礼拝

9月4日主日礼拝

週報

説教題 天より降る命のパン

聖書  ヨハネによる福音書6章22節35節

讃美歌21 18,77,26番

ある方に勧められ先週、図書館から『古九谷の暗号』という本を借りて読みました。伝世品古九谷平皿と呼ばれます大きなお皿、現在確認されているのは、375点ほどだと言います。その古い古い九谷焼の平皿は、第三代加賀藩主、前田利常の命令によって造られたものだそうです。それは豊臣と徳川が雌雄を決した大坂の夏の陣で活躍した家臣たちに、十数年後、もう一度、恩賞を見直そうと、追加で与えられた美しい色絵皿でありました。

ところが、この平皿、ただ美しいだけのものではありません。見る人が見ればわかる秘密が隠されているというのです。

この金沢の地には、前田家に引き取られていたキリシタン大名高山右近の影響で、数千人を超えるキリスト者がいたと言われています。当時の宣教師の報告書によると、九州の大村と長崎に並んで、私たちの金沢が、日本で一番、キリスト信仰が盛んな地であったようです。第二代前田利長も、高山右近をはじめとする、キリスト者たちの姿を見て、自分も洗礼を受けたいと宣教師に語っていたようですが、家康の目を恐れ、公式には、その願いを叶えることはできなかったそうです。しかし、生涯キリスト信仰を保護し、家臣たちの中には、多くのキリスト者がいたと言います。

そのため、加賀藩では、家康のキリスト教禁教令、伴天連追放令が出てから、一見、どこよりも、厳しい禁教政策を敷いたと言われながらも、他藩のような何十、何百という殉教者は出していないそうです。
家康に疑われないように、表向きは厳しくしながら、実際は、ひそかに、キリスト信仰を保護したからです。

大坂夏の陣から十数年後、なぜ、そんな時期に、追加の褒美として平皿を与えたのか?公式には、正当な評価がされず、くすぶっていた家臣がいたからとされているようです。しかし、禁教下において、自分の信仰を公にできない家臣たちを励ますため、マニラに追放された高山右近を忘れていない、あなたたちの信仰を忘れていないと暗に語る意図があったという説もかなり有力なようです。

というのも、今では古九谷と呼ばれる美しい大きな平皿の図案の中に、キリスト教のモチーフが隠されているように見えるからです。十字架や、キリストを表す文字や、魚のシンボルや、洗礼の水やらが隠されている。石川県立美術館の学芸員の方の研究によれば、隠れキリシタンが好んだモチーフ、また、花や鳥などの図案は、他では例を見ない配置や、ポーズが用いられているのが伝世品古九谷平皿の特徴だと言います。

しかし、それらが、非常にわかりづらい形で描かれています。どうとでも、言い逃れできるようにする工夫であったと考えられています。信仰のない人には、武功への褒美としての美しい平皿に見える。けれども、キリスト者である家臣たちには、そこに十字架のしるしや、キリストのしるしを見る。

その学芸員の方は、非常に控えめな形で、それらのシンボルが出てくるのは、当時、ほとんど唯一交易が許されていたオランダの宗教画の影響、つまり、キリストや信仰のモチーフをあからさまには描かない、改革派影響によるオランダバロックの偶像崇拝禁止の文化圏からのヒントがあるのではないかと想像しています。これが事実であるならば、お隣のカトリック教会のことではなく、私たち自身にも少し関りのあることで興味をそそられます。

さて、長々と本日の聖書箇所と関係のないような話をしましたが、今日の聖書箇所の一つのキーワードである26節の言葉を理解する上で、必要なことと思い、お話しいたしました。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」
あなたたちは、このパンの中に、見るべきしるしを見つけることができないでいるねとの主の御言葉です。
小舟に乗った弟子たちと、歩いて湖を渡られた主イエスの後を追って、主イエスにご用意くださった奇跡的な食卓によって、満腹した群衆もまた、何艘もの舟に乗って、対岸のカファルナウムにやってきたのです。舟は複数形で書かれていますが、1万人近いと考えられている全員が来たわけではないと思います。熱心な人か、代表者が追いかけてきたのだと思います。

けれども、主イエスはこの熱心に主を追い求める人々に向かって仰るのです。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

私は、あなたがたの自由にできる無料の自動販売機じゃないんだ。私はあなたがたの生活を楽にする技術革新や社会保障制度じゃないんだ。そういうものでは全然ない。あなたたちは私を誤解している。見るべきしるしを見ずに、私を見誤ってしまっている。
主イエスが、仰っているのはそういうことでしょう。

「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

五千人の給食と呼ばれる出来事を通して、主イエスには気付いてほしいことがありました。その奇跡を通して、出会ってほしいことがありました。それは、技術革新としての、または社会保障制度としてのパンの増加ではなく、主イエスのまなざしであります。

