礼拝

3月7日(日)礼拝

週報

説  教  題  「この世の軛からの自由」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ6章14節から7章1節まで
讃  美  歌    294(54年版)

ここまで読み進んでまいりましたコリントの信徒への手紙Ⅱですが、神が使徒パウロの書き送ったこの手紙を通して、私たちにお望みになっていることの一つは、明らかに私たちキリスト者の中にもあるファリサイ根性と向き合い、それに打ち勝ってほしいということであると思います。ファリサイ根性とは、砦の中に立て籠もるような分離の精神です。汚れた罪の世から自分を引き上げ、箱舟の中に入り、戸をぴったりと閉じて、キリスト者とそれ以外の世との境界線をはっきりと線引きし、自分の救いの確信だけを、追求するような生き方です。そのような私たちに対して、神は使徒を通じて、もっと心を開けとお命じになります。心を狭くするのではなく、心を大きく開き、開け放てとお招きになります。

 神はお召しになった人間たちを、弱さを克服した超人にしようとされるのではありません。キリストの出来事によって生み出された新しい人間とは、死にかかっているようで生きており、悲しんでいるようで常に喜び、貧しいようでいて、多くの人を富ませる、逆説的人間です。弱さはどこにもないという人間ではなくて、弱いままで、最強という人間です。それは弱く貧しい私たちの傍らにいて、それどころか、この土の器たる私たちを、住まいとしてくださるイエス・キリストの霊が、ぴったりと私たちに寄り添い、私たちの味方となり、私たちと、どこまでも共に歩んでくださるからです。レベルアップをするのではなくて、レベル1のままでありながら、これは聖書的な表現でありますが、キリストという光の武器と光の防具という最強の武具を身につけさせて頂いているのです。しかし、もちろんこのようなたとえよりも、ずっと素晴らしいことが起きているのです。天にいます全能の父なる神が、私たちのふさわしさによらず、ただキリストにおいて私たちの慈しみ深い父となってくださったのであります。世の終わりに至るまで。ただひたすら天の父の愛のゆえに、私たちは弱くても強いのです。滅びずに、生かされるのです。

 だからあまり力まなくても良いのです。ほっと一息つくことがいつでも赦されています。主イエスは、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と仰るのであり、それは、信仰の初めばかりではなく、主イエスがくださる荷を背負い直し、新しくキリスト者として歩き始めてからも同じであると思います。神はご自分の民と共に歩まれるその歴史においても、重要な場面で何度も、「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」(詩46:11)と語りかけてくださいました。私たちの心騒ぐ時、自分ではどうにもならない困難に出会う時、これは静まって私の神であることを知る時だと、宣言してくださるのです。心を広くし、神様にお任せしていいと、張りつめていた息をゆるめて、一息ついていいと、キリスト信仰とは、修練ではなく、神信頼に生きることだと教えてくださるのです。

 しかし、このあなたがたの狭くなった「心を広くしてください」というパウロの言葉を切断するように、「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法にどんなかかわりがありますか」以下の言葉が、突然語りだされます。

 「切断」、「突然」という強い言葉を使いましたが、ここには注意深く読んでみるならば、誰もがそう感じざるを得ない調子の違いというものがあるのです。どんな解説書にも、コリント第2の手紙の6:13と、6:14の間には、大きな切れ目があると書かれています。

 この書を読みだした最初の頃、申しました。この手紙は、一つの手紙ではなく、複数の手紙が集められたもの、しかも、順番に置かれているのではなくて、何かの拍子で、バラバラになってしまった手紙を慌てて拾い集めたままのように、秩序なく入り混じってしまったような部分がある。そんな風に、解説する聖書学者が多いとお話しました。実は、ここも典型的にそういう部分であると理解する者もいる箇所です。試しに、6:13から、7:2につなげて読むと、よくわかります。「子どもたちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。わたしたちに心を開いてください。わたしたちはだれにも不義を行わず、だれをも破滅させず、だれからもだまし取ったりしませんでした。あなたがたを、責めるつもりで、こう言っているのではありません。」と続けると、とても自然に読めます。ところが、その「責めるんじゃなくて、同じ恵みに生きてほしいから、心を広く開いてほしい」と諭す言葉の真ん中で、「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。」と始まります。多くの学者が、これは別の手紙の断片が何かの拍子に、ここに混ざってしまったと考えます。

