週 報
説教題 思い込みの罪
聖 書 ヨハネによる福音書7章40節~52節
讃美歌 3,244,24
私たちプロテスタント教会は何よりも聖書を重んじる教会です。
教会が代々言い伝えてきた伝統的な教えであっても、もしも、それが聖書に照らし合わせて、違っているなと思ったら、教会が何百年と守ってきた伝統的な教えや実践も、聖書に基づいて訂正することを厭わない教会です。特にこの金沢元町教会が生まれ育った改革派教会と呼ばれる教会は、その名前からしてそもそも改革されることを大事にしている群れです。
ある人が、改革派教会の名前が表す私たちの姿勢を正しく理解するならば、それは、「御言葉によって絶えず改革されていく教会」と理解すべきだと言いました。
流れる川は遠くから眺めれば、100年も200年も変わらずに、そこにあり続けるように見えますが、近づいてみれば、その水は絶えず流れ、変化し続けているのと同じです。その御言葉による教会の変化とは何かと言うと、一言で言えば、人が変えられるということです。御言葉によって変えられた人が、与えられるということです。
そもそも教会とは、建物のことではなく、そこに集められた人々のことです。
137年の歴史を持つこの教会も、当然、変化し続けてきました。
今、委員の方々が一所懸命に、135年史の編集を行ってくださっています。そのために、教会員原簿や、110年史の年表資料を見る機会が私も増えていますが、それを見るだけで、呼び集められた人の群れである教会というのは、実際に一年たりとも、いいえ、半年たりとも、同じ形をしているわけではなく、常に動き続けているということが分かります。
教会という群れは、今までも常にダイナミックに変化し続けてきたと言えるし、今も、また、変化、改革の途上であり続けると言わなければなりません。
そして、また、教会とはそもそも変化し続けるもの、改革し続けるもの、そういうものだと、私たち改革派教会は理解し続けてきました。
実は先週の礼拝、私はとっても嬉しかったことがあります。古い友人たちに会ったから、嬉しかったのかと思ってらっしゃる方もいるかもしれませんが、そうではありません。先週は礼拝出席者の2割が、まだ洗礼を受けていない方々、あるいは小児洗礼を受け、信仰告白を終えていない方々だったのです。この壇の上から、まだ洗礼を受けていない、私たち教会が求道者と呼ぶ方々の顔が何人も何人も見られました。
ご本人たちは求道者、道を求める者と呼ばれることは遠慮したいという方もあるかもしれませんが、そういう呼び方しか今のところはないので、御勘弁いただいて、そう呼ばせて頂きます。私たち教会の信仰においては、実際に、そう呼ばなければならない必然性はありませんし、ご本人が熱心に信仰を求めていらっしゃるかどうかも、実は、あまり関係がありません。
さまざまな動機、さまざまな目的を持って集っていたとしても、私たち教会の信仰によれば、ここにいる一人一人は、神がその名前を呼び、ここに集めてくださった一人一人です。今、ここにあるのは神が、今日、ここに来てほしい、この礼拝に参加してほしいと、神が呼び集められた人間の群れです。
そしてそこには洗礼を受けた者、小児洗礼を受け、まだ信仰告白を終えていない者、洗礼を受けていない者が、入り混じっている。入り混じりながら、ともに金沢元町教会に集められた群れとして、神に礼拝を捧げている。イエス・キリストの父なる神を礼拝することを知らなかった者が、礼拝する者へと変えられていく。
私は教会が生きている。躍動し続けている。神がここに生きて働いていらっしゃり、教会は生き生きと生きていると、そう感じ、神にひれ伏す思いになります。
けれども、なぜ、神は、私たちを礼拝へと招かれるのでしょうか?
教会が大きな組織となり、健全に運営されていくためではありません。
神が、私たちに語りたいことがあるからです。
神は神の言葉を聴かせたい。私たちに聴いてほしいことがある。
それによって、私たちの生き方を変えてほしい。悔い改めてほしい。
そのために、神は私たちを教会に招かれるのです。
それでは、神が聴いてほしいと望んでおられる神の言葉とは何でしょうか?
聖書の言葉です。聖書に神の言葉が証しされています。
この聖書に証しされる神の言葉を聴くことによって、生き方を変えてほしい。変え続けてほしい。
聖書に証しされる神の言葉とは、私たちの生き方を変えてしまうものです。
しかし、それは、私たちに新しい人生訓、新しい格言、新しい指針を直接与えるというものではありません。
東京神学大学の学長であった組織神学者の近藤勝彦先生は、聖書が私たちにとって、「信仰と生活の誤りなき規範」(教団信仰告白)であると告白されるからと言って、それは、「もちろん機械的に聖書の文章の一点一画が文字通り私たちの生活や行動を律すると言っているのではありません」と言いますが、私も同じ意見です。なぜならば、聖書自身が、それが語るのは、こう生きろ、ああ生きろという具体的な指示ではないとはっきり言っているからです。
それが何を語っているか、主イエスは次のように語られます。
それは、私たちに読んでいるヨハネによる福音書の少し遡った5:39以下です。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」
イエス・キリストご自身が仰っています。
聖書とは、キリストです。
聖書を読むのはキリストに出会うためです。神が私たちをこの礼拝に呼び集め、聖書を説く説教を聴かせるのは、キリストに出会わせるためです。
新しい道徳を与えるためではありません。あなたがたは、神の子どもなのだから、あれをしろ、これをしろと、聖書を通して、指示を与えるためではありません。
罪を指摘する時も、あなたたちのここがダメだ、あそこがダメだと、悪い所を指摘するためではありません。
その耳の痛い言葉を通して、キリストに出会わせたいがためです。
そんな私たちを見捨てないキリストの愛を語りたいだけです。
キリスト教とは、キリストなのです。
どうすれば、私たちは人間らしく生きられるのか?自分らしく生きられるのか?