直前の物語によって明らかにされた「わたしだ。恐れることはない。」と、人生の嵐に翻弄される者たちに、優しく、力強く語りかけてくださる主イエス、このお方のまなざしであります。私に気付いてほしい。この私に気付いてほしい。私が私であることに気付いてほしい。私だ。私なんだ。パンじゃないんだ。

第6章は全般に渡って、このような主イエスの激しい自己主張が響いていると私は思います。先週のところにも、今日のところにも、また、次回聴くところにも、主イエスの「わたし」という自己主張がグイっと前に押し出されているようなところがあります。

けれども、この主イエスの自己主張は、御自分が、尊敬されたい、御自分が崇め奉られたいからではないのです。私たちの救いのためです。あなたがたの腹を満たしたあのパンそのものではなく、私を見てほしい。私のまなざしに気付いてほしい。なぜなら、私のまなざしこそが、あなたたちの本当のパン、あなたがたに命を与える天から降って来た真実のパンなのだから。

ある神父さんは次のような趣旨のことを言います。
現代の人たちは、信仰者であっても、天のことを話題にすることが少なくなっている気がする。目の前のことで精一杯、自分たちの日々の生活を守ることに精一杯になってしまっているのではないか?
けれども、天のことを忘れてしまったら、キリスト信仰には一体何の意味があるのか?
天を味わうことを忘れて、深い穴の底のような現実だけに追われて生きているならば、天への憧れを忘れて、生きているならば、教会に集まって来ても、何の意味があるのか?

今、私たちが生きているこの世での家内安全、無病息災、商売繁盛、学業成就、国家安寧だけを追いまわしているだけならば、キリスト信仰は一番、信じるに値しないものです。

なぜって、たとえばヨハネによる福音書21:18には、主イエス・キリストが御自分の一番弟子と目されるペトロという人に向かって、「あなたは若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」と、言われてしまう道が、キリスト者が歩む道だからです。

もちろん、それは、主イエス・キリストというお方が私たちのパンや命にまるで関心がないということではありません。主イエスが教えて下さった主の祈りの中には、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りの言葉が、含まれているのです。

このことを思い起こしながら、ある説教者は、今日の34節の「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言った群衆の言葉は、その主の祈りに似ていると言います。群衆の願いは、全然的外れということではありません。

しかし、主が教えて下さった祈りとは、似ているようで、決定的に違う。
それは、群衆の願いには「いつも」という小さな一言が付け加えられていることです。主イエスは私たちに「私たちの日用の糧、日ごとの糧を与えてください」と祈れと教えられたのです。この「日用」とか、「日ごと」と訳される言葉、聖書学者たちの一致するところによれば、「今日一日分の糧」のことです。二日分でも一週間分でも、一生食うに困らないようにと祈るのではなく、「今日一日分の糧」を天の父に求めて良いと教えて下さったのです。

群衆の願いは違いました。主イエスを王にして、一生食うに困らないシステムを造り上げようとしたのです。
それだから、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」という群衆の言葉は、スカルの井戸端でサマリアの女が主イエスに願った「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、、、」との言葉と同じ種類の言葉だと言えます。

しるしと、しるしが指し示す実体を取り違えているのです。その実体とは、もう一度申しますが、主イエスの優しい目であります。かつて、サマリアの女を立ち直らせた、あの主イエスのまなざしです。自分の乱れた生活に向けられる非難の目を恐れ、人目を避け、炎天下に水を汲みに行っていたあのサマリアの女、もう誰にも会わなくていいように、もうここに水を汲みに来なくてもいいように、主イエスに引き篭もるための備えを願って、「その水をください」と乞うたサマリアの女を立ち直らせた主のまなざしです。

わたしはあなたを知っている。あなたの何もかもを知っている。あなたが差別されるサマリア人であることを知っている。男の陰に隠れて生きなければならなかった差別されてきた女性であることを知っている。そればかりか、あなたに責任のある、あなたの乱れた生活も、あなたの不安も、恐れも、罪も知っている。しかし、わたしは、まさにそのあなたの味方になるために、あなたを目指して来たのだ。もう、怖がらなくていいんだ。

先週、私たちが聴いたことも同じことです。

嵐の湖の上で進むことも戻ることも出来ずにいる弟子たちに、水の上を歩いて追いかけて来られ、主は、「わたしだ。恐れることはない。」と、語られたのです。私を乗せないままに、出発してしまう不明の弟子であるあなたたちを捨てない私だ。自らの失敗のゆえに、嵐に漕ぎ悩むあなた方に走り寄る私だ。そう弟子たちに語りかけられた、主イエスなのです。

このようなお方が、私たちの日毎の糧に興味がないはずはありません。私たちの日々の苦しみ、日々の戦いに無関心なはずがないのです。

そして、このようなお方がいらっしゃるということが、私たちにとって喜ばしいことであり、救われることなのではないでしょうか。

家内安全、無病息災、商売繁盛、学業成就、国家安寧、私たちが生きるために必要なことはたくさんあります。どれもこれも大事です。それらは、即物的なことで、霊的なことではないと笑うことはできません。

