週報
説 教 題 「手紙としてのキリスト者」
聖書個所 コリントの信徒への手紙二3章1節から3節
讃 美 歌 392(54年版)
教会共同体というものは、外から見ている分には、清らかな人間たちの麗しい集いに見えないこともないかもしれませんが、グッと中に入ってみますと、そうも言っていられない部分が見えることがあります。もちろん、他の人間の集いと比べて、ことさらに偽善的であるとか、特別に、問題をはらみがちであるということではなくて、他のどこの人間集団でも起こるような問題が、教会共同体の中でも起こるということです。教会はある人がそう空想するように、天国の出張所ではなく、地上にある生きた人間の共同体であるということです。
しかも、だからと言って、所詮、人間のすることなんて、そんなものだと割り切って、教会という人間集団の中にあっても、お互いに傷つけ合わない適切な距離、建前でこなせる距離を保てばそれで良いという集団でもないと思います。以前、ご紹介したある牧師の言葉の通り、教会というのは数ある人間の共同体の中にあっても、神より与えられた使命として神と隣人を、深く愛することを志す群れだから、深い悲しみの場にもなるのだと思いますし、そのことは覚悟して、お互いに人格的な出会いを願って良い場所だと思います。
今日はこの場所で、午後に結婚式が執り行われようとしています。若いお二人に約束していただく誓約の言葉の中には、これは皆さんもよくご存知の有名な言葉でありますが「健やかな時も病める時も」と語られます。本当の愛の関係に生きようとするならば健やかな時だけではありません。病める時も、その傍らになければなりません。悲しみや痛みを一緒に担っていく覚悟がなければなりません。だから深く愛そうとするときには、当然、深く悲しむことも覚悟しなければなりません。同じように、愛に生きようと志し始めた教会共同体の中では、その分葛藤や悲しみが増すということは当然あり得ることです。自分の事情や、感情を赤裸々に暴露することが、教会の目指すところではありませんが、神と隣人を本気で愛そうという志を神が与えてくださったのです。
しかも、もう一度申しますが、聖人君子の集まりではないのです。神の愛を知ったゆえに、隣人を愛する愛に生きようと願う私たちは、人であって神ではないのです。キリストに示された神の愛に捕らえられ、突き動かされた者でありながら、貧しさと弱さを持ち続けた限界の中にある人間です。約束によって生きているまだ終末前の人間です。だから起こってくる悲しみをどう受け止めるかだけではなく、自分自身が悲しみの原因になってしまうことを認めなければなりません。つまり、誤解と失敗が付き纏う者たちとして、生きて行かなければなりません。
私たちを目指し、現に注がれている十字架のキリストの愛の重さと深さを見れば、歯がゆく不甲斐なく、がっかりしてしまうようなことですが、しかし、神は、そこから始めることをお求めになっているし、お許しになっていると思います。それだから、がっかりし過ぎる必要はありません。たとえ、心に責められることがあろうとも、神は私たちの心よりも大きく、その神がご承知の上で私たちを呼び出し、「愛に生きよ」と命じていてくださるからです。
読み勧めていますコリント信徒への手紙の背後にあって、パウロとコリント教会の間で起きていることも、これ以外のことではないと思います。そうであれば、この聖書個所で語られていること、透けて見えてくることは、今を生きる私達にとっての実例であり、神がパウロを通して、与えてくださる我々への励ましであります。
第1節に、「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか」と、語られます。何度もお話していることですが、この手紙が宛てられたコリント教会の中には、パウロが、神より遣わされた本物の使徒であることを疑う思いがあったのです。使徒というのは基本的には、主イエスの弟子の中の12人を指して呼ぶようになった呼び名であるし、パウロは、十字架にお架かりになる前の主イエスと直接面識のあった人ではなかったのです。主イエスの12弟子であるどころか、活動を始めたばかりであったキリスト教会に属する人間を捕らえては、牢獄に引き渡すということを行っていた人でした。けれども、その活動に熱中していた旅の途上で、天よりの光に打たれ、その幻の内に、ご復活のキリストと出会い、福音を宣教する者へと変えられたのです。パウロ自身のガラテヤの信徒への手紙の記述によれば、それから三年間、12使徒を中心とした教会の伝道活動とは別に、独自の異邦人伝道を行っていたのです。だから彼は、その手紙の冒頭に、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」と、自己紹介をしています。
