礼拝

12月18日主日礼拝

週 報

聖 書 ヨハネによる福音書8章39節~47節

讃美歌 7,244,25

 アドベント第4週、今日、私たちに与えられました聖書箇所において、主イエス・キリストというお方は、今、その言葉を聴く私たちに向かって、「わたしは神のもとから来て、ここにいる」と宣言してくださっています。42節の御言葉です。
 
ここにいる。わたしはここにいる。天地万物の造り主であり、だから、あなたはたの造り主でもあられる神より遣わされてここにいる。
 
なぜ、この方が、今、神より遣わされてここにおられるのか?
 
今日与えられましたところでは、これと分かる形で、はっきりと語られているわけではありません。
 
けれども、この福音書を最初に聴いた者たち、そしてまた、この福音書に聴き続けてきた者たちにははっきりとわかります。
 
たとえば、この福音書の有名な3:16の言葉を思い出せば良いのです。そこには、なぜ、神は、主イエスという方を、私たち、この世の者のもとに、お遣わしになったのか、誤解の余地なく記されています。
 
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」
 
イエス・キリスト、このお方が遣わされた理由は、神さまがこの世を愛されたからです。
 
神は世に滅びてほしくない。そのために御子をお遣わしになりました。御子を信じる者は、滅びから救われる。神は世に滅びて欲しくない。だから、御子をお遣わしになりました。
 
ここにいる。わたしはここにいる。天地万物の造り主であり、だから、あなたはたの造り主でもあられる神より遣わされてここにいる。
 
それは、あなたがたが神に愛されているからだ。
 
それが、42節の宣言の意味です。
 
聖書を読むとき、どの箇所を読んでいても、どの言葉を聴いていても、いつもいつも、この神の愛を忘れて読むわけにはいきません。
 
特に、このヨハネによる福音書を読むときには、いつでも、「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された」という言葉を常に、念頭に置いて読む必要があります。
 
ある伝説によると、この福音書を書いたヨハネという人は、かなり高齢になるまで、生きたようです。
 
歳を重ねると、何度も何度も同じことを繰り返して、語るようになるものですが、ヨハネという人も、その例に漏れず、毎度、毎度、同じことを語り続けたと伝えられていると、聴いたことがあります。
 
口を開けば同じ話をする。
 
何と言ったのか?
 
「神は愛だ」。そう語り続けたと言います。
 
教会の毎週の礼拝において、弟子たちとの日々の食卓において、未信者との語り合いにおいて、役人から尋問を受けるときも、どんな時も、どんな語り合いでも、最後には、「神は愛だ」という言葉に落ち着く。
 
群れの中に一人の幼子が与えられるときも、一人の人がその生涯を終えるときも、新しい人が教会に加わる時も、躓いて去って行く時も、「神は愛だ」、ヨハネおじいちゃんはその話しかしない。
 
イエス・キリストにある神の愛に打たれたのです。その愛に打たれ、この福音書を書いたのです。そして、それから歳を重ねれば重ねるほど、その愛に心奪われて、いつもいつも「神は愛だ」と語り続けたのです。
 
だから私たちは、たとえ、神の愛という言葉が出て来ない箇所でも、聖書を読むとき、この福音書を読むとき、神の愛を忘れて読むことはできません。
 
むしろ、このような神の愛の迫りを感じつつ、読むときにだけ、聖書は正しく読めるのではないかと思います。
 
なぜ、そのような話をしているかと言えば、今日与えられました個所は、その典型のような個所だと思うからです。
 
神の愛を聴き損なって読むならば、こんなに厳しい個所はないと私は思います。
 
既に、先週も少し触れました。
 
主イエスは今日の箇所で、御自分と対話しているユダヤ人たちに向かって申します。
 
44節です。「あなたたちは、悪魔である父から出た者」だ。
 
あなたたちは、悪魔を父として持つ者だ。悪魔の欲望に仕える者だ。偽り者の、人殺しだ。
 
あなたたちがわたしの語る言葉を理解できないでいること、わたしを愛さず、憎んでいるのは、あなたがたが、神に属する者ではないからだ。
 
厳しい厳しい言葉です。聖書中、最も厳しい言葉の一つだと言わなければなりません。
 
もしも、面と向かって主イエスからこんなことを言われてしまったら、立つ瀬がありません。
 
私たちはこのような箇所を読みながら、こんな言葉を主イエスから語られてしまう人たちというのは、どんなにひどい人だろうかと想像いたします。
 
そしてなるほど、このような言葉を主イエスから聴かされなければならなかった者たちとは、先週読んだ37節や、今日読んだ40節の主イエスの言葉から窺えるように、主イエスを殺そうと狙っている人たちだった。
 