生き生きと充実した人生を生きられるのか?
私たちの造り主であられる神の差し出される答えは一つです。
私の独り子に出会いなさい。御子をあなたの友としなさい。
今、ここからイエス・キリストと共に生き始めなさい。
そこにあなたの永遠の命がある。
永遠の命とは、ヨハネによる福音書の語る主イエスの御言葉によれば、単に無限に延長する時間を生きる命ではありません。
この福音書において永遠とは、長さではなく、むしろ、質のことを言います。
永遠の命とは、この福音書において、無限に長い命のことであるよりも、無限に質の高い命のことです。
実は、ヨハネによる福音書だけではありません。
永遠の命とは何なのか?あるいは、本当の命とは、何なのか?
旧約聖書以来、それは、時間が無限に延長していくことではありません。質の高い、充実した命を生きることです。
たとえば、詩編84:11にこういう言葉があります。
「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです。主に逆らう者の天幕で長らえるよりは/わたしの神の家の門口に立っているのを選びます。」
つまり、こういうことです。聖書には、永遠の命が隠されている。その聖書に隠された永遠の命とは、イエス・キリストのことである。聖書を通して、聖書の証しするこのイエス・キリストに出会う時、私たちは永遠の命を頂ける。
そして、その永遠の命とは、長い命のことであるよりも、まず質の高い命のことを言っている。
聖書の約束は、私たちが充実した人生を生きられるようになると、約束している。
だから、どうしたら長生きできるか?という問いを持って教会と聖書に近づいても、思うような答えは与えられないかもしれませんが、どうすれば、私たちは人間らしく生きられるのか?自分らしく生きられるのか?生き生きと充実した人生を生きられるのか?という問いを持って、聖書に近づき、教会の門をくぐった人には、一つの確実な答えが与えられます。
それは、私の独り子をあなたの友としなさい。今、ここからイエス・キリストと共に生き始めなさい。そこで、あなたの命の充満があると約束されます。
これが聖書の答えです。これが神が私たちにどうしても聞いてほしいと願い、私たちをここに集め、聴かせようと願っている言葉です。
この神の言葉を聴き、神の差し出される手を握りしめ、キリストの友となって生きてほしい。
このことを聞き逃すと、いくら聖書を読んでも聖書読みの聖書知らずになってしまいます。
「右の頬を打たれたら左の頬を出せ。」
「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見つかる。門を叩け、そうすれば開けてもらえる。」
「人にしてもらいたいと思うことは、何でも、あなたがたも人にしなさい。」
聖書には良い言葉がたくさんあります。人生の指針としたい、良い言葉が溢れています。けれども、これらの言葉を実践したところで、私たちの求める充実した人間らしい人生を歩めるようになるわけではありません。
イエス・キリストという友達を得なければならない。
考えてみれば、そうです。
これまでの自分の歩みを振り返って、私たちの心を温め、幸福を感じさせてくれるのは、自分が何を成してきたかということよりも、誰と出会って来たかということではないでしょうか?
