礼拝

10月15日(日)主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書17章6節~19節

説教題 キリストの願い

讃美歌 120,149,392,29

今日、与えられました聖書箇所、主イエスのお言葉を、私は神さまに深く感謝いたします。この教会を憐れむ神さまの思いが、ここにはっきりと見えるものとなっていると、畏れをもって、まず告白させて頂きます。

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」

主イエス・キリストが、私たちのために天の父に願ってくださっています。

大丈夫、安心しなさい、わたしは目には見えなくなるけれども、わたしの聖なる父にお願いしよう。わたしを信じ、この世の者ではなくなったあなたがたである。わたしが世に属していないように、あなたがたも世に属していない。わたしが世に属していないゆえに、世がわたしを受け入れなかったように、あなたがたもまた、この世では生きづらい。世はあなたがたを憎むだろう。しかし、あなたがたが世から取り去られるのではなく、悪い者から守られることを、わたしは父にお願いした。だから、どんなに生きづらくても、あなたがたは、この地上でしっかりと生きられる。大丈夫。あなたがたはこの地上で、聖なる者として、自分を神に献げながら生き、また、この世の人々を、あなたがたと同じ生活へと引き続き招いていくのだ。

主イエスは、十字架におかかりになる前に捧げた天の父へのこの祈りを、私たちにも聞こえるようにしてくださいました。天の父と、御子の間だけで交わされている秘密の会話、秘密の祈りへと私たちを招き入れ、父なる神、子なる神の心を合わせた願いを、決意を、私たちに聴かせてくださっているのです。そうです。いつもいつも、御父と御子の間で繰り返されている対話、祈りの内に、私たちを招き入れ、神さまがいつもいつも何をお考えになっていらっしゃるか、私たちが決して思い違いをしないように、教えて下さっているのです。

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」

私たちは世から取り去られるのではなく、しっかりと、この世で堂々と生きてゆくことができる。

ある方が仰いました。

「洗礼を受けてから、自分は以前よりも弱くなってしまったようだ。」

「弱くなったというよりも、洗礼を受けることによって、こんなにも弱い自分であったことを認められることができるようになったということかもしれない。」

そう仰いました。

わたしは、その思い、よくわかるなあと思いました。

わたしもまったく同じように思います。

洗礼を受ける前は、自分は強い人間だと思っていました。自分に自信を持っていました。

人生の困難に出会い、潰れてしまいそうになった時、初めて教会の門をくぐりました。

最初の内は、聖書によって、信仰によって、自分の心を強くしようという願いを持っていたように思います。

けれども、それが信仰ではありませんでした。

それは、単なる教会の外側からの思い込みに過ぎませんでした。

教会に繋がっても強い自分にはなれないと聞いて、がっかりなさる方があるかもしれませんが、教会に繋がっていく時に、そのような期待を越えたもっと大きな経験をすることになります。教会に通う内に、聖書を読む内に、説教を聴く内に、生ける神様に目を開かれる経験を与えられます。私自身の実体験として申し上げることができます。聖書の言葉が、生きた言葉として、今、生きてこの私に語りかける父なる神様、イエスさまの言葉として、胸に響くようになります。

生ける神との不思議な出会いが与えられます。

そこで、わかります。

真の信仰というのは、自分が強くなっていくことではない。

「わたしは弱いときにこそ強い」(Ⅱコリント12:10)、そう告白できるようになることが、真の信仰だということが、わかるようになります。

弱いままで大丈夫。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強い神の民とされているからです。

洗礼を受けて、20年以上経ちました。牧師になって、15年経ちました。

今も変わりません。「わたしは弱いときにこそ強い」。そう言わせて頂く日々を重ねてきただけです。それが、キリスト者の歩みであると思います。このように言える日々はやはり、幸せなものだと思います。私は、そう信じています。

なぜ、教会に集う私たちは「わたしは弱いときにこそ強い」と、ここで聞かされるのか?また、聴かされるだけでなく、自分自身の言葉として、告白することが許されるのか?

今日の主イエスの祈りの言葉です。

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」

今、ここでも主イエスが父に向かって祈り、ここで私たちにも聞かせてくださっている言葉に、示されている通りだからです。守ってくださる方がいるのです。弱い私たちが世に憚って生きることを願い、私たちを生かすことを御自分の使命としてくださっている方がいるからです。この天の父と御子の間に交わされ、行き交う神の言葉、神の思いを聴くならば「わたしは弱いときにこそ強い」と、言えるようになるのです。

それは逆接ではありません。こんなに単純で、こんなに当たり前のことはありません。

弱い私たちのために、神さまは一層頑張るのです。私たちが危機に出会うならば、神さまが一層踏ん張ってくださるのです。

フットプリント、日本語で足跡という有名な詩があります。

ご存じの方も多いでしょうが、教会に来て、日が浅い方にも、是非、ご紹介したい信仰の詩です。

次のような詩です。

ある夜、私は夢を見た。

私は、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでの私の人生が映し出された。

 

どの光景にも、砂の上に二人のあしあとが残されていた。

一つは私のあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

 

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、私は砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。私の人生でいちばんつらく、悲しいときだった。

このことがいつも私の心を乱していたので、私はその悩みについて主にお尋ねした。

 

「主よ。私があなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において私とともに歩み、私と語り合ってくださると約束されました。

それなのに、私の人生の一番つらいとき、一人のあしあとしかなかったのです。

一番あなたを必要としたときに、あなたがなぜ私を捨てられたのか、私にはわかりません」

 

