週報
説 教 題 「献げものの心」
聖書個所 コリントの信徒への手紙Ⅱ9章6節から12節まで
讃 美 歌 392(54年版)
ある先輩牧師が、教会は傘のようだと言いました。傘の骨一本一本が、私たちであると言うのです。私たちが、平日、それぞれの家庭や職場や、学校にある時、それは傘が開かれた状態。そして日曜日、会堂に集まってきた姿が、閉じられた傘の姿だと言うのです。傘は開かれなければ意味がありません。神さまも、私たちを召し、教会とされたのは、派遣するためです。方舟の中に、ノアの家族や、動物たちを集めたのとは訳が違います。
出て行ってそこで何をするのか?先週もお話ししました。祝福を告げるのです。言葉だけではありません。私たちの具体的な隣人の命を支える贈り物を通しても、それを神の祝福として贈るのです。「あなたがいて良かった。あなたが生きていることが嬉しい。」という祝福を送るのです。しかも、単なる、神の創造に基づいた命の肯定ではありません。この祝福は、十字架を通ったものです。子供の無邪気な夢の世界の話ではなく、人間のどす黒い罪を直視した上での、重い言葉です。
昔、イギリスにジョセフィン・バトラーという方がいました。女性の地位の向上、社会改良に貢献した人物です。そのバトラーさんが、ある女性刑務所を訪れた時、看守の手にも負えない一人の重い病を負った女囚と出会いました。教誨師である牧師も、おそらく、その人の命の短いことを知って、色々声をかけてコミュニケーションを取ろうとしているのですが、罵られてどうにもならない。この光景を見て、バトラーさんは一瞬たじろいだのですが、意を決して近づくと、何も非難せず、乱れた枕を整えてあげた。それからほんのわずかの優しい言葉をかけました。それ以来、この人は、バトラーさんの言葉に耳を傾けるようになり、そして、数日後に、安らかに亡くなっていったと言います。バトラーさんは、この時のことを振り返り、こう語ったと言います。「わたくしは、あの粗野な、野蛮な心に何を言っていいのかわからなかった。ただわたくしはキリストのことを考えた。キリストはこの女のためにも血を流されたのだということを思った」。
「粗野で野蛮な心」という他ない人間の獣のような心に目をつぶるわけではないのです。そのことは、十分弁えているのです。けれども、それにもかかわらず、「キリストはこの人のためにも血を流された」のです。だから、その人をそのまま、キリストの命を込められた者として見ることができます。それ以外の仕方で、私たちキリスト者は、すべての隣人と接することはできないということです。
私たちが共に生きる者に掛ける一声、差し出す一皿の料理、開く財布、握る手、目線、そのすべてが、「この人のために、キリストが十字架におかかりになった。この人は神の宝だ。」という福音の事実のもとに語られ、差し出されるものになるように、私たちの為すこと、語ることの全てに祝福が籠るようにと、教会は召されているのです。
もちろん、私たちの語ること、することが、神の祝福そのものにならなければいけないというのではありません。たとえ、この命を隣人に捧げ尽くしても、私たちが全力で語る祝福は、十字架のキリストがお語りになる神の祝福の言葉に比べられるようなものではありません。それはどこまでいっても、主イエス・キリストの十字架によって主なる神様がお語りになる祝福、「どんなあなたであっても、あなたには、神の独り子の命の重さが込められたのだ」というヘビー級の祝福を、ささやかに指し示す小さな指に過ぎません。
それだから、教会が方舟の内に引き籠らないで、隣人を祝福するために、狭いところから出て行くとはどういうことかと考えていくとき、単に、礼拝堂から出て行く時間を増やせばいいということでもないかなと思います。なぜならば、私たちが隣人に掛ける普段の言葉と行動が、キリストの福音を指し示す小さな指であったとしても、福音そのものと取って代わることはできないからです。言葉ではなく、行動で、キリストの福音を告げるというのは無理があります。たとえ十字架にこの身を捧げたとしても、残念ながら、私たちの命が人の罪を贖うことはできないからです。
だから、礼拝のために、日曜日ごとに教会堂に集まってくることを、単に、傘が閉じられた状態と言い表すだけでは不十分と思います。むしろ、私たちは礼拝の時にこそ、開かれた傘なのだという自覚をきちんと持ちたいと思うのです。なぜならば、教会は確かに私たち召されたキリスト者たちの一週間の補給地でありながら、福音が真正面から語られる場所であり、だから同時に世のための祝福の最前線でもあるからです。
私たち自身のどんな行動よりも、主の日の礼拝ごとに説教壇から語られる主イエス・キリストの福音の言葉こそが、神さまが語られる祝福そのものであるからです。主の日毎に福音が語られるとき、神の祝福は、この世界に向かって、大きく開かれ、その福音の言葉の下に、私たちの隣人をすっぽりと覆ってしまう傘となります。
