週 報
聖 書 ヨハネによる福音書12章 1節~11節
説教題 主イエスの終活
讃美歌 18、402、29
新年度最初の礼拝に、「ナルドの香油」の物語として知られる有名な聖書箇所が与えられました。
ただただ、順番通りに読んできただけですが、今日から新しい年度の歩みを始める私たちにふさわしい個所が与えられました。
ここには、主イエスがたいへんお喜びになった私たち人間による応答の物語があります。
主イエスに信頼する者、お従いする者が造る喜びの業の模範がここにあります。
ヨハネによる福音書は、他の三つの福音書と比べて、独自色の強い福音書です。
それにも関わらず、高価な香油が主イエスのために注がれたいう出来事は、マタイにも、マルコにも、また、変則的な形で、ルカにも記録されている珍しい物語の一つです。
それらの箇所と読み合わせてみると、いよいよはっきりすることですが、主イエスは、今日読まれた印象的な女の業を非常に喜ばれたことがわかります。
だからこそ、全ての福音書が、記憶する物語となったのだと思います。
マタイとマルコは共通して、強調して、語ります。
「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」
ヨハネによる福音書は、この献げものをした女性が、ラザロとマルタの姉妹マリアであったと語る唯一の福音書です。
そのことによって、どうして、このような行為が生まれることになったのかの消息をよく伝えてくれていると思います。
兄弟の甦り、いいえ、それだけでなく自分自身の甦りを、主イエスより頂いたことから生まれた応答の業でありました。
大きな大きな献げ物でした。
売れば300デナリオンになるという香油です。
1デナリオンは、労働者の一日分の賃金だと考えられていますから、家族が慎ましい生活をするならば、一年分の生活費に当たる高価な品物です。
嫁入り道具であったと語る人もいます。いざという時に、売って、家族の生活を支える保険のようなものであったかもしれません。
けれども、マリアは、その高価な香油を惜しみなく、主イエスの足に注ぎ、自分の髪の毛で拭いました。
当時は当然舗装されていない土の街道を人々は徒歩で移動していました。移動する度に、衣服も、体も、とりわけ、足が汚れたと思います。
ルカ福音書の記述によれば、客を招いた家の主人が、足を洗う水を用意することは、大切な歓迎、もてなしのしるしであったことが想像されます。
もしも、そこになお、香油を用いるのだとすれば、手も足も、私たちが考えるよりもはるかに貴重な水で十分に清潔にした後に、さらなるおもてなしとして、香油をほんの一滴、二滴、手の平に垂らし、「手に塗り込んでください」、あるいは、「御髪を整えてくだください」というものであったろうと思います。
アロマキャンドルなどがお好きな人は良くお分かりでしょうが、香油、アロマオイルは、ほんの一滴、二滴で、部屋中に、その良い香りが立ちこめさせますから、それで十分です。
しかし、その香油を、1リトラ、聖書の後ろの、換算表によれば、326グラム、水の代わりに、ジャバジャバと主イエスの足に注ぎかけたのです。
この度外れたマリアの行為を、主イエスは、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」麗しい、美しい行為だとお喜びになりました。
福音、すなわち、神の良き知らせ、主イエス・キリストにおいて露わにされた神の、この世界に対する良き御心が語り伝えられるときには、セットでこのマリアの献げものについても、語られることになると仰ったのです。
このマリアの献げものの何がそれほどまでに、主イエスの喜びを引き起こしたのでしょうか?
主イエスの福音と同じほどに、その福音が語られる時には、必ず、一緒に語られることになるだろうと言われるほどの行為であったと、どうして言えるのでしょうか?
