礼拝

7月10日(日)主日礼拝

週報

説  教  題  今やその時 大澤正芳牧師

聖書個所  ヨハネによる福音書第5章19節~30節

讃  美  歌    262(54年版)

今日、お読みしたイエス・キリストの御言葉、一言で言って、とても謎めいた言葉に聞こえたのではないでしょうか?

 

色々なことが言われているという印象を受けます。耳で聴いても目で読んでも、論旨を追うだけで骨が折れます。

 

一つ一つの文がとても凝縮しているものに見えます。

 

また、死とか、死者とか、永遠とか、命とか、復活とか、裁きとか、人生の中でも、特別な時にしか口にしないし、耳にしないような究極的な言葉が使われています。

 

さらに、その究極的な言葉の組み合わせを通して、その言葉の表面上の意味さえ超えて、私たちの常識を突き抜けて行くようなことを語ろうとしているように思えます。

 

それだから、全体から醸し出される雰囲気は謎めいていて、この言葉を聴く者に神秘的と感じさせるものではないでしょうか?

 

もっとあからさまな言い方をするならば、今日の個所は、宗教的な言葉遣いが連発されていると感じさせる箇所です。

 

科学の言葉ではなく、倫理道徳の言葉でもなく、非常に宗教的な言葉遣いがなされています。

 

こういう言葉遣いは、現代の私たちの日常生活では、あまりにも馴染みのないものかもしれません。

 

しかし、こういう違和感のある言葉遣いを避けて、何でもわかりよく、聖書の言葉を、心理学や道徳の言葉に置き換えるならば、多分、聖書の心には触れずじまいになると思います。

 

こういう究極的な言葉遣いというか、神秘的、宗教的言葉遣いは、このまま、受け止める以外はないと思います。

 

少し、ややこしいことを言いましたが、ごく単純に言えば、聖書の言葉、主イエスの御言葉が、どうしてこんな言葉遣いであるかと言うと、常識を突き破ろうとしている言葉だからです。

 

世界とはこういうものだ、人生とはこういうものだと、私たちが常識的に持っている世界観を、揺さぶって来る言葉だからです。

 

君たちは「世界とはこういうもの、人生とはこういうもの」と、それぞれの考えがあるかもしれない。

 

けれども、はっきり言っておく。世界の本当の有様は、君たちが感じ、考え、常識としていることとは、実は違うんだ。

 

しかも、聖書の言葉、主イエスの御言葉は、常識を突破しようというものだと言いましたが、実は、その常識の内に宗教をも含まれています。

 

それは、今日の箇所ではっきりしています。

 

ここで主イエスが顔と顔とを合わせて、そのお言葉を語りかけておられる最初の対話相手は、宗教者です。無神論者でも、異教徒でもなく、主なる神様を信じる信仰者です。

 

神がお定めになったと信じる安息日を巡って、その宗教的世界観の秩序を突き破る対話をしておられるのです。

 

だから、今日、ここで、この主イエスの御言葉から距離を取って、第三者的な位置から、聴くことが許されている者は、誰もおりません。

 

まだ洗礼を受けていない人、神を信じていない人の「世界はこういうものだ、人生はだいたいこういうものだ」という世界観が、主イエスより挑戦されるだけではありません。

 

主なる神を信じる神の民の宗教的世界観、信仰的世界観もまた、挑戦を受けているのです。

 

はっきり言っておくと、繰り返されます。私はあなたがたにはっきり聴いて欲しい。今、あなたに、あなた目がけて、私が語りかけている言葉として、きちんと聴いて欲しい。

 

今日の個所において、主イエスは凝縮した密度の濃い言葉を語っている。どうしても聞いてほしいことを、色々、語っていると申しました。

 

けれども、ごく大雑把に言えば、二つにまとめることができると思います。

 

一つ目は、父なる神様と、主イエスは、一致しているということです。

 

主イエスの語ること、成すことは、そのまま天地の造り主なる父なる神様のなさることだということです。

 

最初の19節と終わりの30節に、主イエスは自分では何一つできず、全部父なる神様の語ること、なさることに従うだけだという言葉があります。

 

これは、今日の週報の裏に書きましたように、主イエスが、父なる神より一段劣る存在だという解釈を生み出した言葉でもあります。

 

しかし、今日の箇所の全体を読めば、ここで言いたいことは、主イエスと天の父の完全な一致です。

 

天の父と御子キリストは、一つ思いにあるということです。

 

それゆえ、22節には、「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。」とあります。

 

裁きという神様しかできないことを、主イエスが主導権をもって行うのだと仰います。

 

つまり、天の父と御子の関係は、阿吽の呼吸、一体の関係であることが、強調されているのです。

 

これがここでの主イエスの御言葉の大きな一つ目の主題です。

 

二つ目は何か?既に、一つ目の主題を語りながら、触れてしまっています。

 

二つ目の主題は、私たち人間に対する裁き、神の審判とその報いは御子イエス・キリストが、今、ここで為さるということです。

 