そのことが見破られていたから、こんなにも厳しい言葉が語らなければならなかったのだと、理解するかもしれません。
 
けれども、実は、この言葉を最初に聴かされた人たちにとっては時間的順序は逆であったのではないかと思います。
 
この箇所において主イエスと対話している人がどのような人々であったか、31節で、聖書自身が、意外にも、こういうことを言っています。
 
「イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。」
 
主イエスの言葉を聴き、主イエスの言葉を信じたユダヤ人たちです。
 
もちろん、その信じ方は、完ぺきではなかったかもしれません。色々な誤解がつきまとった信じ方であったかもしれません。
 
けれども、ここで主イエスと対話している人たちは、主イエスに対して、悪意を持っている人たちではありません。むしろ、好意を持っている人たちです。
 
少なくとも、本人たちはそう理解していたはずです。
 
この主イエスという人の言葉の内には、心揺さぶる力がある。真実の響きがあるような気がする。もう少し、聴いてみたい。
 
その語るところは、よく分からない部分もあるけれど、納得するところがあるというか、説得されるところがあるというか、もう一歩、身を乗り出して、対話を続けていた人たちです。
 
主イエスが聖書中、最も厳しい言葉の一つであると言えるだろうたいへん厳しい言葉を語りかけられたのは、こういう人たちに向かってです。
 
「あなたたちは、悪魔である父から出た者」だから、わたしの言葉を聴かないのだ。
 
このように、順を追って読んでいくと、主イエスへの殺意を見抜かれたから、こんな厳しい言葉を語られたのではないのだと思います。
 
むしろ、逆です。
 
こんな厳しい言葉を語られてしまったから、主イエスへの殺意が燃え上がったのではないかと思います。
 
ちょっとは聴く価値のある話をする奴だと思ったのに、なんなら、弟子になってやってもいいくらいに思っていたのに、俺たちが、悪魔の子だって?俺たちが神に属していない人殺しだって?ケンカ売ってんのか?
 
主イエスは、熱くなりすぎて、御自分の話を聞いて、対話相手の心の内に起こった変化、主イエスを信じたい、信じようという気持ちにも気づくことなく、彼らが敵対者だと決めつけてかかってしまったせいで、こんなことを仰ったのでしょうか?
 
いいえ、そうではありません。
 
問題はまさにここなのです。
 
主イエスのことを信じたり、拒否したり、その判断を自分たちができると思い込んでいるところが、この人たちが悪魔に属する者であること、悪魔を父として持つ者であること、そのものなのです。
 
 
44節で、主イエスは悪魔の特徴についてお語りになります。特に後半の言葉です。
 
「悪魔が偽りを言う時は、その本性から言っている。」
 
ある人は、この言葉をよく分かりやすく次のように訳しています。
 
「悪魔が虚偽を語るときは、自我から語る。」
 
この方はわかり良いと思います。
 
悪魔が語ることが偽りであるというのは、悪魔はその自我から語るからです。
 
自分から語ること、自分を起点として語ること、それが悪魔の特徴、だから、悪魔に属する者たちの特徴だと主イエスは仰るのです。
 
しかし、主イエスという方は、42節後半、「わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになった」お方です。
 
ここには、悪魔とそれに属する者たちとの主イエスの明白なコントラストがあります。
 
自分勝手に語る者と、お遣わしになった神の言葉を語る者とのコントラストです。
 
聖書にははっきりとそういう言葉で書かれているわけではありませんが、ここで主イエスが御覧になっているのは、キリスト教会が原罪という言葉で、言い表さざるを得なかったほどに、深く深く私たちの存在に根差し、一体となってしまっている罪の深さであると思います。
 
自我から語ること、自分から語ること、それは自分自身が、判断の主体となるということです。
 
主イエスの語る言葉が正しい言葉であるかどうか、主イエスが神より遣わされた者であるかどうか、自分が判断の主体となっているということです。
 
彼らは主イエスの言葉を聴き、主イエスを信じたのです。
 
つまり、それは主イエスの言葉が彼らのお眼鏡に適ったのです。
 
けれども、主イエスの言葉が、自分の気に入るものでなくなるならば、信じることを止めるのです。
 
それがここで悪魔の特徴と言われる自我から語ること、自分から語るということです。
 
その言葉が正しいかどうか、信じるに値するか、信じるに値しないか、それが神の言葉であるか、どうか、自分は判断できると思い込んでいるのです。
 
遡って、遡って言うならば、ここで主イエスが指摘しておられる罪は、創世記が非常に神話的な言葉遣いで語っていることと同じです。
 
創世記第3章が、蛇の誘惑の結果として語る人間の罪とは、目が開け、神のように善悪を自分で判断できる者となったということなのです。
 
エデンの外に住む者にとっては、生きるための必須条件とも言える、私たちの存在そのものに食い入っている在り方です。
 
しかし、まさに、この自我が、ここで悪魔とその子らの特徴として言われてしまいます。
 
なぜならば、それは、神から遣わされた方である主イエスの言葉が気に入らなければ、その方をも殺そうとする善悪の判断だからです。
 
そしてその時、もちろん、その判断を下すとき、自分が悪いことをしているなどということは、思ってもみないのです。正しいことをしていると思い込んでいる。神の御心に従っているとさえ、信じ切っているのです。
 
つまり、39節や、41節の主イエスに対する彼らの抗議の言葉の通り、神より遣わされた主イエスの言葉に逆らって、自分たちは、信仰の父祖アブラハムの子孫であり、神を父として持つ者だと、信じて疑わないのです。
 
しかし、それは、悪魔を父として持つ者の特徴として、自分勝手に語っているのに過ぎません。
 
そしてまさにここに、原罪とも言うべき人間存在と一体となった深い深い深い罪の構造があるのであり、自分で気付くことすらできない罪であり、たとえ気付いた所で、自分の存在と一体過ぎて、逃れようがないのです。
 
それがどれほど、逃れようのないものであるのか?
 