もしも、このマリアの行為を、先週読みました11:50の大祭司カイアファの言葉、「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だと考えないのか。」という、実に、功利的、合理的な判断からすれば、マリアの行為は、まったくのでたらめの無駄遣いであると言わざるを得ません。
私たちが頭を巡らして、この326グラムのナルドの香油を、最も効率的に、最も人道的に、最も合理的でそれこそが良い業だと誰もが納得する使い方をするとすれば、5節で語られるイスカリオテのユダの言葉は、かなり良い線いっているのです。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
もしも、この香油を献げずに、自分のために取っておいても、それはマリアの自由です。それはマリアの嫁入り道具であるし、家族にとっての保険です。それに関しては、誰も何も口を挟めません。
けれども、それを献げよう。使ってしまおうというならば、もう少し、良い使い方があるだろうと、誰もが思うような使い方をしたのです。
ヨハネによる福音書では、このような非難の声を挙げたのは、後に主イエスを銀貨30枚で売り渡すイスカリオテのユダであったとだけ記しますが、他の福音書では複数の弟子たち、あるいは、弟子に限定されないそこにいた人々とされています。
ヨハネによる福音書もまた、大祭司カイアファの非常に合理的な提案の文脈において、イスカリオテのユダの言葉というのは、ユダだけではなく、私たちこの世に生きる人間の代表としての感想だと言うことが許されると思います。
いいえ、単なるこの世の人間の言葉ではなく、やはり、12弟子の言葉だと二人の福音書記者は記録したのです。
だから、ある人は言います。
このような「高価なものをそれによって、誰ひとり助けられるということもないのに、むざむざ費やしてしまうということは、果たして正しいことであろうか。マリヤがそこでしているようないわば宗教的行為よりも、むしろ具体的に隣人が助けられるということの方を、イエス御自身も喜び給うのではないだろうか。…彼の足に香油を塗るというようなことよりも、むしろユダの言葉の方をよしとされるのではないだろうか。そのように考えるのが人間的常識というだけではなく、極めてキリスト教的な判断であると、私たちは考えます。」ところが主イエスは「誰の目にも浪費としか見えないマリヤの行為を擁護されます。彼はマリヤの側に立ち、マリヤの味方をし給いまいます。そして誰の耳にも(キリスト教的にも)正しい言葉として聞こえ、社会正義を守る言葉として聞こえるユダの言葉を退け給うのです。」(井上良雄『ヨハネ福音書を読む』)
このような読み方は正しいと私も思います。
世間の常識と言うだけではありません。キリスト教会の信仰に照らしても、ユダの方が正しく見えるのです。
しかし、だからこそ、福音書記者ヨハネは、「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」という6節の言葉を、付け足さなければならなかったと考え始めるとしたら、それはあまりにも浅い読み方だと言わなければなりません。
主イエスはユダに金入れを預けていたのです。彼こそが一番良い使い方をするだろうと判断したからです。
全てを見通す子なる神主イエスのまなざしにおいて、ずるがしこく、だらしなく、金銭を使うような者ではなく、金勘定において一番、潔白で、信頼できるから、ユダが預かっていたと考えるのが、自然なことです。
私たちのステレオタイプの聖書の読み方を手放して、聖書の心、主イエスの心に即して、読もうとするならば、ここにも、やはり、先週私たちが聞き取った祭司長たち、ファリサイ派の人々、大祭司カイアファの罪との並行が続けてここにもあるのではないかと思います。
すなわち、特別な偽善者、特別な悪人がそこにいるのではなく、むしろ、最もましな人々ですら、主イエスを受け入れることができなかったという私たち人間の罪の深さが、そこに露わにされていると読むべきだろうということです。
ある面では、イスカリオテのユダというのは、祭司長、ファリサイ派の人々どころではありません。主イエス御自らがお選びになった12弟子の一人であります。
主イエス一行の財布を預けるに足る人物であったのです。
しかも、金銭をどう使えば、それが、死んだお金ではなく、生きたお金になるのか、人道的な視点から、考えることができたのです。
そのイスカリオテのユダでさえ、本当の使い方ができていない。神の恵みを盗むようなお金の使い方しかできなかった。
そういうことではないかと思います。