神の裁き、すなわち、神の永遠の審判です。

 

神の最後の審判です。ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井に、ミケランジェロが描いた最後の審判の絵を一度はテレビや図版で見たことがあるでしょう。

 

やがて来る終末の日、世の終わりの日に、生きている者も、死んだ者も、主なる神様の前に引き出され、その行いに従って、天国に行くか、地獄に行くか、審判されるという裁きのことです。

 

その裁きの執行者が、主イエスであり、しかも、際立ったことは、今、ここで、その決定がなされるということです。

 

最後の審判の結果は、世の終わりまで、未定で取って置かれるのではなく、今、この時、裁きの一切を任された神の子である自分を信じるかどうかにかかっているのだという言い方がなされます。

 

24節と25節です。

 

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へ移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」

 

正直に言って、こんな言葉は、宗教勧誘のひどい脅し文句に聞こえるようなものです。

 

私を信じれば、永遠の命、信じなければ、神の裁きが待っている。

 

そういう言葉に、普通、聞こえます。

 

当時の人々にも、そういう言葉として響きました。

 

もちろん、それならば、信じようとはなりませんでした。何と血迷ったことを語っているのか?となりました。

 

しかも、皆が、宗教的な世界観を持っていて、神を信じて生きているのです。だから、これを聴いた信心深い者たちは、誇大妄想に憑りつかれた残念人のたわごととして受け流すことはできませんでした。

 

自分を神の地位に引き上げる、許されざる冒涜の言葉だと、ますますイエス様を殺そうと勢いづいたのです。

 

しかし、よーく耳を澄まして聴いて頂きたいのですが、この言葉は、この言葉に怒ったり、笑ったりする人々が受け止めたよりも、もっとずっと奇妙な言葉であったと、私は思います。

 

なぜなら、よーく耳を澄ませて聞いてみると、この主イエスの言葉は、「さあ、私の言葉を信じるかどうか?信じれば天国、信じなければ地獄」などという、聞くものに決断を迫っているような言葉ではないのです。

 

今日の箇所のキリストの言葉は、その語り口からして、勧誘の言葉、説得の言葉ではなくて、よーく耳を澄ませて聞いてみると、まるで、事実をたんたんと述べている言葉、聞く者に、世界の理を語る言葉のように見えます。

 

つまり、聞く者の心を動かそうという言葉ではないというか、納得させようという意図が感じられないというか、、、。

 

だからと言って、ぜんぜん独り言ではありません。何度も何度も「はっきり言っておく」と語りながら、目の前にいる一人一人に語りかける語り方をしておられます。

 

不思議なことです。

 

私は、ヨハネによる福音書を読み進めながら、この主イエスの言葉、その語りの不思議さが、ここだけのものではなく、主イエスの言葉の特徴でさえあるように思い始めています。

 

主イエスの言葉というのは、常識の外の言葉、常識を揺らす言葉です。また白昼夢を見る人の独り言ではなく、はっきり目覚めて、他者に向かって語りかけている言葉です。それでありながら、勧誘の言葉ではないし、説得しようとする言葉でもありません。不思議なことです。

 

じゃあ、一体何なのか?

 

もう一度、よーく耳を澄ませて、25節をお聴きください。

 

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。」

 

それこそ、私も説得的な言葉を捨てて申します。

 

主イエスの語りかけの言葉は、死んだ者を甦らせる、死んだ者を命に呼び戻すための力の言葉です。

 

私たちがそれをどう評価するにせよ、ここで語られている方は、そういう語り方をしています。

 

この耳にも語られ、この心にも聴こえてくるままに、もう一度、奇妙な主イエスの語り方のままに申します。

 

「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」

 

起きなさい。立ち上がりなさい。床を担いで歩きなさい。

 

死んだ者に、死んでいる私に、倒れて起き上がれない私に、、、「起きなさい。私の声を今、この時、聴いているあなたは死から命へ移っている。」

 

宣言です。

 

これは、説得の言葉ではなく、勧誘の言葉ではなく、力の言葉です。

 

天地の造り主なる神から一切を委ねられた方の力の言葉、神の全権の声です。

 

聴こうか、聴くまいか、起きようか、起きまいか、信じようか、信じまいか?