人間に認められた資格ではなく、神の直接の召し出しによるということは、パウロに誇りと、重く深い責任意識を与えたでしょうが、それがパウロへの疑いとなって付き纏ったことも事実であるようです。コリント教会は、パウロの伝道によって生まれた教会ですが、当時の教会は、常駐の牧師みたいな存在はいませんで、複数の教会をぐるぐると巡回しながら、教会に仕える巡回伝道者が一般的であったようです。その中には素性の知れないような、眉唾物の巡回教師もいたようですから、基本的には、推薦状を携えて、教会に顔を繋ぎ、そこで指導をしながら、しばらく滞在したようです。
パウロがコリントという町で伝道を始めたころは、誰もクリスチャンはいませんから、教会からの推薦状なんて問題にならないわけですが、その地に教会が生まれ、パウロが去ると、コリント教会にも、色々な所から推薦状をもって巡回伝道者たちがやってきました。それでその内に、その中から馴染みになってくる、コリント教会お気に入りの巡回伝道者が現れる。パウロよりも話が分かりやすいし、説得力があるし、自分たちの教会に何が欠けていて何を求めなければならないか、教えてくれる。その人自身を見ても、パウロより生き生きとしていて、自信に満ちあふれ、これぞクリスチャン、これぞ神の人っていう感じがする。その上、有名教会、あるいは有名なクリスチャン、場合によっては、エルサレム教会や、12使徒からの推薦状を携えているのです。そこで、パウロに批判的になっていく。パウロに、「そういえば、あなたは正式な使徒ですか?」今で言えば、「どこの教団から派遣されたのですか?どこの神学校卒業ですか?先生はどなたに師事されたのですか?」などと、問うたのです。
パウロはこれに対して答えなかった。自分の使徒であることは、教会の迫害者であった自分を、ダマスコ途上で、捉えてくださったキリストの直接の召し出しによるという経験を大切にしていたからです。けれども、全然答えられなかったというわけではないと思います。パウロはペトロと面識があります。総本山とも言えるエルサレム教会とも対等な関係にあります。だから、お墨付きの太鼓判をもらおうと思えば、いくらでももらえたに違いありません。その上、パウロは、12使徒と比較にならない、ユダヤ教の神学教育を受けているのです。コリント教会が納得する推薦状を用意しようと思えば、何枚でも用意できたに違いないのです。けれども、パウロはそういうことをしませんでした。したって良いけれど、それは、愚かなことだ、恥ずかしいことだと別の個所で言っています。推薦状なんていらない、キリストの直接の召し出しが証拠のない主観に過ぎないと批判されるならば、それでは実力勝負、自分の働きを見てほしいということでしょうか?
たとえば、1節後半から2節にかけての「ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」という言葉の背後には、推薦状ではなく、あなたたちという実りで判断してほしいという思いが込められていると理解することもできます。これは、一つの答え方であると思います。「あなた方は、私の使徒であることを疑っているが、あなたがたは私たちの伝道の結果、生まれた教会だから、私が偽物なら、当然、あなたたちも偽物になるね?」と語ったことになります。パウロは、実際に、2節の冒頭で、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」と言っています。エルサレム教会や、12使徒たちの推薦状を持たないパウロです。いや、むしろ、それを敢えて持とうとしなかったパウロです。自分の宣べ伝えている福音、自分を伝道者として立てている権威、それは、人間じゃない。神さまからのものなんだ。ご復活のキリストに出会い、そのお方に促されて、伝道者になったんだ。それが疑わしいと言うならば、私の伝道の結果、生まれたあなたたちも疑わしい教会ではないか?もしも、私の推薦状を求めるならば、あなたたちこそ、私の推薦状と言うべきではないか?