 あるいは、何の理由もなく、偶然に混じったというのではなくて、ここに関しては、神はキリストを通して世とご自分を和解させてくださったという恵みに立って、「心を広くしなさい」と言っている最中に、「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」と、まるで反対に心を狭くするようなことが語られているので、但し書きを入れるように、わざわざここにこの断片を入れ込んだと考える人もいます。

 しかも、その場合、この断片は、この書におけるパウロの全体の言いたいこととは明らかに矛盾している。正反対である。だから、後代の心の狭くなった教会が、挿入した言葉であると、解説する者、あるいは聞く必要のない言葉と全く取り合わず解説者すらいます。

 しかし、そう簡単に捨てることができるか?パウロの言葉じゃないと言ってしまっていいのか?私はそう思いません。パウロの手紙というのは口述筆記ですから、推敲を重ねて書いたような文章ではないと思うからです。論文を書いているのではなくて、喋ってわからせようという言葉ですから、最初に言ったことと、後に言ったことが、表現の上で矛盾することもあり得ると思います。パソコンのように、簡単に切り貼りもできません。思いついたことがあれば、脱線することもあると思います。そういった意味で、「心を広くせよ」と言ったパウロ自身が、ぱっと立ち止まり、パウロ自身で但し書きを入れたと理解しても許されると思います。

 そもそもパウロの言葉というのは、よく誤解されるものであるということは、わたしたちも良く知ることです。いや、わたしたち自身がパウロを読みながら、パウロを理解したつもりで、結局自分の信仰理解を含めた、自分の常識の範疇にパウロを押し込めて理解してしまうことがあります。賛成するにしろ、反対するにしろ、デフォルメしたパウロを見ていることがあります。

 これは、パウロ自身が生前においても苦労したことですが、一つには、神は罪人を救われる。罪が深ければ深いほど、神の恵みの大きさが露わになるのだと、自分の罪の大きさに打ちのめされている者に語ったようなパウロの言葉を捉え、「パウロは、恵みが増すように、どんどん罪を犯せ」と教えていると、批判されてしまいました。再臨の問題も同じです。もうすぐ、終末がやってくるから、それに備えて生き方を始めよとパウロが語ると、仕事を辞めて、財産を切り崩し、喰いつくし、やがて信仰の兄弟に養ってもらわなければならないような者が出てくる。キリストにおいて世と和解してくださった天の父の恵みを思い、心を狭めず、広くしなさいという言葉も、同じような誤解に直面しがちな言葉であると思います。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と言われれば、教会では受けるだけってなるかもしれないんです。「力を捨てよ、知れ/わたしは神。」と宣言されれば、奉仕も何もする必要はないと考え始めるかもしれないのです。心を狭めるな。ファリサイ根性を捨てなさい。教会だけでなく、神は世と和解されたんだと聴けば、じゃあ、教会とこの世の境目は何もないならもう好き勝手に生きようとなりがちなのです。

 コリント教会はエリート主義の教会である反面、一方において、この問題も抱えていました。第1の手紙では、不品行な町として知られたコリントの気風にすっかり染まって、父親の後妻と関係しながら、平気でいると言ったことが起きたり、信徒間で、裁判沙汰が起きたりする事件がありました。しかし、そのことを恥に思わない。教会全体で、暗黙の了解として認めてしまっている節がある。福音のもたらす赦し、自由の理解が変に働いて、許容していしまっているのかもしれません。

 ある説教者は、最近のキリスト教会は、物分かりが良すぎると言いました。物分かりが良すぎて、世間との区別がつきにくくなっていると言いました。この言葉よくわかる気がいたします。明治時代のキリスト者たちは、禁酒禁煙、聖日礼拝厳守の姿勢を貫き、寄席にもいかなかった。今よりもさらに少数者でありながら、埋没することはなかったのです。その生活からして、周りからは際立っていたのです。宮沢賢治の有名な詩「雨ニモ負ケズ」のモデルの一つとされ、「デクノボーと呼ばれ」、「褒められもせず」、「苦にもされず」、「そういうものにわたしは成りたい」と言わしめたのは、斎藤宗次郎という無教会のキリスト者でした。私たちは今そういうものを持っているでしょうか?しかし、事柄は単純ではありません。ピューリタンのように酒とタバコをのまず、芝居を見ず、質素倹約に努め、漫画も小説も読まず、聖書だけを読んで生きればそれで済むのか?それでは済みません。それでは、ファリサイ人になるだけです。