聖書も同じです。
主イエスと論じ合う人々が聖書を研究しながらこぞって求めた永遠の命とは、私たちが自分の恣にできる財産のように、持てるものではありません。神との出会いのことです。神の独り子を私の友としてお付き合いを始めることです。イエス・キリストというお方は、その方の教えや業を通して、私たちが神の言葉に従えるようになる永遠の命、充実した命に至るための手段ではありません。
救いとは、罪赦されることでもなく、神の言葉に従えるようになることでもなく、私たちが神様と、我と汝の関係に入ることです。井上洋治というカトリックの神父は、キリスト信仰とはシンプルに言えば、神様を私のアッバと呼べることだと言いました。アッバとは聖書の言葉ですが、パパということです。まだ幼い舌足らずの子どもが、親を呼ぶ言葉です。アバ、パパ、とと。私たちの兄、にいにとなってくださったキリストによって、神様が私のパパとなってくださった。とととなってくださった。これが聖書が私たちに語りかける救い、永遠の命です。
私たちを変化させ、神の子としてしまう神の呼びかけです。
今日の箇所に出てくる人間の姿は、聖書を熱心に研究しながら、この神の申し出を聴き損なった人間の姿です。詳しく丁寧に見て行くことはいたしません。今日は大きく、ざっくりと、福音の心を聴きたいのです。
簡単に申しますと、前半部でも後半部でも、議論が起きてしまっているのです。聖書と主イエスという方を巡る議論です。
このイエスという者は、聖書の言ってることに適ったお方か、それとも聖書によって、非難されなければならない存在か?激しい議論が生じるのです。
そして当時の最高の学者たちは、イエスという方の中に、神の業を見る者たちは、律法を知らない呪われた罪人だと、断罪いたします。そのようにして聖書読みの聖書知らずになってしまうのです。
しかし、それに逆らって、ニコデモという人が、そんな決めつけはしないで、もう一度、聖書に従って、イエス本人の話を聞いて判断しようじゃないかと、提案いたします。聖書の言葉によって、御言葉によってもう一度、改革されることを提案したのです。素晴らしい提案です。真摯な姿勢です。
けれども、このニコデモを含めて、ここに出てくる人間は、イエス・キリストを品定めしようとしている人間であることに違いはないのではないでしょうか?だからある人は、今日の聖書箇所を説教する説教に、「イエスを審く者」という説教題を付けました。
私たちは普段あまり意識していないかもしれません。
私たちは聖書に従わないことによってだけではなく、聖書に従おうとすることによってもまた、罪人である自分を発揮せずにはおれないのです。すなわち、聖書が創世記の原初的神話において語るように、この私自身が聖書を読むときの物差しとなる、善悪の審判者とならずにはおれないのです。聖書を自分の物差しにしようとしても、どうしても、自分の解釈、自分の判断が混じり込まざるを得ないのです。
だから、主イエスを証しするはずの聖書を読みながら、当時の聖書解釈の権威である、一番ましな人々が、主イエスを殺すという結論こそが、一番聖書に従った在り方だという結論に落ち込んでいくのです。
あまり考えたことがないかもしれない、ややこしい話を、なぜ、しているか?
もう、聖書を読む気力を削ぐためではありません。
キリストに出会うためです。
このような私たち人間の元にこそ、キリストは、来られたことに気付くためです。
仮に、もしも、永遠に私たちが自分たちだけで、この神の言葉を読んで、ああでもない、こうでもないと解釈し続けなければならないだけであったならば、それは悲惨なことであったでしょう。
けれども、私たちは孤独に聖書に向き合うのではありません。
聖書が証しする実体そのもの、神の独り子が、事実、この世に来てくださったのです。聖書が証しするとおり、私たちの友となるために来てくださったのです。このお方こそが、私たちを求め続け、探し続け、私たちの頑なな頭と心の門を叩き続け、その扉を打ち破ってくださったのです。
右の頬を打たれたら、左の頬を差し出し、そればかりか、ご自分の命を丸ごと、私たちのために差し出されたのです。だから、聖書を読むということにおいても、間違って良い。失敗して良いのです。
私たちの目の前に置かれた聖書の言葉をああでもない、こうでもないと、自分に引き付けながら読む読み方のことを、聖書黙想とも、ディボーションとも言いますが、これはまさに、赦しを頂きながら、はじめて行えることです。
しかし、大切なことは、どんなに最高の知性と、信仰を持って、ああでもない、こうでもないと聖書を思いめぐらしても、実際に、主イエスが私たちの元を訪れてくださらなければ、そこで主イエスが私たちと出会うために、聖書を読んでいる私たちの元を訪れてくださらなければ、聖書を読んだことにはならないのです。私たちは、御言葉の審判者の位置に留まってしまうのです。
けれども、聖書を開き、その言葉を聴こうと、忙しく、思い巡らすわたしたち、じっと耳を傾ける私たちの元に、主は必ず来てくださいます。その時、御言葉は打ち開かれて、光を放ち、今までは隠されていた現実が明らかになります。
わたしはあなたの友だ。あなたのために、この命を十字架に注ぎ出した、あなたの命だ。
どうすれば、私たちは人間らしく生きられるのか?自分らしく生きられるのか?生き生きと充実した人生を生きられるのか?
永遠の命と呼ばれるほどの、充実した命を求めて、聖書に耳を傾ける私たちの目が開かれ、既に、求める前から、探す前から、門を叩く前から、この私を求め、私を探し、私の門の内側に入り、しっかりと手を握りしめている方の存在に気付きます。
わたしはあなたの友だ。わたしはあなたの命だ。わたしはあなたと共に最後まで歩む神だ。
気付かなくても、気付かなくても、裏切っても、裏切っても、私に先回りして、じっと私たちを支えていてくださった、この主イエスの手、神の手に気付くとき、その手を握り返さずにはおれない。そこに、聖書が私たちの信仰と生活に規範だと言われた、その聖書に基づく生活が形作られていきます。この主イエスと手を繋ぎながら、神を呪うことは難しい。人を呪うことは難しい。悔い改めに生きないことはなおさら難しい。そこに、私たちの聖書的生活が作られるのです。
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