誤解してはならないのは、パウロは、人間からの推薦状はいらないとパウロが言う時、自分は他の教会や伝道者とは一線を画した特別な存在、他の人たちには与えられていない特別な神の言葉を携えていると、自己宣伝しているのではないということです。コリント教会に最初に宛てたパウロの手紙には、あなたがたに告げ知らせた福音、神からの良き知らせ、「最も大切なこととしてわたしが伝えたのは、わたしも受けたものです」と言って、十二使徒が語った通りのキリストの死と復活と、弟子たちへの顕現の出来事を、最も大切なこととして、自分も受け引き継ぐものとして、語っています。独自の福音を伝えようというのではありません。むしろ、自分の正しさを人間的権威に訴えようとしないのは、福音を語る者にとっては、神が正しいと言ってくださるか、どうかに委ねなければならないものだという、どの使徒にとっても当て嵌まることを、明らかにしているだけだと言うことができます。
ところで、このようにパウロの使徒職の疑いへの弁明から始まったこの箇所ですが、今、私が申しあげたようなことは、副次的なことであり、パウロがここで語ろうとしている中心ではありません。「わたしたちの推薦状はあなたがた自身です」という言葉も、本物の使徒かどうかということは、神と私の関係以外、誰も入り込めない神の召命という主観に至らざるを得ないものであり、ただ間接的に、その働きの実りから、本物かどうかは類推するより他ないという意味で語られているのではありません。なぜならば、非常にわかりづらく、それだけ心惹きつけられる箇所ですが、パウロは、次いで、「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から読まれています」と語るからです。
多くの学者が指摘するのは、ここは、「それは、あなたがたの心に書かれており」となっていたら、わかりやすかったということですその場合には、「あなたがたは、自分たちのことをキリスト者だと思うだろう?あなたがたの心が語るそのアイデンティティーが信仰の導き手であるわたしの本物である証拠ではないか?」と、なるはずだと。しかし、コリント教会員が、パウロの推薦状であること、さらに言えば、神がパウロを用いてお書きになったキリストの手紙であることは、コリント教会員自身の心にではなく、パウロたちの心に記されていることだと言うのです。
ここで、はっきりするのですが、パウロは、コリント教会に人々に対して、自己弁明をすることを止めてしまっているのです。自分が本物の使徒であることを、わからせようとすることを主な目的とはしていないのです。そこからはもう、とっとと離れてしまっています。代わりに何を言っているかというと、「あなたがたは、私が使徒であることを疑っているかもしれないが、あなたがたは私にとって、変わらずにキリストの手紙だ」と言っているのです。コリント教会の人々は、パウロが本物の使徒であることが分からなくなっている。パウロが本物の使徒であることが分からなくなっているから、パウロの語った福音も、疑ってしまっている。パウロの語った福音よりも、わかりやすくて、派手で、自分たちのことを、気持ちよくさせてくれる、鼻高々にさせてくれる、推薦状を携えた巡回伝道者の語った異なる福音を、信じ始めている。
けれども、異なる福音に魅了された結果、人間を神とはしない福音、人間の貧しさと限界を認め、いよいよ神に縋るようにと迫る人間への裁きを含んだキリストの福音を、不完全なものと片付けてしまおうとする者たちを、パウロは、福音から落ちた者とは呼ばない、異端者とは決して呼ばないのです。代わりに、「あなたたちは神が私を用いて書いてくださったキリストの手紙だ」と言うのです。
あなたたちなんか知らないと、言い返したっていいんです。あなたたちが私を捨てるなら、私もあなたたちを捨ててオアイコだと言っても少しも構わないんです。その方はパウロにとって、利益は大きかったと思います。間違った方向に向かっている教会です。自分の伝道によって生まれた教会だなんて、恥ずかしくて言えなくなるような問題をはらんだ教会です。信仰においても、その道徳性においても。そういうコリント教会であることが、全ての人に知られている、読まれているというのは、当時の教会が、教会間においても、知られているということでしょう。それどころか、新しい人間の集まりであるキリスト教会という共同体が、どんな集団であるのか?社会にとって有益か、無害か?、それとも有害か?疑いの目を持って、見る者も、教会の周辺にたくさんいたと思います。だからこそ、パウロは、最初の手紙で、後ろ指さされるようなことをするなと、注意しなければなりませんでした。その点、コリント教会は、全然理想的ではありません。教会は、天国の出張所なんて言えない。自分達とは関係ない、別の信仰ですと言えば良いし、言いたくなるような教会かもしれません。
でも、パウロはそうじゃない。自分の方では捨てられそうになりながら、関係を断たれそうになりながら、「あなたがたはキリストの手紙だ」と言い続け、「あなたがたこそ、世に知らしめたい、わたしの推薦状だ」と言い続けているのです。すごいことだなと思います。ものすごい愛だなと思います。わたしたち教会は、パウロにとってこういう存在なんだなと思います。わたしたちもまた、この言葉の中に包まれているなと思います。何でこんな見方ができたのか?何でこんなことを言い続けることができたのか?