全く恐れ多いことではありますが、私たち教会が語るように託されているこの説教の言葉を通して、私はあなたがたにキリストを示す、私の祝福を告げるために用いると約束してくださっています。その言葉は、牧師個人にではなく、教会に約束されている言葉です。
すなわち、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(マタイ16:19)の約束は、ペトロ個人にではなく、教会に与えられていると私たちは信じているのです。
だから、私たちは礼拝のために神に集められ、また私たち自身も喜んで集まり、ここで福音の言葉を聞かされ、アーメンと語るときこそ、「神はその一人子を賜るほどに世を愛された」、「共に生きる隣人は、私たちと共に、イエス・キリストの命の重みをもった存在である」と、公に語ってくださる神の言葉を自分自身を生かす命の言葉として聞き、同時に、教会を挙げて、この祝福はあなたにも告げられる真実の意言葉であると世に告げる神の働き人とされるのです。
私たちが毎週集まり祝う礼拝こそが、全ての人が神の宝であることを宣言し、祝う祝賀パーティーとなるのです。その祝賀パーティーである礼拝に一堂に会して行えず、今日からまた、それぞれの家庭で、祝わなければなりません。残念なことです。
しかし、それぞれのご家庭で、まだ、教会堂というパーティー会場に集まることは気が引けるというご家族もいらっしゃることだと思います。こんな機会だからこそ、ご家族と共に、ささやかなパーティーを、しかし、何の水増しも、割引もない神さまの祝福の言葉を聞き、お互いの存在を喜び合う家庭礼拝という名のホームパーティーを開いてくださればと思います。
礼拝堂に集まるときも、集まれない時も、私たちキリスト者の使命、私たちキリスト者の興味関心は変わりません。私たちはどこにあっても、自分のため、隣人のために、神さまの祝福の言葉を聞き、生きていることを祝うのです。実際には、一緒の席に座ることができずとも、その隣人のための祝福の言葉を聞くのです。自分が祝福されてい者だと信じることのできない隣人のために、隣人に代わって、信じるのです。それが、私たち教会の使命です。
今日の聖書箇所からも、教会がいかに自分の救いの確信のためではなく、隣人の祝福の使命を果たすために存在している群れであるかがよくわかります。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。神は、あなたがたがいつもすべての点で、すべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。」
今日お読みした箇所、たまに、教会への献金の指針として読まれることがあります。エルサレム教会への援助金ですから、教会への献金ということは、必ずしも間違った聞き方と言い切ることはできません。
けれども、少なくとも、自分たちの教会を支える献金の姿勢を語っているような言葉ではありません。直接、自分たちの群れの維持のために出費されるお金を集める姿勢を語るものではありません。別の群れの経済的困窮を支えるための贈り物です。むしろ、私たちが常日頃捧げている献金、コリント教会を維持するための献金という視点からすれば、今日の個所からは、何も語られていません。むしろ、それは考えなくて良いと暗に言われていると読み取れるように思います。
8節の「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのもので十分で、あらゆる善い業にあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになる。」とは、コリント教会自身の必要は、神さまが満たしてくださると言っているようです。
この時、前提となっているのは、多分、自分たちの所属する群れを支えることは、献金と言えども、「自分たちが教会」という意識をもってなされるものだということだと思います。
教会とは、建物ではなく、集まっている私たち自身のことです。だから、自分がその一部分を形作る教会への献金は、パウロにとっては、三食のご飯を食べたり、自分の着る服を買ったり、自分の家を整えることと近いのだと思います。それならば、そのための必要については、ことさらに教える必要はないのだと思います。自分自身を養う行為ですから、それは言わなくても、自分たちで必要と力に応じて、当たり前のように、維持されるだろうからです。
