勉強が手につかないというのには、色々な理由があるかもしれない。もっと他に情熱を感じるものがあるからかもしれない。だとしたら、それはそれで素晴らしいことだと思う。極めた先には、勉強では得られなかったものを手に入れられるかもしれない。あるいは、勉強に手がつかない理由は、勉強する意味が見いだせないということにあるかもしれない。それは単に怠け者だとか、屁理屈だとか簡単に言われてしまうけれど、自分としては、少し違うと思っているかもしれない。何のために勉強しなければならないのか?という根本的な問いは、意外と学問の本質をついているのかもしれない。そもそも、歴史的には読み書きソロバンという実学以外の勉強は、「これがいったい何の役に立つか?」という種類のものであったと思う。だから、大昔のヨーロッパでは、勉強することは、貴族の証のようなものでさえあった。しかも、これを読んでいる人の曾お爺ちゃん、曾お祖母ちゃんの世代、つまり戦争の時代に生きた人は、日本だって、勉強は間違いなく贅沢に属するものだった。だから、勉強に何の意味があるか?という子どもの屁理屈と一蹴されるような問いは、実は、ある意味、勉強の本質を衝いているのではないかと思う。学問ができるというのは、贅沢であって、それがしたくてもできない時代や環境の方が、歴史的には当たり前だったのだと思う。大学生になると、大学によってはリベラルアーツ、「教養」という分野を重視し学ぶことになるが、これは本当にそのまま生きるために役立つことではないというところに学びの本質がある学問と言える。「何の役に立つのか?」という問いにリベラルアーツは、直ぐには答えられない。けれども、リベラルアーツには、「直ぐに役立たない」ことにこそ価値がある学習であるのだ。生活の役に立たないことを学ぶことは、動物にはないとても人間らしいことなんだと思う。
物事を本質的に考える人ほど、良い学校に入って、高い収入の得られる仕事に就くということを最高の生き方とし、だから勉強するという気にはなれないかもしれない。そもそも、私たちが受ける学校教育だって、多元性を大事にしていて、ゆとりとかさとりとか、言われることはあるけれど、表向きには、一つの良い価値観となっている。けれども、その一方で、学習塾に行けば、いかに偏差値を上げるかということが至上の価値であるし、実際に、世の中でも、学生であれば勉強ができること、大人であれば収入が高いことが、人間の価値の高さを表しているというような空気がビシビシと伝わってくる。もちろん、それは一つのリアルな評価であるかもしれないけれど、だからといって、多様性を叩き込まれた世代にとって、バブル時代に生きたおじさんやおばさんや、塾講師たちが語る価値観を、100パーセント正しい答えとはどうしても思えない。何のために勉強するのか?教育の本音と建前があるように感じるし、その本音の部分は、あまりにも、即物的で、ますます学習意欲を萎えさせるような本当にくだらないと思えるような、それでいて、それがくだらないと思う自分は、やがて、負け犬になっていくのだろうということも、うっすらと感じさせるものでさえあると思う。
こういう私も、バブル世代と、ゆとり・さとり世代の間の、いわゆる「失われた世代」に属しながら、ゆとり・さとり世代に先駆けて、勉強する意義に躓き続けてだいぶ来てしまった。タイムマシーンに乗って、小学生、中学生、高校生の自分に、もしも声を掛けることができるなら、「遊んでばっかいないで、勉強してくれ」と言いたい思いもあるし、「どうせ遊ぶならもっと実のあることに集中してくれ」と言いたい気持ちもあるけれど、その頃のどうしてもやる気が起きなかった自分の気持ちも、もっともだと思うところもある。大人になった今でも、自分には、学ぶ内容そのものに興味がない限り、義務的な学習をすることは難しいなと思う。良い学校に入るため、やがては良い収入を得るため、それによって、優越感を得たり、約束された老後を得たり、やっぱり今でも、それが興味のない学習をするための決定的な意欲にはどうしても繋がらないと言わざるを得ない。第一本当に、その約束が実現するかわからないってことを言われ続けてきたわけだし、、、。
けれども、そんな自分に「お前は勉強が好きか?」と問うならば、なんと「今は、好きだ」と答えられる大人になっている。こういう変化がいつどうやって起こったのかと考えて見ると、自分のアイデンティティーがはっきりと確立した時からだと思う。ナンバーワンにならなくても、特別なオンリーワンだと語られる一方で、良い成績を上げることを求められるという矛盾の中で、何が真実なのか?と、くすぶり続けていたけれど、今は、人間の目にどう映ろうとも、聖書の神のまなざしにおいては、これを本当のことだと思っている。しかも、神さまの目には、特別なオンリーワンである理由は、神によって、皆、人とは違う唯一無二の良いところを与えられているという理由じゃなくて、私が何の取り得もない駄目な人間であっても、全く何の理由もなしに、その私を神様は自由に愛し、宝物と定めたんだと聖書はいたるところで語っている。そう考えると、受け入れるのが難しいような聖書の語る「人間が罪人である」というメッセージは、実は、不快なメッセージではなくて、自分をダメな奴と心のどこかで思っている人に程、決定的に有益なメッセージであると思う。私がどんな人間であろうと、人と比べて相対的に能力の劣る人間であろうが、他の誰と比べるまでもなく、自分自身にとって、耐えがたい厄介な自分であったとしても、聖書の神は、そんな私のことを御自分の宝であり、どんな代価を払ってでも、御自分のものとすると仰る。
