礼拝

6月13日(日)礼拝

週報

説  教  題  「とらわれず生きる」 
聖書個所  コリントの信徒への手紙Ⅱ11章7節から11節まで
讃  美  歌    379(54年版)

パウロという伝道者が、コリントという町にあった教会との間に生じてしまった葛藤を解消するために書き送った手紙の、一番激しい部分を読み進めています。パウロが神から遣わされた使徒であることに対して、疑いを持つ人々の疑いを解消しようという目的を持った手紙ですから、自己弁明のための手紙であると言っても何ら差し支えはない手紙です。

 私たち日本人には、黙って耐えるとか、不言実行の美学がありますから、自己弁明というのは、どうも潔いとは思えません。けれども、彼が自己弁明しなければならないと考えるのは、自分の立場を守りたいからではないでしょう。自分が疑われることによって、自分が伝えたイエス・キリストの福音、神の良き知らせが、一緒に捨てられてしまうことを避けたかったからです。

 現代の私のような教会定住の牧師であれば、教会から疑われ、もうこの人からは福音を聞かないと追い出されることは、死活問題に直結することです。牧師という存在は、教会の歴史において、そういう意味で、物理的な意味においても一教会に結ばれ、献身する者とされています。しかし、パウロは巡回伝道者です。コリント教会が生活の拠点ではありません。ほうぼうの町々を巡り歩いて、伝道に従事しています。だからパウロが、自己弁明の手紙をコリント教会に書き送るのは、彼自身の生活のためだと勘ぐって、パウロを批判することは、コリント教会にはできません。そういう胃袋を握られた関係にはないのです。

 パウロが一生懸命にコリント教会に対して自己弁明するのは、ただコリント教会に対する神さまの熱情の愛がパウロの内にも燃え上がっているからです。パウロを疑い、パウロの語る福音を拒否して、教会に入り込んだ偽使徒たちの語る言葉に取り込まれて行けば、神さまの無償の愛を見失うことになると考えるからです。

 ところが、誤解しようのない所で、誤解を深めるというのが、人間の常であります。11:1以下で、愚かな自慢話に少し付き合ってほしいと、パウロが語りだした具体的な事柄の最初のものは、今日の7節以下で語られるパウロとコリント教会の間での生活費を巡る話題です。パウロは、「あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせた」と語ります。9節にも、「あなたがたのもとで生活に不自由したとき、だれにも負担をかけませんでした」、また、「わたしは何事においてもあなたがたに負担をかけないようにしてきたし、これからもそうするつもりです。」と言います。そして、10節には、この誇りに関しては、アカイア州にある教会、すなわち、コリント教会が、妨げること、つまり、否定することはできないと言います。

 私たちの良く知っていることですが、パウロは自給伝道者でした。使徒言行録18:1,2を読みますと、パウロは、コリントでの伝道を始めるにあたって、そこで出会ったアキラとプリスキラという名のテント職人の家で住み込みをして、働きながら、伝道に従事したのです。現代においても、開拓伝道を志す人々は、同じように働きます。教会が自活し、伝道者の生活を支えられるようになるまでは、伝道者が手弁当で、伝道に従事するのです。

 ところが、今日の言葉を読んでも、また同じ話題をより詳しく語っている第Ⅰコリント9章を読んでも、パウロはコリント教会が大きな群れとなり、伝道者の生活を支えられるほどになっても、コリント教会から生活費を受け取らなかったと言います。しかし、正確に言えば、実は、パウロは、教会からの謝礼、生活費の援助を全く受け取らなかったのではありません。今日の個所を丁寧に読めば、コリント教会からの金銭的援助を断って、そこで伝道するためには、8節、「他の諸教会からかすめ取るようにしてまでも、あなたがたに奉仕するための生活費を手に入れました」と言います。また、9節後半を読むと、具体的には、マケドニアの諸教会が、パウロの生活費と、伝道活動費を支えるということがあったようです。「他の教会からかすめ取るようにしてまで」というのは、ずいぶん強い表現です。しかし、コリント以外の教会からは、実際にだましたり、無理やり奪うという形で、金銭を得たということではないでしょう。

 そこで思い出していただきたいのは、第8章の冒頭の言葉です。そこでは、マケドニア州の諸教会が、極度な貧しさの中にあるにもかかわらず、エルサレム教会への援助金を惜しみなく献げたとパウロは驚きながら書いていました。

