心細いことではありません。私たちの苦しみ、悲しみが、ここが底、ここが限界ということがなかなかなくて、死へと深まっていかなければならないとしても、神さまのくださる私たちの信仰も希望も塗り替えられていくというダイナミズムの中にあるということです。

 改革者ルターが、明かにしたことは、私たちが「何度も新しく神に見出される」人間、途上にある人間だということだと言います。

 だから、どんな苦難も、神がキリストにあって私たちに下さる希望を取り去ることはできないのです。キリストの復活の命が、私たちの死を飲み込んでしまうその日まで、希望は日々、新しく与えられ続けていくのです。

 そしてそれは、単純に私たちにとって嬉しい知らせであるのではないでしょうか。死を超える希望、やがて死を飲み込んでしまう命の与え主、主イエス・キリストの父なる神が、私たちに出会い続けてくださるのです。だから、たとえ、外なる人は衰えていくとしても、私たちの信仰と希望は日々新しくされていくのです。新しい命に、キリストの復活の命に向かっていくのです。

  それゆえ、私たちは、11節でパウロが大切にするように、祈られることを必要としています。それはごく単純に言って、私たちが、自分一人で信仰を全う出来ず、教会を必要としており、さらに、祈りですから、いつでも神を頼りにする必要のある者であるということです。

 信仰者がその生涯をかけて味わっていくこと、実感していくこと、それは死をも乗り越えて行く信仰の成長の達成感、充実感ではありません。ひたすら、死に定められた貧しい私たちを救うために、私たちのもとに訪れて下さる神への日増しに深まる感謝なのです。

 

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