聖 書 イザヤ書53章1節~12節
使徒言行録8章26節~38節
説教題 苦難の僕(しもべ)
説教者 松原 望 牧師
聖書
イザヤ書53章1~12節
1 わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。
2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
4 彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、
わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。
5 彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、
わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、
わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
6 わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。
7 苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、
毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。
8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、
わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。
9 彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、
富める者と共に葬られた。
10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。
彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。
11 彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。
わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。
12 それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を
受ける。
彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。
使徒言行録8章26~38節
26 さて、主の天使はフィリポに、「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言った。そこは寂しい道である。27 フィリポはすぐ出かけて行った。折から、エチオピアの女王カンダケの高官で、女王の全財産の管理をしていたエチオピア人の宦官が、エルサレムに礼拝に来て、28 帰る途中であった。彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。29 すると、“霊”がフィリポに、「追いかけて、あの馬車と一緒に行け」と言った。30 フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえたので、「読んでいることがお分かりになりますか」と言った。31 宦官は、「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」と言い、馬車に乗ってそばに座るようにフィリポに頼んだ。32 彼が朗読していた聖書の個所はこれである。
「彼は、羊のように屠り場に引かれて行った。毛を刈る者の前で黙している小羊のように、口を開かない。33 卑しめられて、その裁きも行われなかった。だれが、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」34 宦官はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」35 そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。36 道を進んで行くうちに、彼らは水のある所に来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」38 そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。
「 説教 」
序、
イザヤ書1~39章は、列王記にも登場するアモツの子イザヤが記しましたが、40~55章は200年近く後の時代に書かれたものです。言い方や信仰などがよく似ているところがあり、第二イザヤと呼ばれています。おそらく、多くのユダヤ人たちが捕らえられて行ったバビロンで、書かれたと思われます。
1~39章は、神の裁きがこれから来ると告げられていましたが、第二イザヤでは裁きは既に行われ、意気消沈しているユダヤ人たちに神の赦しを語っています。第二イザヤの冒頭、40章1節の「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」という言葉はとても印象的です。そして、1~39章にはほとんどこの言葉は出てきませんが、第二イザヤでは少し多く使われています。
第二イザヤには、もう一つの特徴があります。それは神の僕の詩(うた)です。それが四つあります。今日のイザヤ書53章はその最後の僕の詩(うた)で、特に「苦難の僕」と呼ばれています。
1、苦難の僕
旧約聖書の中で「主の僕」と呼ばれた人はそれほど多くはありません。一番多いのはモーセで、他にアブラハム、ダビデがいます。その他には、多くはありませんが、名を明かされていない預言者に使われたこともあります。「主の僕」「神の僕」という言葉は称号ではありませんが、神と特別の関係であったり、特別の使命が与えられている人に使われているようです。
イザヤ書の苦難の僕も名前が明かされていませんが、神との特別の関係とか、神から特別の使命を与えられて遣わされた人という意味が強いようです。
この「苦難の僕」が誰であるか、多くの人にいろいろ推測されてきましたが、謎のままです。その中で比較的多くの人が考えたのが第二イザヤ自身ではないかということでした。
使徒言行録の中でエチオピア人の宦官が福音宣教者フィリポに「預言者自身の事か」と聞いています。そこで、フィリポは「苦難の僕」はイエス・キリストであることを説明し、福音を告げ知らせました。
この出来事は、イザヤ書53章の苦難の僕は十字架のキリストを預言していると、キリスト教会が早くから伝えていたことを示しています。
2、詩編22編
主イエス・キリストが十字架にかけられた出来事を思い起こさせる旧約聖書の言葉としては、詩編22編が挙げられます。特に冒頭の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」という言葉は、福音書に記されている十字架にかけられた主イエスの叫ばれた言葉を思い起こさせます。
その他にも、22編の中には主イエスの十字架の出来事を思い起こさせる言葉が多くあります。そのため、詩編22編も主イエスを預言した言葉として、キリスト教会で大切にされてきました。
3、執り成し
苦難に遭っているということでは、イザヤ書の苦難の僕の詩と詩編22編は同じと言えます。違うのは、苦難の僕が受けている苦しみが多く人々の罪の贖いのためだということ、神に背いた人々のために執り成しとして苦しみを受けているということです。
それゆえ、苦難の僕が受けている苦しみは、贖罪という意味があるということです。それは、6~8節に良く現れています。
「6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。7 苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。8 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか/わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれたことを。」(53:6~8)
この贖罪という事柄は、レビ記に記されており、人々が罪を犯した時、罪の贖いを受けるための儀式を思い起こさせます。
4、キリストの執り成し
旧約聖書に記されている贖罪は、神から神の民イスラエルに与えられましたが、それは罪の贖いのために動物を神に献げるというものでした。動物の命を神に献げることによって、罪の贖いを受けるということです。しかし、それは罪を犯す度ごとに動物を献げなければなりませんでした。そのこと自体、この贖罪の儀式は不完全と言わざるを得ません。「雄牛や雄山羊の血は、罪を取り除くことができない」(ヘブライ10:4)とあるとおりです。
しかし、主イエスが十字架にかけられ、十字架の上で流された主イエスの血は、私たちの罪を完全に贖ったのです。それゆえ、使徒パウロが次のように言っています。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」(ローマ8:1~2節)
そして、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために/一日中死にさらされ、/屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:34~39)と断言しています。
主イエスは地上において、祭司であったことはありませんが、ヘブライ人への手紙は、主イエスこそ、地上の大祭司にまさる永遠のまことの大祭司であるとして、次のように告げています。
「しかし、イエスは永遠に生きているので、変わることのない祭司職を持っておられるのです。それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです。」(ヘブライ7:24~26)
キリストによる永遠の罪の赦しと永遠の執り成しが、私たちのために用意されていることを、イザヤ書53章に「苦難の僕の詩」として記されているのです。
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