「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。…私は主、あなたの神/聖なる神、あなたの主/わたしの目にあなたは価高く、貴く/あなたの身代わりとして人を与え/国々をあなたの魂の代わりとする。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」(イザヤ書43:1~5の抜粋)。
この聖書の言葉に従えば、私の価値を決める最高裁判所には神がいて、しかも、その神は、私が大切過ぎて、どんな犠牲を払ってでも、私を大切にすると仰っている。しかも、聖書全体を読むと、これは口約束ではなく、イエス・キリストが私の代わりに事実、犠牲になって十字架で死なれたという風に繋がっていく。聖書という書物は、よくできていると思う。
これはまた、自分自身のことを分析しなければいけないのかもしれないけれど、この聖書の言葉を自分のこととして捉えて以来、勉強する意味も見いだせた気がしている。私は自分が有能であることに優越感を得るためや、人並み以上の生活を手に入れるために一生懸命勉強をすることはないと思う。その辺の欲望は、聖書の神が健全な形で、しっかりと満たしてくださった。誰に比べるでもなく、私がどんなダメな奴でも、どんな生き方をしても、どんな死に方をしても、私は、どんな人間や世間様の目を超えた神さまの至上のまなざしにおいて自分が全肯定されていることを知っている。自分の価値に不安になったら、卒業証書や、預金通帳を開かなくとも、聖書を開けば安心できる。その上で、余分な理由が除かれた後の、各学習テーマは、どれもそれぞれに魅力的に見える。生活に役立つ学習は、そのまま身に付いたら便利だなと思うし、役に立たないように見える知識も、愉快で上等な楽しみに思える。
けれども、それにまさって新しい学習の動機も湧いてくる。何よりも、神のまなざしにおいて既に、貴い自分というアイデンティティーを確立した後は、それから先の人生は、自己実現のための人生ではなくて、神と人に役立つための人生だということが実感させられる。すると、自分の満足のためではなくて、自分の人生は、純粋に、神と隣人のための人生だと思えば、気乗りしないことも、けっこうできてしまうものだと感じている。大人であれば嫌な仕事、学生であれば気乗りしない勉強も案外、その線上で乗り越えられるものじゃないかと思う。何せ、きっとこれを読んでくれてる人たちは、私の尊敬する自分のことよりも、人に尽くしたいって気持ちをどこかに持っている「ゆとり・さとり・つくし」世代なのだから、言ってることも分かってくれると思う。
世の中に「天職」っていう言葉があるけれど、実は、これは教会用語だって聞いたことがあるだろうか?聖書の信仰に生きる者にとって、天職は、別にやりがいのある仕事や、情熱を感じる仕事という意味ではない。文字そのものの意味で、天から与えられた仕事、神がくださった、神が「そのためにあなたを造った」と仰る仕事のことだ。その際、その天職が好きか嫌いかはあまり関係がない。私のことを宝だと思ってくださる神さまが、くださったものだから、それをやる。大切な人が求めるならば、たぶん、我々は気乗りしないことも案外できるかもしれない。とても大切なことは、もちろん、それをやらなかったところで、私に対する神の評価は変わらないということだ。それは絶対に揺るがない。けれども、そこまで自分のことを大切にしてくれる人のためには、何かしたくなるのが自然だと思う。私の人生は、神がそのようにして与えてくださった人生であり、私に日々押し迫ってくる課題が、そのような種類の課題であるならば、私たちは、生きる必要に迫られてではなしに、まるで、スキーや、ゲームを楽しむように、というか大切な人のために、喜んで苦労を引き受けるように、与えられた仕事や勉強に取り組めるのではないかと思う。この文章が、勉強に手のつかない人の助けになるかわからないが、今の自分の働き方や、学習のありかたは、現にそういうものであり、私は仕事も勉強も、楽しいものだと思えている、そういう一人の大人の証言ではあるとは思う。
P.O.
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