 私たちがパウロの心を広くせよという言葉を聞きながら、神が世と和解されたという恵みの事実を聞きながら、ファリサイ化をするなという言葉をきちんと聞きながら、なお、私たちは、教会であり続けなければなりません。私たちの進む道は、狭く細い道であり、少数で箱舟に乗り込むことでもなく、世に埋没し、区別がつかなくなることでもなく、キリスト者の旗印を固く保ちながら、ファリサイ化せず、心開かれた者として生きる道です。

 だから、パウロもまた、14節以下の言葉を語る必要がありました。「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんなかかわりがありますか。光と闇とにどんなつながりがありますか。キリストとベリアルにどんな調和がありますか。信仰と不信仰に何の関係がありますか。神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。」この世を統べ治められる神さまに心を開いても、教会はこの世の中に解消されることはありません。世の終わりまで教会はこの世の只中にあって、輪郭線を持ち続けた教会であり続けます。そうでなければなりません。そうでなければ、神様はわざわざ教会を召し出す必要はありませんでした。和解されたこの世全体を教会とお呼びになれば良かっただけです。

 問題は、14節以下をどう聞くかです。普通、「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」と言われる時、第一に思い浮かべられることは、婚姻関係のことです。軛という農機具は、二頭の馬や牛を繋いで、その力で地を耕すものです。二頭を一体とし、力を発揮させるものです。呼吸が合わなければ、足並みがそろわなければ、主人の役に立つことはできません。パウロはコリント宛の第1の手紙において、(第7章)主の命令としてではなく、自分の見解として、まだ結婚していない者はなるべく結婚しない方がいいのではないか?なぜならば、未婚の者は、主を喜ばせることに一生懸命になるけれども、結婚すると配偶者にも気を取られることになるということを言いましたが、それこそ、信仰の違う者と結婚すれば、気兼ねして、主のために働くことがおろそかになるという風な理解に誘われるところです。

 ところが、パウロという人は、その第1の手紙の該当箇所を読んでいくと、信仰を持っていない配偶者とはさっさと別れてしまえなんてことは言わないのです。家庭生活だけでなく、社会生活においても、信仰を持っていない人と付き合ってはいけないというならば、この世から出て行かなければいかなくなると言うのです。そしてむしろ、信仰を持っていない夫は、妻の信仰のゆえに、聖なる者とされていると言うのです。片親のクリスチャンであっても、子どもは間違いなく聖なる者であるのと同じようにと。16節の半ばからたくさんの旧約の言葉を引用しながら、特に、17節「だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように」、「そして、汚れたものに触れるのをやめよ」という言葉を聞きながら、未信者の配偶者と暮らしていることを何か後ろめたい妥協のように感じたり、同じ信仰には生きていない職場の仲間、クラスの友人に囲まれながら、本来ならば付き合うべきでない人たちと付き合っているのだと、後ろ暗い気持ちになると言うならば、それは神の言葉を聞き違えたのです。洗礼の有無は関係ない。信仰を持っていない夫は妻のゆえに聖なる者とされているのです。洗礼を受けていなくても、子供が聖なる者であるのが当然であるように。そして、神はキリストにおいて世と和解されているのです。

 「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」。「汚れたものに触れるのをやめよ」という言葉を聞くとき、私は、いつも個人的な一つの経験を思い出します。それは、自分がものすごく無価値な存在に思えた時、人の目が責めるようで怖くて、外出することも恐ろしくなってしまった時期に、「汚れたものに触れるな」の旧約の言葉が、なぜだか心に響き、深く慰められたという経験です。特に思い起こすのは、レビ記11:44の言葉です。「わたしはあなたたちの神、主である。あなたたちは自分自身を聖別して、聖なる者となれ。わたしが聖なる者だからである。地上を這う爬虫類によって自分を汚してはならない。」地を這いずり回るような暗い心に囚われ、自分の無価値な者であることを思い知らされていたとき、「私はあなたの神だ。私が聖なる者だから、あなたも聖なる者だ。地を這うような暗い思いにあなた自身を引き渡すな。」そういう風に聞こえてきました。私たちを抑えつけるような言葉は世の中に溢れています。世の中だけでなく、家庭の中にも溢れているかもしれません。私たちを低く見積もり、お前はダメな者だ、お前はつまらぬ者だ。言葉だけでなく、そのまなざしで、そのため息で、私たちのダメさかげん、お荷物かげんを思い知らせるような世の人々の反応というのは、溢れかえっていると思います。そういうものをシャットアウトして、仲間内だけの、あるいは自分だけの居心地のいいスペースを作っても、この自分の心の内から、地を這うような暗い思いというのはどうしようもなく湧き出てくるものだと思います。私たちキリスト者が、教会がファリサイ主義を捨てて、地の塩として、世に派遣されていく時、その世が語りかけてくる暗い言葉に埋没しそうになると思います。そういう危険な所に主は私たち教会を遣わされます。箱舟の中で世の終わりまでくつろげとは仰いません。