主イエスの激しく、厳しい言葉が物語っている通りです。
 
わたしの言っている言葉がなぜわからないのか?それはあなたがたの父が悪魔であって、自我から語っているからだ。あなたがたが聞かず、わたしを愛さないのは、神から出た者ではないので、真理を愛せないからだ。
 
聖書の中で最も厳しい言葉の一つだと言いました。
 
このように語られてしまった者の心の内に、殺意を芽生えさせてしまう言葉です。
 
けれども、最初に申しましたように、この方が、今、ここにいて、このような言葉を語られること、それは、天の父の独り子を世にたまわるほどの愛の内に為されていることです。
 
そうであれば、これは、単なる裁きの言葉でもなければ、まして有罪の宣告でもありません。
 
慟哭の言葉です。
 
その大切な雛を翼の陰に隠そうとする母鳥のように、御自分の民を滅びから救おうと、集めるためだけに来られた世の救い主が、集めても集めても、その端から散って行く者たちの姿に、胸が押しつぶされそうになりながら語る慟哭の言葉です。
 
「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。」それなのに、「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。あなたたちは、わたしを殺そうとしている。」
 
こんな風に、強く嘆かれるお方は、どうして、信じないのか、どうして愛さないのか、どうして殺そうとしているか?よくご存じなのです。
 
語っても語っても響くはずがないこと、響いた所で、それは、殺意に至る他ないこと、よくご存じなのです。
 
それにも関わらず、私たち世にある者を諦めず、私たち自我から語る者と関わり合うことをお止めにならず、もっと先に突き進んで行かれます。
 
昨日、私は、北陸学院小学校のクリスマス礼拝に出席いたしました。
 
私たちの教会学校に出席している何人もの生徒が、ページェントを演じたり、聖歌隊の讃美をしたり、ハンドベルを演奏したり、楽しい楽しいクリスマスのお祝いでした。
 
このクリスマスでは、いつも、近隣の牧師が説教者として呼ばれますが、今年は、羽咋教会の内城恵牧師が、奉仕されました。
 
内城牧師の説教は、子どもにもわかりやすい、しかし、真っ直ぐに十字架を語る言葉でした。
 
内城牧師は、だいたいこういうことを仰いました。
 
今、私たちはアドベントの時を過ごしている。アドベントという言葉は、私たちがよく知るアドベンチャー、冒険という言葉の元の言葉だ。
 
クリスマス物語に登場する羊飼いや博士たちは、ベツレヘムに向けて救い主を探す冒険をした。
 
でも、このベツレヘムにお生まれになった幼子こそ、大きな大きな冒険をした。
 
危険な危険な冒険、命を掛けた冒険、本当に命を注ぎ尽くした冒険、私たちの罪を取り除く十字架への冒険をしたのだ。
 
その説教を聴きながら、アドベントの期間というのは、主イエスがお生まれになった後も、続いたのだなと思わされました。
 
むしろ、そこからこそ、主イエスの危険な冒険は始まったのだと、思い巡らしていました。
 
その意味では、今日共にお読みしたところ、主イエスの厳しい言葉もまた、福音書の結論ではなく、主イエスの冒険の途上の言葉なのです。
 
そしてまさに、このような悪魔の子としか言いようのない人間のために、主イエスの冒険はここで終わるわけにはいかなかったのです。
 
わたしがここに来ているのに、あなたたちがわたしの言葉を聴かないのは、あなたたちが神に属していないからだ。だからこそ、わたしはやって来た。わたしはなお、先に進まなければならない。
 
主イエスの冒険の目的は、他の冒険と同じように、宝を目指したものでした。
 
ただし、その宝は宝石でも、名声でもありませんでした。
 
主イエスの宝、それは、この目の前にいる世にある人間でした。
 
主イエスの十字架による救いは、代々の教会によって様々な豊かな言葉で表現されてきました。
 
中でも、最も古い表現の一つは、この方がその十字架によって、私たち人間を、悪魔のものから神のものへと買い取った、分捕った、悪魔との戦いに勝利され、私たちをご自身のもの、父のものとし切ってくださったというものです。
 
主イエスがいよいよ突き進まれるために、悪魔の子は、悪魔の子のままであることはないのです。神のものとされるのです。
 
それゆえ、今日の箇所で語られた激しく厳しい主イエスの言葉に驚きながら、けれども、私たちは、この方の言葉を、激しい招きの言葉、何とかして、私たちを得ようとする神の情熱の迸り、愛の激しさと聴くことしかできないのです。

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。