 コリントの町というのは、当時、貿易の中継地点として、繫栄した商業都市でした。当時、「コリント風に生活する」という表現は、贅沢と放蕩に生きるということを意味する言葉であったと言われています。もちろん、コリント教会に集まってきた人たちも、決してコリントの町の最富裕層ばかりであったというわけではありませんでした。けれども、第Ⅰコリントの11:17以下の主の晩餐についての指示の言葉を読むと、日中働かないで、教会堂に集まり、飲み食いして酔っぱらう余裕のある者達も、かなりの程度いたようです。商業都市のコリントらしく決して貧しい群れではなかったのです。そのコリント教会の伝道のためのパウロの生活費と活動費を、極度の貧しさの中にあったというマケドニアの諸教会が、賄ったのです。十分なものではありませんでした。だから、パウロも住み込みで、テントを造る仕事をしました。

 「かすめ取るようにして」というパウロの言葉には、繁栄したコリントの町の伝道のために、極度の貧しさの中にあるマケドニアの諸教会が、パウロを支えてくれたという深い驚きと感謝が表されているのではないかと思います。そしてそのような他教会の驚くべき熱心によって、信仰が与えられ、存在している自分たちであることを、コリント教会に知ってほしいと願っているのだと思います。

 なぜ、パウロはコリント教会に対して、そのような姿勢を取ったのか?自分は自分の誇りのために、どんな教会から生活費は一切もらわないのだというパウロのこだわりのゆえではありません。第Ⅰコリント9:15以下には、神さまによって、その働き人たちに認められているとパウロの信じるこの当然の権利をコリント教会で行使するくらいなら、「死んだ方がまし」とさえ言い、誰にも自分のこの誇りを無意味なものにしてはならないとさえ言います。

 しかし、もう一度申しますが、これはコリント教会に対してということなのです。コリント教会に対しては、その教会が他の教会と比べて、大きな群れとなり、経済的に余裕のある教会になったとしても、コリント教会からだけは、自分の生活と、活動のための資金を絶対にもらわない。そうするならば、死んだほうがましだと言うのです。

 なぜならば、第Ⅰコリントの9:12後半ですが、「キリストの福音を少しでも妨げてはならない」と思っているからです。

 パウロは、なぜか、コリント教会に関しては、コリント教会から援助を受けることは、キリストの福音の妨げになる可能性があると考えているのです。どんな特別な事情があったのかよくわかりません。それを一言で言い表すような言葉は、前後の近くには、どこにも書いていません。けれども、私たちが実際に読むことのできるコリント宛にパウロが書いた複数の手紙を読めば、何となくわかるような気もします。

 ある説教者は、コリント教会の独自の事情ということがあったという説明は一切いたしませんが、パウロが、コリント教会に対して、無償で福音を宣べ伝えたのは、福音の性質から言って何よりも重要なことであったと言います。次のように言うのです。「福音は、もともと価なしで与えられたものであります。われわれが救われるのは、われわれが何かをしたからではありません。われわれに、それだけの値打ちがあるからではありません。われわれは、救われる資格のないものであります。それだけではなく、罪を犯しているものであります。自分で自分を救うことのできないものであります。そのわれわれが救われるのであります。それならば、それは、価なしに救われることであります。…伝道する者は、いつでも、このことに、もっとも多くの力をそそぎます。どうすれば、価なしにということを生かすことができるか、ということであります。そのために、心を用いなければ、正しく福音を伝えることができないからであります。」

 救われる資格のない罪人が価なしに救われるということは一体どういうことか、私たち伝道者はそのことを何としても伝えたいのです。そのためにパウロは、パウロと同じ心に生きる極度に貧しいマケドニアの諸教会に支えられながら、無償で、コリント教会に仕えるのです。単に、人のニーズを敏感に察して人の気に入る伝道者にならないように一教会からは生活費はもらわないという自戒ではないようです。もっと福音の本質に根差したことであったのです。使徒としての自分の権利を制限し、自分を低くして、人間を無償で、神の子とする福音を、コリントで宣べ伝えるためには、こうしようと決めたことであったのです。そうでなければ、コリントでは、伝道できないと思ったのです。そこでパウロは、コリント教会からは、謝礼を受け取らないことを自由に選んだのです。

