礼拝

10月20日(日)主日礼拝

聖 書  イザヤ書7章10節~17節
     マタイによる福音書1章20節~23節
説教題  インマヌエル(神が共に)
説教者  松原 望 牧師

ザヤ書71017

10 主は更にアハズに向かって言われた。11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」13 イザヤは言った。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間に、もどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。14 それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。15 災いを退け、幸いを選ぶことを知るようになるまで、彼は凝乳と蜂蜜を食べ物とする。16 その子が災いを退け、幸いを選ぶことを知る前に、あなたの恐れる二人の王の領土は必ず捨てられる。17 主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ。」

マタイによる福音書12023

20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

「 説教 」

序、

 10月の礼拝で、選んだ聖書の箇所に登場するのは、預言者たちです。

 第1週ではエリヤとエリシャ、第2週はアモスとホセア、そして今日登場するのはイザヤです。これまでのエリヤ、エリシャ、アモス、ホセアという預言者たちは、北王国イスラエルで活躍していました。今日のイザヤは、紀元前8世紀ごろ、約40年の長きにわたって南王国ユダで活動した預言者です。

1、預言者イザヤの時代

 イザヤ書7章は、南王国に非常に大きな危機が迫っていた時に語られた言葉です。

 先ほども触れましたように、預言者イザヤがいた国は南王国ユダでした。その北には、北王国イスラエルとアラムという国があり、両者は同盟を結び、ずっと北にある強大な国アッシリアと戦おうとしていました。北王国とアラムは、北に位置するアッシリアと戦うためには南にあるユダ王国を味方にしておかなければならないと考え、同盟に加わるように交渉してきました。南王国ユダはこれを断ったため、北のイスラエル王国とアラムは背後のユダ王国を取り除かなければ、安心して強大なアッシリアと戦うことはできないと考え、両国はまず南のユダ王国を排除しようと、攻撃を仕掛けてきました。

 これを恐れた南のユダ王国の王アハズは、アッシリアに援軍を頼みました。この時に、それを警告した預言者がイザヤだったのです。

 アッシリアに援軍を頼むと、一時的に脅威は去るかもしれないが、やがてそのアッシリアがユダ王国を責めてくるというのです。そして、イザヤは今こそ神に祈るべきだと進言しました。「神はユダ王国を必ず助けてくださるから、そのしるしを神に求めなさい」と言いました。しかし、アハズ王は、「わたしは神にしるしを求めるようなことはしない。それは主なる神を試すことだ。私は決して主を試すようなことはしない。」とイザヤの言葉を退けるのです。

 アハズ王の言葉は、一見信仰的な言葉です。確かにアハズ王の言う通り、しるしを求めて神を試すことは正しいことではありません。しかし、アハズ王の本心は、神を信頼しているのではなく、「目に見える助けが欲しい。厄介ではあるが、アッシリアに援軍を頼んだ方が、より確実だ」ということでした。

 この時に、イザヤが告げたのが7章14節の「インマヌエル預言」です。

2、イザヤの「インマヌエル」預言

 預言者イザヤが告げたインマヌエル預言は有名ですが、この預言に登場する「おとめ」と「インマヌエルと呼ばれる男の子」とはだれなのかについては、よくわかりません。具体的なだれかを指しているのか、それとも「神は我々と共にいる」という意味の「インマヌエル」という言葉そのものを強調したかったのかはわかりません。

 確かではありませんが、16節以下にその生まれてくる子供が成長する前に、神が北王国イスラエルとアラムを滅ぼすと言っていますので、それが一番言いたかったことでしょう。

 イザヤのインマヌエル預言が有名なのは、マタイ福音書がこの言葉を引用し、主イエス・キリストが結婚前のマリアから生まれることの預言として用いたことによります。

 イザヤ自身は、そのつもりがなかったかもしれませんが、マタイ福音書はこの言葉を主イエスの処女降誕を予め告げていると考えたことは間違いないでしょう。

 このことについては、別の機会に話をすることにします。

3、「神は我々と共におられる」

 ところで、「神が共にいてくださる」という言葉は、旧約から新約を貫いている大切な信仰です。

 その中でも比較的よく知られている言葉として詩編23をあげることができます。

 「主は羊飼い、私には何も欠けることがない」という言葉で始まる詩で、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」(詩23:4)という詩です。この言葉に慰められ、力づけられた人も多いのではないでしょうか。

 アブラハムやモーセ、そのほかの人々の場合でも、「神が共にいてくださる」と記されているところでは、そこに登場している人物が苦しい状況にあった時、神が共にいて必ずその人を守ってくださることを記しています。

 聖書は、神が私たちと共にいてくださることは非常に大きな幸いであると告げています。

 その中でも少し変わっているのが、創世記5章に記されているエノクという人物についての記述です。

 創世記5章22~24節に「エノクは、メトシェラが生まれた後、三百年神と共に歩み、息子や娘をもうけた。エノクは三百六十五年生きた。エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった。」とあります。

 これは神が共にいてくださることがどんなに幸いであるかを告げることが目的であったと思われますが、エノクという人物が長寿を全うしたというだけでなく、「神が取られたのでいなくなった」、すなわち、生きたまま神の国へ移されたと告げているのです。神が共にいてくださるもっとも幸いな様子を描いています。

4、マタイ福音書がインマヌエル「神は我々と共におられる」の言葉を引用する意図

 マタイ福音書が預言者イザヤのインマヌエル預言を引用したのは、主イエスの処女降誕という奇跡を、神の御計画であったことを告げる目的がありました。

 それと同時に、「神が我々と共におられる」という神の御言葉は、主イエス・キリストおいて、本当の意味で成就したと言いたいのです。それは、マタイ福音書がその福音書を読むすべての人々に向けて語ろうとしていることです。その意味で、この福音書は、今、私たちに向けて、「神はあなたと共にいる」と力強く語っているのです。

 そのことは、私たちがキリストを信じ、キリストの名による洗礼を受け、キリストに結ばれ、キリストの命に生きる者とされ、「神と共にいる」ことが私たちの身の上に成就することを意味しています。

 創世記のエノクは生きたまま神の国に移されました。私たちは彼とは違う形で永遠の命に移されるのです。キリストの命に、神の独り子の命に生きる者とされるのです。

 そこで重要なことは、「神は我々と共におられる」という言葉は、主イエス・キリストを信じる私たちの信仰告白となっているということです。神への感謝の言葉として、この信仰を告白するのです。

5、マタイ福音書281920

 マタイ福音書の最後、28章19~20節に次のような言葉があります。

「19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 このようにマタイ福音書の最後で、キリストが「弟子たちと共にいる」との宣言をし、この福音書は閉じられています。マタイ福音書は「神は我々と共におられる」という言葉で始まり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」で閉じているのです。これは偶然ではなく、マタイ福音書は意図的にこのように構成したのです。

 1章23節の「神は我々と共におられる」は、キリストに救われた私たちの信仰告白だと言いましたが、28章20節の「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」は、私たちの信仰告白に対する、神とその独り子キリストからの確認の言葉なのです。

 主イエスの誕生は、救いの完成です。しかし、この完成は主イエスの救済の業の全体、すなわちキリストの十字架と復活の業を通してはじめて確認されるのです。

 

 

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