もうあまり時間がありませんから、簡単に申し上げますが、これはパウロの言葉であってパウロの言葉ではないと思います。今まで私は、コリント教会はパウロの働きによって立てられた教会であることを強調してきましたが、本当は、パウロ自身は自分がコリント教会を立てたなどとは全然思っていません。パウロは1:24で、自分は、信仰を支配する者ではなく、喜びへの協力者だと言っていました。協力する者に過ぎない。自分はお手伝いさんだと。教会を生み出す働きの主役ではないのです。これは、さらに6:1では、「神の協力者」と言い直しています。教会を生み出すのは神さまです。そのことをパウロは知っている。これは、人からの推薦状を必要としないということとも、一致することです。
何で、こんな危ない教会を、キリストの手紙と言い切るのか?わたしの推薦状だと、胸を張るのか?パウロの言葉であって、パウロの言葉でない。キリストが、仰ってくださっているんです。「あなたがたは私の手紙だ。わたしがその血の霊によって書いたわたしの手紙だ。」コリント教会の人々にも、この私達にも言ってくださる。「あなたはわたしのものだ。どんな者であっても、わたしが、血を流して買い取った価高いわたしの宝だ。」パウロは福音から聞こえてくる、このようなキリストの言葉を聞いて、その協力者として、なぞるように言っているにすぎないのだと思います。
わたしたちは、教会共同体が神々の集まりではないことを知っています。欠けと限界と弱さの中にある人間集団です。愛に生きようとして失敗します。キリストの福音を、知らない内に、足蹴にしてしまうことがあります。不甲斐なく、情けないことをします。仲間に躓くだけではありません。自分に躓いて、自分は、ここにいられないということが起こるかもしれません。だから、私たちは、教会に集う隣りの人に向かって、「人を見たら躓くから、どうか神を見てください」と、言いたくなります。けれども、キリストにおける神は、わたしたちを御自分のものだと呼び続けてくださる。人を見ないで神を見てと言いたいわたしたちとは違って、キリストにおける神は、「この者たちを見てほしい。わたしが世に向かって書き送ったわたしの手紙なんだ。この人達を見て、わたしのことを知ってほしい」と、仰っているんです。
このような神さまの信頼、神さまの愛、神さまの覚悟、神さまの献身は、私たち教会にとって、たいへん心強いことであると思います。しかし、ただ教会のための励ましではありません。キリストの手紙である教会は、自分たちのためではなく、世のために存在しています。そのキリストの手紙の宛先人は、この世界であり、神がキリストにおいて教会を決して捨てないように、この世界を神は諦めないし、見捨てない、神のしぶとい愛を語るのです。
だから、神のこの世界に宛てた手紙である教会が、聖人君子の集まりではなく、欠けのある貧しい者の集いであることは、全く証しにならない事でも、立ち上がれなくなってしまうほどに、悲しみ過ぎる必要のあることでもないと思います。その群れは、神の罪人を捨てないという証であり、また愛に生きえない弱さを持った者が、なお、諦めずに愛に生きようと挑戦するその姿は、その罪人を突き動かす、神のしぶとい愛への、地上に鳴り響く反響、エコーとなることができるのです。
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