 しかし、その自分の神の無償の恵みを体を張って伝えるパウロの伝道によって、生み出されたはずのコリント教会の中には、無償の恵みを忘れそうになっている者がいました。あるいは、その福音の味を十分に味わい尽くす前に、別の福音によって、道を逸れそうになっている者たちがいました。異言、預言、奇跡、奉仕、信仰の成長を競い合う党派争いが生じたのです。一段高い信仰、一段高いキリスト者、そういう信仰的エリートを目指したのです。だから、コリント教会に向き合う時は、今の今に至るまで、パウロは、無償のままでいようとするのだと考えられます。どんな負担もかけないように細心の注意を払おうとしてきたのです。

 残念ながら、このパウロの細心の配慮は、上手に伝わらなかったことは、今日の個所を読めば明らかです。「あなたがたを高めるために、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。」と言わなければなりませんでした。このことに関しても疑心暗鬼が起きたのです。

 多くの注解者は、謝礼を受け取らないパウロは、ペトロや、主の兄弟ヤコブ、あるいは、大使徒と自称する人たちと比べて、パウロ自身が自分がアマチュアの伝道者であると自覚している証拠だと理解したのだろうと推測します。そのアマチュア伝道者が語る福音も、初歩的なものでしかないという風に。

 11節を読むと、「わたしがあなたがたを愛していないからだろうか」とあります。パウロが、コリント教会から謝礼を受け取らないのは、私たちと真剣に向き合うつもりがないからだ、腰を落ち着けてわたしたちと共に生きるつもりはないからだと誤解する者がいたのかもしれません。本当に人の心というのは、難しいものですね。

 人の疑いの心というのは、悲しいことですが、こういうものだろうと思います。もはや、パウロが何を語ろうが何をしようが、それは真っ直ぐに受け取られない。たとえ、黙って耐えるという道を選んでも、その沈黙の暗闇の中に悪鬼を見つけるというのが、疑心暗鬼に陥った私たち人間の罪の心だと思います。

 パウロのような伝道者だけではありません。私たちの誰もがこのような誤解の中に置かれ、苦しい思いになるということは、今も現在進行形であることではないでしょうか?

 コロナ禍になり、ますます人と顔を合わせることができない中で、為されるコミュニケーションは、そういう誤解の連続から、疑心暗鬼に繋がる負のスパイラルが置きやすい状況かもしれません。

 けれども、実際に顔と顔とを合わせる関係、一つ屋根の下に暮らす、夫婦関係、親子関係においてさえ、この誤解と疑心暗鬼から少しも自由ではないのです。そして、実際、誤解ばかりとは言えない正しさの中にいつでも混入してくる非難の思い、拒否の思いというのが、私たちの心の内には少しも巣食っていないとは、胸を張って言い切れるものではないのです。そう考えると、人と人との間に生じる疑心暗鬼の負のスパイラルというものは、なかなか避けがたい人間の業のようなものであるように思います。

 そこでなお、自分が潰れずに、また人を潰さずに生きて行くためには、どうすればいいのか?パウロが、11節において「なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。」と語る姿を思い浮かべながら、ある説教者は、こんな趣旨のことを言います。

 ここには、人がどんなに誤解しても、神さまが私の誠実な心を知ってくださればそれで良いという思いが語られるだろうと。私たちは人に気に入られるために生きているものではありません。神の御前で生きる者です。だから、キリスト者という者は、どんなに誤解され、非難されることがあったとしても、すべてをご存じである神様のまなざしを信じて、多くの人が誤解に基づき自分の敵に回ってしまったとしても、妥協することなく、自分の信じる真実を貫いて生きる力が与えられる。

 しかし、その一方で、その同じ説教者が、続けてこうも言います。誰が認めなくても、神さまは、私の正しさをご存じであると確信する所でこそ人間の独善は、手に負えないものにもなりかねない、と。パウロはそういう自分の正しさの確信に凝り固まっていたのか?そうではないだろう。「わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存じです。」とは、むしろ、パウロが自問自答している言葉ではないか?自分自身の愛を、探している者の言葉ではないだろうかと言います。

 その「神がご存じです。」という言葉に並行する10節の「私の内にあるキリストの真実にかけて言います。」という、強い表現の言葉も、神の名、キリストの名を持ち出してまで、自分の正しさを、打ち出そうという言葉ではないのです。