主はささやかれた。

「私の大切な子よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

ましてや、苦しみや試みのときに。

 

あしあとが一つだったとき、私はあなたを背負って歩いていた。

偶像と生ける真の神様の違いは、この通りであります。私たちの神様は私たちが背負ったり、お神輿に載せて担がなければならない神さまではありません。私たちを持ち運んでくださる神様です。私たちの弱さと罪を、私たちの代わりに背負ってくださる神様です。だから、私たちは弱いときにこそ強いのです。信じて良いのです。この神の言葉を、自分への言葉として聴き、語るのが、教会です。

ここまで触れませんでしたが、今日の主イエスのお言葉の中には、「御言葉」という単語がたくさん出てきます。

御言葉を守った。(6節)

御言葉を受け入れ、知り、信じた。(8節)

聖書が実現した。(12節)

御言葉を伝えた。(14節)

御言葉は真理。(17節)

このように直接語られているだけでなく、これらに関連して、御言葉、神の言葉の力について集中的に語られています。これは明らかに、後の教会の命となる神の言葉の礼拝、あるいは御言葉に導かれていく信仰生活のことが暗示されているように思います。

煎じ詰めて言えば、主イエスが去って、目には見えなくなった後、教会に託された真理である御言葉、神の言葉が、私たち主の弟子を、守り、導いていくし、新たな弟子を生み出していくということを指して、語られたのだと思います。

つまり、主イエスが去った後、弱い私たちを守り、強めてくださる神様の力が、まず、どこで私たちに触れるかと言えば、主の弟子である教会に託された御言葉において、だから、主の日の説教においてということだと言って良いでしょう。

17節で主イエスがこう仰っています。

「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。」

主の日毎に語られる、神の真理、神の真実が、私たちを聖なる者とします。19節では、その神の真理、神の真実が、私たちを主イエスと同じ、主イエスと一つである、献身者、主のものとするとさえ仰います。わたしがこれらの言葉を思い巡らしながら、御言葉から受け取り、皆さんに手渡したいのは、シンプルなことです。御言葉によって皆さんは聖なる者となります。皆さんは主のもの、献身者となります。

しかし、どのようにしてか?聖書の言葉を読んで、そこに書いてある言葉に従うことによってなのか?

そういう言い方もできるでしょう。しかし、聖書を読んでそこに書いてあることに従うとは、「あれをしろ、これをしろ」ということではありません。キリストの願い、そして、そのキリストと心を一つにされる生ける天の父の願いを、受け入れることです。

聖霊の助けによって、聖書の証しする生けるキリストに露わになった、神の御心を、この私、この私たちに対する神の思いそのものとして、受け入れさせていただくことです。

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」

この御父と、この御子の願いが、このわたしのための神の言葉であることを、聖霊によって受け入れさせて頂くことです。

この一週間、私は精神的にも肉体的にも大変な時間を過ごしました。

もっと言えば、住居を変えざるを得なくなった1年間、いいえ、そこに至るまでの3年間、ピンチに次ぐピンチでした。様々な教会の利き、家庭の危機を、完全に乗り越えたとは到底言えませんで、色々な所で破れを抱えたままです。つまり、弱いのです。

けれども、私は一度も、自分の心にもないことをこの講壇から語ったことはありませんし、そして、その説教は、聴いた皆さんはそう受け取れなかったこともあるかもしれませんが、説教者自身としては、いつも、喜びが共にありました。わたしは御言葉から喜びを受け取れなかったこと、また、それを成功したか、失敗したかは別としても、自分が受け取った喜びを語らなかったことは、一度もありません。

聖書のどこを読んでも、ジーッとそこに留まり続けるならば、ヤコブのように格闘して、主イエス・キリストを探すようにして読むならば、必ず、祝福を見つけることができるのです。

なぜならば13節で、主イエスが祈り、整え、だから、私たちにとっては、一つの約束が与えられているからです。

「世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。」

消えない喜び、決して消えない喜びがあります。だから、教会の語る言葉は、どんなに暗くても、どんなに厳しくても、明るいのです。御言葉において私たちが出会うのは、目には見えないけれども、ここに現臨してくださる主です。

私たちを捨てない主、私たちを背負ってくださる主です。このお方が今生きてここにおられるゆえに、私たちは喜びます。このお方が今生きてここにおられるゆえに、私たちは、生きて行かれます。

 

祈ります。

主イエス・キリストの父なる神様、教会にとって大きな節目となる発表をしなければならないこの日に、牧師としてこの講壇に立つことのできなかった私の弱さをおゆるしください。

しかし、この者を支えるために、長老が与えられ、教会の仲間たちが与えられ、今、共に御言葉を聴き、この説教に、そしてこの祈りにアーメンと声をそろえてくれることを信じ、感謝いたします。

あなたが愛するこの教会を守り支えてください。弱いときにこそ、十分に会働いてくださるあなたの御力を、私達金沢元町教会がこの身を持って経験することができますように。

あなたの憐みがなければ、罪と弱さの中に滅びる他ない私たちです。

今この時も約束の地で起きている、ユダヤ人とパレスチナ系住民の血を流し合う姿を憐れんでください。子どもを、老人を、若者を、壮年の者を憐れんでください。

人となられ、私たちの痛みを知っていらっしゃるイエス・キリストのお名前によって祈ります。

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。