だからある説教者は、この5,6節のユダの姿というのは、私たちにとって非常に切実なものだと言います。
ユダが問題としているのは、結局、金銭ではなく、愛の業です。貧しい人々を生かそうとする愛の業です。けれども、そこでこそ、主の恵みのもとで、主の恵みをくすねる我々ではないかと、その人は、言います。
曰く、「われわれの愛もまた、ユダと同じように結局は計算ずくではないか。これだけお金があったら、いいことができるのに、と言ったりする。そう言って人の批評までする。ユダは、しかし、ただ批評だけではなくて実際に施しをすることを知っていたであろう。だが、主イエスは施しをする時、自分の片一方の手でしたことを片一方の手に教えるなと山上の説教で言われたではないか。それなのにユダは、いつも片一方の手でやったことを片一方の手に教えて、わたしたちはこれだけのことができたと指折り数えて、主イエスの心から遠いところで愛のわざを数え、誇りを抱く。…私たちは主の恵みを盗んでいるだけではないか。」(加藤常昭『ヨハネによる福音書講解説教3』)
この人が言うように、「計算ずく」の使い方ばかりしてしまうし、そのことを誇りにさえ思っているのです。
最近私は、好んで社会学の手引書や、現代思想家と呼ばれる人たちの本を読んでいます。
たいへん面白い。一番興味深く思うのは、多くの学者、思想家と呼ばれる人たちの中でも、トップランナーと目される人々が、宗教の重要性、とりわけ、キリスト教の重要性というものに触れているのです。
そこでキリスト教の持つ意義について、そこに秘められた可能性について、示唆する言葉がいくつもいくつも出てきます。
私の牧師仲間の中には、日本基督教団は、50年後には消滅しているのではないかという危機感、悲壮感、焦燥感を持っている人たちはたくさんいますが、たとえ、日本基督教団は消滅しても、キリスト教会はなくならないだろうと、私は確信しています。
多くの教会が教会に秘められている力を捕え損ねて、仮に消滅していくとしても、時代を先行く人たちが既に予感している本来キリスト教会が持っている底力を掴んだ者たちが、世界を、時代を、新しい教会と共に造って行くということが、きっとこれからも起こるだろうと思っています。
行き詰った時代を打破する力が教会あるいはキリスト教にはあると、教会外の人たちこそが、気付き始めているというのは、なかなか愉快なことです。私たちもその言葉から、教会のこの世界に対する意義を学ぶ必要があるでしょう。
けれども、そういう言葉に学び、また勇気付けられながらも、本当に、本当に大切なことは、教会が、どれだけ社会に役に立つかということが、教会の存在価値を測るのではないということを、きっちりと弁えておくことです。そのことを改めて、今日の聖書箇所から教えられるのです。
私たち教会の存在目的は、いいえ、教会に限らず、人間の存在の価値は、役に立つかどうかというところで測られては絶対にならない。
そういうところで測られてはならない。なぜならば、神がそのような測り方をなさらなかったからです。
主イエスにおいて私たちにご自分の御心を露わにされる神は、イスカリオテのユダの合理性よりも、マリアの無駄遣いをお喜びになりました。
そして、「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と、全身全霊で、マリアの業を受け入れてくださいました。
そうです。ここで起こったことは、主イエスがマリアの無駄遣いを、咎めずに、受け入れてくださったということなのです。
このマリアの行為は人間的に見れば愚かな行為であったかもしれません。教会共同体の愛の業という視点においても、無駄遣いであると言えるかもしれません。
けれども、この無駄遣いこそが主イエスの福音と共に語り伝えられるものとなるのです。
すなわち、このマリアの為した無駄遣いを、主イエスは、「わたしの葬りの日のために」取って置かれた愛の業、主イエスの葬りに固く結び合わされた、人間の業として記憶されるものだと仰るのです。
このマリアの無駄遣いが指し示す主イエスの葬り、主イエスの十字架なのです。
なぜ、このマリアの無駄遣いが、主イエスの福音と共に語り伝えられるのか、主イエスの葬りと固く結び合わされるのか、もう、お分かりのことと思います。
主イエスの十字架こそが、本当の無駄遣い、本当に愚かなことだからです。
改革者マルティン・ルターは、私たち人間と御子イエス・キリストの間に起きたことを、「喜ばしい交換」「幸いな交換」と表現しました。
「キリストの富」と「私たちの貧しさ」が交換された。「キリストの義」と「私たちの罪」が交換された。「私たちの死」と「キリストの命」が交換された。それがキリストの死、キリストの十字架の出来事であると。