 よく注意する必要があります。パウロの真実ではありません。自分の心の内にありながら、自分自身のものとは区別される、キリストの真実を探しているのです。それは、第Ⅱテモテ2:13において、「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。」(Ⅱテモテ2:13)と言われたあのキリストの真実、あのキリストの誠実のことです。

 この私たちに真実と誠実を貫いてくださるイエス・キリストに、赦され、覆って頂かなければ、決して真実とはなりえない私たちなのです。そこに自分の罪を認める自由と、自分の正しさから解き放たれる聖書の証言する根源的な自由があります。そこでこそ、真実の愛に生きる自由も生まれるのです。

 パウロは語っても語っても誤解され、通じない悲しみ、苦しみを、味わいつつも、決して口を噤むことはありませんでした。パウロの内に燃える、キリストと言い換えられた神の熱情が、彼を急き立てるからです。「愛がない」と批判され、自分の心をのぞき込めば、確かに、コリント教会に対するもどかしい思いがある。いらだつ思いがある。けれども、何で誤解され続けてまで、自分に示された福音を語り続けるかと言えば、神がその福音によって、コリント教会をどうしても生かしたいというキリストの真実があるからです。その神のコリント教会への神の愛が、自分にも燃え移ってしまっているからです。わたしを生かしているこのキリストの真実に、この素晴らしい知らせに、どうしても生きてほしい。神の望みと一つとなったパウロの望みです。人間的には絶望する他ない状況ですが、キリストの真実が言葉を与えてくれます。

 しかし、これは、パウロだけを生かしている福音ではありません。皆さんの中には、私と同じように、12節のパウロの言葉の中に、ヨハネによる福音書の最終部分が語る、ご復活の主イエスと、ペトロの問答を思い起こされた方もいらっしゃると思います。

 ご復活の主は、ガリラヤ湖のほとりで、弟子たちに姿を現してくださいました。そこで、焚火を囲みながら、ペトロにお尋ねになりました。

 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。

 三度同じように尋ねられましたが、ペトロは、一つの答え方しかできませんでした。

 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

 ペトロはご復活の主より三度尋ねられた時、「悲しくなった」と言います。わかっていることをしつこく聞いてほしくないと、主の疑心暗鬼を悲しんだということではないでしょう。主が探してくださらなければ、主が見つけてくださらなければ、主がそう呼んでくださらなければ、わたしたちが胸を張って差し出すことのできる愛などないということを悲しんだのでしょう。しかし、この悲しみが寄り添う時、私たちの愛は、本物になるのではないかと思います。この悲しみが寄り添ってくれる時、私たちの正しさ、私たちの真実は、人を生かす真実になるのではないかと思います。

 カトリックの司祭であったヘンリー・ナーウェンという人は、私たちキリスト者のことを「傷付いた癒し人」だと印象深く言いました。私たち自身が傷付いた者でなければ、傷付いている者を愛することはできないと言いました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」という自信満々なペトロではなく、主の御前に悲しみながら、「あなたがご存じです」としか言えないペトロが、羊のような人間を託された、愛の配慮に生きることができる新しい人とされたペトロなのです。

 福音はただ一つです。ペトロとパウロにそれぞれの福音があるわけではありません。カトリックとプロテスタントもありません。福音はただ一つです。自分へのあらゆるこだわりを悔い改め、イエス・キリストこのお方に集中するのです。そして、それが、本当に自分を生かすことに繋がるのです。キリストにある神の赦し、神の愛という私たちのものではない真実、誠実によって、私たちが生かされ、神を愛し、教会を愛し、兄弟を愛し、隣人を愛させて頂くのです。

 ただただキリストです。キリスト以外にはありません。寝ても覚めてもキリストです。私たちの信仰は、そこに立ち戻ることでしかないのです。

 

祈り

 主イエス・キリストの父なる神様、コリント教会の信徒たちが、パウロから促されたように、今を生きる私たちも自分を誇ることの愚かさを悟り、あなたの御前に、自分の貧しさと悲しみを嘆くことができますように。しかし、それ以上に、十字架とご復活の御子を見上げ、この御子の内にある者として、あなたと隣人を愛することを追い求めることができますように。その手と脇腹に、私たちとこの世界のための十字架の傷痕を持った傷付いた癒し人、イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

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