 けれども、そこで、この世の人々が自分で背負っているだけでなく、私たちにも背負わそうとしてくる軛を負ってはいけないと言ってくださいます。滅びの淵に一緒に引きずり込もうとする不法の言葉、闇の言葉、不信仰の言葉、ベリアル、悪魔の言葉、地を這う言葉に、この世の軛を背負うのは辞めろと仰るのです。その嘘に巻き込まれてはいけない。

 16節、パウロは、私たちは生ける神の神殿だと言います。主は私たちを住まいとしてくださる。どんなにつまらない私でも、どんなに罪深い私でも、どんなに貧しい私でも、それを認めたって、それを誰よりも十分認めながらも、悪魔には騙されません。私たちは聖なる者であります。神の特愛の存在であります。そして、それは自分で自分に言い聞かせなければならないことではなく、神が私たちに語ってくださることです。世に私たちを派遣される神が、天に座しているだけでなく、この旧約の引用が愉快だと思いますが、16節の後半「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。そして、彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」私たち教会をもう一度、世に派遣される神が、この世に生きる私たちの間に住み、巡り歩き、それどころか、私たち自身を住まいとし、「わたしはあなたの神であり、あなたはわたしの民だ」と語ってくださるのです。

 なぜ、父なる神様が、キリスト者たちが、箱舟やゲットーの中に引き籠ることを望まず、わざわざ人間を低く見積もる悪魔の言葉が満ちる世に送り、置き続けるのかというと、これはもう、言うまでもないかもしれません。この世から悪魔の嘘を吹き飛ばし、神の言葉をもたらすためです。洗礼を受けていない自分の子供に向かって、また夫に向かって、「あなたは聖なる者だ。神さまはそう見ているし、私もそう見ている」という和解の言葉、十字架のキリストが真実な出来事として実現してくださった福音の言葉を告げるためであります。

 この世界に生きることは重く耐えがたい悪魔の軛を負って滅びに向かって生きることではなくて、負いやすいキリストの軛を負い、祝福に向かって生きることだと告げるためであります。この世の中は、何があっても悪魔が支配する絶望の世の中ではなく、神の支配がやがて必ず実現する歓喜の世の中だと告げるためです。このことと反対のことが告げられるときには、私たち教会はものわかりがよくなってはならないのです。デクノボーと呼ばれようとも、決して楽観主義者ではありませんが、仮に楽観主義者と言われようとも、この点を譲るわけにはいきません。

 そのためにまず私たち教会に求められるのは、ルドルフ・ボーレンという神学者がいつも言ったように、人の不信仰をあまり重んじないということだと思います。そしてそれは、同時に自分の信仰を自分の手柄と思いこまないこととセットであると思います。

 この金沢元町教会に生きるキリスト者たちが良く習い覚えた見えるところに逆らって自分を聖なる者と見做すそのまなざしが、自分を越えて、今はまだ主を信じない隣人に向かう時にこそ、祝福の力は動き出すと私は信じています。そしてそれが起こらない時、何事も起こらないと私は思います。なぜならば教会の使命と存在理由は、組織を守ることではなく、自分の救いの確信を得るためでもなく、世に祝福の言葉を告げるためにこそ、立てられているからです。

 しかしまた、私たち自身の不信仰もあまり問題としないようにいたしましょう。なぜならば、私たちは弱いときにこそ強いのであり、神は小さな弱い家族を選んで用いて、地上の全ての氏族を祝福することを約束なさっているからです。

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