もちろん、自分自身を養うことである所属教会の維持も、神への献身行為です。なぜならば、私たちは、私たちの24時間365日が、神さまのものですから、私たちの食事も休息も神さまのためになされることであれば、当然、所属教会の維持も献身の行為の一部です。けれども、自分もそこに属する一つの教会に対しての献金のあり方は、細かく語る必要はないのだと思います。自分と所属教会は、それほど一体の関係にあるからです。そして、私たち自身のことに関して言えば、「あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになる」神さまにお任せすることが許されています。
神さまは私たちが惜しまず、施しに生きられるように、隣人の祝福に生きられるように、わたしたちが「いつもすべての点ですべてのものに十分」になるように配慮してくださると語られます。
蒔けば蒔くほど、豊かな実りが与えられる。捧げれば捧げるほど、経済的にも祝福されるということの典拠とされる言葉が散りばめられているような個所です。ところが、面白いことに、パウロは、8:2に「極度の貧しさが溢れ出て、人に惜しまず施す豊かさになった」というマケドニアの諸教会の姿を、驚きながら、証ししたのでした。
パウロがとてもじゃないけれども、頼むことはできないと思っていた自分自身の存立の危ぶまれるような教会自身が、「聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに」願い出たという、マケドニアの諸教会の姿に、教会の教会らしさを発見したのです。
それで、惜しまずに蒔いたマケドニアの諸教会は豊かになったのでしょうか?豊かになったのです。けれども、それは、経済的に富む者となったということではないでしょう。その援助を通して、空腹が満たされただけでなく、キリストにおける神の愛を実感したエルサレム教会が、神への感謝に生きる姿を見て、自分たちが祝福のために用いられたことを、喜んだのです。神が用いてくださるならば、どんなに貧しい自分たちも神の御栄光を現すのに不足はないと知らされたのです。
パウロ自身が、心打たれながら、そのマケドニアの諸教会の姿を、コリント教会に語り聞かせ、自分たちもその祝福の業に加わろうとする彼らの志を勇気づけ、励ましたのです。
大きな欠け、極度の貧しさを私たち教会が抱えていても、イエス・キリストの父なる神様は、私たち教会を、自分の救いのためではなく、隣人の祝福のために、お用いになることができるのです。驚くべきことです。
それは、私たちキリスト教会の視点が、いつでも、どんなに教会の内部が困難な状況にあるとしても、自分たちの課題を見つめ続ける必要はない、外に向いて良いのだ、人間的には、欠けだらけで、充実した状態ではなくても、大胆に隣人を祝福するために生きて良いのだと励ましてくれることです。その時、私たちは、自分が救われるかどうかという個人主義の心配を越えて、隣人に目を向け、一緒に神さまを賛美し、ほめたたえることを求めるようになります。これこそが、本当に素晴らしいことです。自分の現世での幸せのため、自分の死後の幸せのため、そんなものを追求するために、生まれて来たのではありません。
11節後半から12節にかけて、「その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになる」とあります。
この小さな小さな私たちの存在が、隣人を生かす実を結び、大きな大きな神さまを証しするために用いて頂けるのです。その私たちの貧しい働きを通して、神さまのために立ち上がる者がますます盛んに起こされるというのです。人を祝福し、神様を賛美する声だけが、どんどん大きくなるのです。礼拝が世を包むのです。この時、各家庭で捧げる礼拝を、地の至る所に燎原の火のごとくに広がる礼拝の幻として見たいと願います。神はこの幻を世にあるキリスト者を用い、やがて、実現してくださいます。
もったいないことです。ありがたいことです。この神の御計画のために、自分が今、ここに召されているのだと思えば、今ここでも、主に栄光を帰す祈りを捧げる他ないのです。
祈り
主イエス・キリストの父なる神様、十字架につかれるほどに捨て身になって、私たちのことを祝福してくださる御子が共にいてくださるならば、私たちには何の不足もありません。今は、あなたをほめたたえられることだけが、私たちの喜びです。私たちの言葉も行いも、小さく貧しいものではありますが、力衰えるときも、病の床にあるときも、悩みの中にある時も、礼拝堂に集まれない困難の中にあるときも、ますますあなたの御支配は行き渡り、強まります。もはや生きているのは私たちではなく、私たちのために、死んで甦ってくださった御子が私たちの内に生きてくださるのです。それゆえ、喜んで、この身と私たちの手の業をお捧げいたします。どうぞ、隣人の祝福のために用いてください。今、どこにあっても、私たちと共にいてくださるインマヌエルなるイエス・キリストのお名前によって祈ります。
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