 

けれども、人がパンだけで生きることはできないということは本当のことではないでしょうか?キリスト信仰による救いとは、科学技術の発展や、政治の革新がもたらす救いとは全く違う救いです。

私だ。私が命のパンなんだ。あなたがたのために天の父が用意された命のパンは私のことなんだ。私はあなたの仲間だ、私はあなたの兄弟だ、私はあなたの味方だ。私はこれから先、死の先に至るまで、あなたと共にいる。

キリスト信仰は、やっぱり、キリストじゃなきゃダメなところがあります。

たとえそれが押しつけがましく感じようと、排他的に見えてしまうことがあろうと、キリスト抜きではダメだと言わなければなりません。なぜって、この信仰が私たちに差し出している救いとは、イエス・キリスト、神の独り子であるこのお方が、私たちの兄弟として、よりヨハネ的な表現では私たちの「友」として、その手を差し出しておられる、その身を捧げてくださっているということだからです。

キリスト信仰がもたらす救いとは、科学の発達や、政治の革新によってもたらされる救いとは全くの別の物です。罪の赦しとか、永遠の命とか、色々な言い方がされますが、突き詰めて言えば、イエス・キリストという友達を得ることが、私たちにとって救われるということです。

人々が熱狂したそのパンは、そのしるしでありました。このお方が、私たちの真の友人として、私たちの心と体の丸ごとに関心を払っているという友情のしるしでした。この友は、私たちに信義を尽くされます。それは、パンどころではないのです。私たちを生かすために、十字架におかかりになります。決死の友情です。この私のために命を捨てる、この友なる神の御子がいる。それが、救われるということです。

だから、カトリックのある神父さんが、この世の浮き沈みだけを問題として、天に憧れるということがなければ、信仰には意味がないと言ったことを、死後の報いを期待するという風に、誤解されないように、より精確に表現する必要があると思います。

それは、私たちの教会の第5代牧師戸田忠厚と共に、日本最初の牧師になった三人の内の一人、奥野正綱が作った賛美歌、讃美歌356番の最終節のように、「イエスさまがいらっしゃらないのならば、それがどんなに良い場所であったとしても、決して天国には行くまい。」と告白した信仰を生み出さずにはおれない主イエスとの関係に、救いの喜びを見出す信仰なのです。

私たちにとっての永遠の命の喜びとは、天国で永遠に生きることなどではありません。どこにあっても、この世でも、また未知の死の先においても、このキリストをこの私の友、兄弟として知り続け、それゆえ、神を父と呼べるということなのです。

それゆえ、私は誤解を恐れず申し上げますが、天国に行きたいからキリストを信じるとか、地獄が怖いからキリストを信じるとかいうのは、我々教会の信仰の中心に来ることは決してないと思います。

むしろ、このようなキリストが私たちと共に今も後も共にいてくださることが天の喜びであり、このキリストを失うことが、地獄であるのです。

私は、日本人は御利益宗教ばかりで、キリスト信仰がわからないと言われるのを聴くことがありますが、絶対にそんなことはないと思います。高山右近も、加賀藩士たちも、奥野正綱も、この教会に縁の深い、長尾八ノ門、長尾巻、戸田忠厚ら歴代の長老、牧師、また名前が記憶されていないこの教会の守り手たちである教会員たち、昔ながらの金沢人たちにも、この御子に出会ったのです。

本来であるならば、本日は、主が定めてくださった聖餐に与る日です。コロナウィルス感染症拡大のため、今月も、延期せざるを得ません。その食卓は、十字架上の主のしるしであります。その出来事が、私たちのためであることのしるしです。その食卓に与るとき、主がその十字架の出来事によって、私たちと、一体となるほどに、私たちの近くに共におられることをパンと杯によって太鼓判を押してくださる、キリストの臨在のしるしです。

この主ご自身が定めてくださった御臨在の確かなしるしである聖餐に与ることができないのは、たいへん、心細いことです。けれども、今日、そのしるしが指し示すキリストの臨在の実体そのものが、私たちの間に欠けていることはありません。

主は主の名によって呼び集められた私たちの内に、主の福音が語られるこの礼拝の内に、確かにいてくださることを、御言葉を通してお語りくださったのです。

この場所から、私たちが送り出されていく時、主は私たちの命のパンでいてくださいます。すなわち、私たちの味方、私たちの兄弟、私たちの友として、私たちの日々に伴ってくださいます。

そこに、信仰、すなわち、私たちの主イエスへの愛が生まれます。それは言葉そのままの意味において、神の業です。

今、私たちの胸に灯るのは、神ご自身が私たちの内に燃やしてくださる愛の炎、聖霊が、私たちの胸に灯される友情の炎なのです。

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