 

全然そういうことではありません。神の言葉として宣言されているのです。

 

21節、「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」

 

キリストの声が聴こえてくる。キリストが、あなたに語りたいと、語りかけて来られる。

 

そのキリストの言葉が、生きた声として、私の心の中に飛び込んでくる。

 

すると、気が付けば、死から命へと移っている私がそこにあるのです。

 

出来事の言葉、出来事を引き起こす言葉です。

 

たいへん、神秘的に聴こえるでしょうが、何も特別な神秘体験を与えられるのだということではありません。

 

聖書の言葉を読む。説教の言葉を聴く。その言葉がわかった。心に響いた。私もキリストを愛し始めている。その方の言葉を喜び始めている。

 

そう言える時、私たちは、キリストの生ける声を聴いたのです。そして、死から命に移った、今その時を生き始めているのです。

 

それ以来、神の全権を持つお方が、私に対して、命の働きを決定的に開始され、もはや、私たちは、後戻りすることはないのです。

 

今日、このキリストの言葉を説く説教を聴きながら、その言葉と、心の中で、何らかの対話が始まっていると思います。

 

その時、この私たちにも、キリストの出来事の言葉が引き起こす命の運動が私の中で始まっているのです。

 

今日、私たちがここに集められ、キリストの言葉を聴いたこと、それは、キリストが私たちの元に歩み寄り、力の言葉を語りかけたこの時が、主イエスが語っておられる今その時なのです。

 

今日、今この時、私たちは、キリストの言葉の翼の背に乗せられ、死から命へと運び移され、もう、後戻りはないのです。

 

今日、キリストの声を聴いた者たちは、死から命へ移され、裁かれることなく、永遠の命へと歩み出しています。

 

どんなに、今置かれている自分の状況が暗く、厳しくてもです。

 

私はこの慰めの言葉を、見えるところによらず、ただ信仰においてと、言い換えることは控えたいと思います。

 

なぜならば、今この時におけるその声を聴かされた者の永遠の命への移動を語る主イエスが、同時に、28節以下において、終末の復活のことも語っておられるからです。

 

終末の復活を語るということは、キリストは、死を見つめておられるということです。

 

私たちが御子イエス・キリストによって、その中へ移された永遠の命は、死と墓を私たちの人生から取り除いたものではないのです。

 

むしろ、死と墓をもその命の内に、飲み込んでいるものだというべきでしょう。

 

そうであるならば、死から命に移されたはずなのに、なぜ、自分にはこの苦しみ、この悲しみが、今この時も取り除かれることなく、抱え続けたままなのだと、嘆く必要はないのです。

 

私たち人間の意に反することであるかもしれませんが、死と墓が、代表する人生の苦しみや陰は、取り除かれるという形で、決着が着けられるのではなく、命の内に丸ごと飲み込まれるという形で、克服されることが示唆されているのです。

 

それは、残念というよりも、ほっとすることではないかと、私は思います。人生に落ちる陰を、どうしても無くそうと躍起になる必要は、もう無くなるからです。

 

どんなにどんなに暗くとも、命に向かって歩んでいると、信じることが許されているのです。

 

神の導きが見えなくなっても、弱さや病や、欠けを通りながらも、行き着く先は、命であります。

 

神の御前から、回れ右しても、やっぱり、神の元へと歩んで行くのです。

 

しかも、神の与えてくださった命が飲み込もうとするのは、私たちの魂だけではありません。

 

この老いる体、病む心と体の全体です。

 

それゆえ、御子キリストは、終わりの時についても、ここで語られたのです。

 

病と死を嘆くあなたよ、わたしはあなたのことを知っている。あなたは、永遠に病と死を負い続けなければならないのではない。

 

わたしは、あなたの魂同様、心と体も、必ず命の中に、迎え入れる。

 

キリスト信仰における終末の日とは、このような希望の日です。

 

システィーナ礼拝堂のイメージは書き換えられる必要があります。

 

ある神学者は次のようなことを言います。

 

元来の聖書の方向においては、裁き主は、片方の人間に報い、もう片方の人間を罰するお方ではない。壊れ、破壊されたものを回復される方なのだと。

 

終わりの日とは、全権を持った神の子キリストが、昔も今も続けておられる壊れてしまったものの回復の業を、完成される日のことです。

 

それゆえ、教会は古より、祈り続けてきました。

 

マラナタ、主よ、来りませ。

 

再び来られるお方はもう見知らぬ方ではありません。

 

心と体の病気、不慮の事故、暗殺、テロ、格差、不平等、戦争、災害、個人のレベルでも、社会のレベルでも、世界レベルでも、地球レベルでも、途中で、どんなに暗い道を通ったとしても、私たちの手を取り、必ず命に向かって歩ませてくださるお方です。

 

しかも、私たちがどう思ってもではなく、そのキリストの言葉の翼に乗せて、私たちを運び、その終わりの日まで、不屈の信頼と希望に生きる者としてくださいます。我々は、諦めないのです。自分と世界の救いを諦めないのです。

 

キリストの力の言葉は、私たちの死者のように動かぬ心を突き破って、私たちを立ち上がらせ、私たちに新しい信仰と希望と愛をお与えになります。

 

起きなさい。立ち上がりなさい。あなたは、死から命へ移っている。

 

この声が響き渡り、私たちは、起き上がり、立ち上がっている自分であること、この方の言葉に心と存在を捉えられている、信じ始めている自分を何度でも何度でも、礼拝の度に見つけるのです。

 

20節、これこそキリストが、私たちが、驚くことになる、神の大いなる業だと仰ったことなのです。

 

 

 

 

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