しかし、これは不平等な交換です。神の側に立てば、愚かな交換です。
私たちにとっては喜ばしい、幸いな交換であると言えても、神の側に立てば、貧乏くじ、無駄遣いと言わなければなりません。
しかし、神は、この無駄遣い、貧乏くじをあえて選ばれました。不思議にもです。
なぜ、不思議であるかと言えば、世界を滅ぼし、もう一度ゼロからやり直す方が、ずっとコストがかからないからです。
聖書には神が天地を創造された時、神は御子の命を必要としたとは書かれていないのです。
けれども、この世を救うためには、御子の命を必要としたのです。
天地の再創造か、救済か、費用対効果は、明らかに天地創造が低コストなのです。
けれども、主なる神さまは、費用対効果を無視して、ご自分の命を私たち罪人のために注ぎ尽くすという究極の無駄遣いを決行されたのです。
この神の無駄遣い、この神の愚かさは、聖書が、神の憐み、神の愛と呼ぶ福音そのものです。
聖書によれば、私たちの世界は、私たちは、この神の無駄遣いによって、今、存在し続けているのです。愛は計算の外にあるのです。
役に立つから救われた世界ではありません。役に立つから救われた私たちではありません。収支の合わない神の愛が生かすのです。
これが、教会に託されている福音です。
教会の中にも学生運動の嵐が吹き荒れた時代、たくさんの若者たちが既存の教会を批判し、出て行ったと聴いています。
牧師を目指していた神学生たちの中にも、神学校を辞めて、多くの人が、社会活動家になったと聴いたことがあります。
私の親しい先輩信仰者は、そのように大学を辞めて、社会の歪みの真っ只中に身を投じて活動する仲間たちの姿に、自分を恥じたと語ってくれたことがあります。
また、個人だけでなく、ある人たちは、日曜日の午前中、教会に集まって主イエスの話を聞いているのではなくて、外に出て行って、貧しい人々のために働くことこそ、主イエスの後に従う者にふさわしいことであると、教会堂を空にして、礼拝時間に、社会奉仕にいそしむことを良しとした群れがあったと聞いたことがあります。
ある側面からすれば、このような身を投じた問題提起は、キリスト者といえども、自分の満足ばかりを求めてしまいがちな私たちを目覚めさせる旧約の預言者的な自己批判の言葉として、聴くことができるかもしれません。
けれども、また、その預言者的自己批判は、簡単にユダの罪にも陥って行く誘惑があるとも思います。
なぜならば、日曜毎にここに座して、いいえ、ひれ伏して、キリストの出来事にひたすら耳を傾けることを、無駄遣いだというならば、そして、そのために全力を尽くして、礼拝を整えることを、時間と力と富の無駄遣いだと言うならば、私たち教会は、まさに、他の何のためでもなく、そのような無駄遣いのために、ここに召し出されている群れだからです。
私たちは、他の何のためでもなく、ただただ、神の無駄遣いを語るために、神が無駄遣いをされたというメッセージを伝えるためだけに、この会堂を建て、説教者を立て、全身全霊をかけて、ここに集っているのです。
三年間のコロナ禍においては、集うこともできなくなりました。集えるようになっても、お茶を飲んで、食事を共にして、団らんの時を持つこともできませんでした。
その意味では家族的な温かい交わりも、教会の中心ではなくなったのです。
それでは何のために来たのか?ただ聖書の説教を聴くためです。主イエスの無駄遣いを聴くためです。
自分は一体何のために、教会を支え、また、礼拝に集うのかということが揺さぶられた危機的な日々でしたが、しかし、そこでこそ、私たちもまた、今この時、マリアの献身に生きている者なのだということが、明らかになった日々であったと、私は信じます。
そして、逆説的なことではありますが、実はこのような無駄遣いにこそ、この世の誰にも語れない、他の仕方では決して指し示しえない、取るに足りない者が、自分では社会の役に立つのだということを弁明できない者、生きる価値を示し得ない者が、なお、あなたが生きていることがどんなに素晴らしいことかと、神が本音の本音でお語りくださっていることを、自分自身が聴き、また存在丸ごとで証しするのです。
このように、自分の存在の根底にこの神の言葉を聴き、ユダの罪の心を打ち砕かれ、自分と隣人を、この神の喜びの中に置かれている者であることを認めた者のまなざしには、一言も語らぬ蘇らされたラザロも、また、給仕のために忙しく立ち働くマルタも、その実践において両極端な者たちも、マリアと等しく、神に喜ばれ、主イエスのもとに居場所がある者と写るのです。それが教会という愛の共同体の姿です。
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