礼拝

9月29日(日)主日礼拝

聖 書  列王記上11章1節~13節
     マルコによる福音書13章1節~2節
説教題  ソロモンの光と影
説教者  松原 望 牧師

聖書

列王記上11113

1 ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。2 これらの諸国の民については、主がかつてイスラエルの人々に、「あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」と仰せになったが、ソロモンは彼女たちを愛してそのとりことなった。3 彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。4 ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった。5 ソロモンは、シドン人の女神アシュトレト、アンモン人の憎むべき神ミルコムに従った。6 ソロモンは主の目に悪とされることを行い、父ダビデのようには主に従い通さなかった。7 そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべき神ケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。8 また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行ったので、彼女らは、自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。9 ソロモンの心は迷い、イスラエルの神、主から離れたので、主は彼に対してお怒りになった。主は二度も彼に現れ、10 他の神々に従ってはならないと戒められたが、ソロモンは主の戒めを守らなかった。11 そこで、主は仰せになった。「あなたがこのようにふるまい、わたしがあなたに授けた契約と掟を守らなかったゆえに、わたしはあなたから王国を裂いて取り上げ、あなたの家臣に渡す。12 あなたが生きている間は父ダビデのゆえにそうしないでおくが、あなたの息子の時代にはその手から王国を裂いて取り上げる。13 ただし、王国全部を裂いて取り上げることはしない。わが僕ダビデのゆえに、わたしが選んだ都エルサレムのゆえに、あなたの息子に一つの部族を与える。」

マルコによる福音書1312

1 イエスが神殿の境内を出て行かれるとき、弟子の一人が言った。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」2 イエスは言われた。「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」

「 説教 」

序、列王記と歴代誌

 旧約聖書に、列王記と歴代誌という歴史書があります。内容的に重複するところがあり、その点、新約聖書に、重複する内容を持つ四つの福音書があるのと似ています。今日の礼拝では必要なところは「列王記上、下」、「歴代誌上、下」と言いますが、二つの歴史書を比較するところでは、「上、下」という言葉を省略して、列王記、歴代誌とだけしますので、ご了承ください。

 列王記と歴代誌の内容が重複すると言っても全く同じというわけではありません。たとえば、先週の礼拝の聖書の箇所に登場したダビデと今日の聖書に登場するソロモンは列王記と歴代誌のどちらにも登場しますが、描かれ方に違いがあり、それぞれの歴史書の特徴がよく表れています。その違いを一言で言いますと、歴代誌はダビデとソロモンを極端に理想化しているのに対し、列王記は二人がそれぞれ犯した罪の大きさをしっかり書いているところです。

 今年のクリスマスまで、金沢元町教会の礼拝では、旧約聖書を取り上げていきますが、歴代誌とその後にあるエズラ記とネヘミヤ記は扱いません。しかし、今日のソロモンの話と多少関係しますので、先に、歴代誌とエズラ記、ネヘミヤ記について説明しておきたいと思います。

 歴代誌とエズラ記、ネヘミヤ記は同じ人によって書かれたのではないかもしれませんが、信仰の姿勢、主な主張などがかなり似ている事から、信仰やその他の立場が非常に近い人々の手によって書かれたと思われます。歴代誌はバビロン捕囚までが記され、エズラ記とネヘミヤ記ではバビロン捕囚からエルサレムへ帰った後のことが記されています。 一番顕著な特徴は、ダビデとソロモンを驚嘆に理想化していることです。それに関わって、エルサレムの神殿も重要な主題になっています。

  • ダビデとソロモンへの理想化

サムエル記に記されているダビデの数々の罪、たとえば、ウリヤの妻バト・シェバとの不倫とそれを隠ぺいするために夫のウリヤを戦死させたことは、歴代誌には出てきません。また今日の聖書である列王記に記されているソロモンの罪について、歴代誌は全く触れていません。 神殿建設にしても、サムエル記と列王記ではソロモンが建設していますが、歴代誌ではダビデが神殿建設の計画と準備をすべて行い、ソロモンが完成させたとなっています。

 ダビデの王国がソロモンの死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しますが、列王記はその責任がソロモンにあるとはっきりと語りますが、歴代誌ではそのことには全く触れていません。そして、南北分裂以降の北のイスラエル王国についてはユダ王国に関わってくること以外は全く記されていません。そのため、預言者エリヤとエリシャも歴代誌では登場していません。歴代誌にとって、北のイスラエル王国は、ダビデとソロモンに背いた国として、無視されているのです。

 バビロン捕囚については、その原因をユダ王国の罪の結果としているところは列王記と似ていますが、列王記ではソロモンをその罪の一番の原因としているのに対し、歴代誌ではそれについては全く語っていません。

  • エズラ記とネヘミヤ記

 エズラ記とネヘミヤ記は、ペルシア帝国によってバビロン捕囚が終わり、その帝国に保護されてエルサレム神殿の再建を果たしたことを記しています。エズラ記とネヘミヤ記の主要テーマは、歴代誌から続くエルサレム神殿なのです。 エズラ記とネヘミヤ記では、その神殿再建を妨げようとするサマリヤ人が登場し、これ以降、ユダヤ人とサマリヤ人とが険悪な関係になっていくことを示しています。 歴代誌、エズラ記、ネヘミヤ記は、エルサレム神殿を敵対視するサマリヤ人に対して、エルサレム神殿とそこで行われる祭儀の正当性を主張しており、それがこれらの書物が書かれた大きな目的のようです。

 歴代誌についての話が長くなりました。本題に入って行きたいと思います。

1、ダビデからソロモンへ  あらすじ

 先週の礼拝では、神がダビデに対して、ダビデの子孫を祝福し、代々王を継がせるとの約束がされたことを見ました。いわゆる「ダビデ契約」です。

 今日は、そのダビデの息子ソロモンの話になりますが、その前に、ダビデ契約以降のダビデの生涯をたどっていきます。サムエル記下11~12章でバト・シェバとの不倫を隠すため忠実な家来であった彼女の夫ウリヤを戦死させ、神からその罪を責められ、ダビデは悔い改めます。そして、神はダビデの罪を赦しました。

 13章からは、ダビデの家庭内でのもめごと、また反乱が生じたことが記され、サムエル記下が終了します。列王記上1~2章には、ダビデの最晩年に起こった王位継承をめぐってのダビデの息子たちの争いが起こり、その結果、ダビデとバト・シェバとの間に生まれたソロモンが王位につき、ダビデはその生涯を終えたことが記されています。 ダビデの晩年は血なまぐさいことが続き、平穏な最期とは言えないものでした。このことは、歴代誌には全く記されていません。

2、ソロモン王の功績  光の時代

 列王記上2章からソロモン王のことが記されていきますが、その初っ端に政治的な敵を粛正する出来事が記されています。その後、ソロモンが神に王にふさわしい知恵を与えてくださいと願い、神からそれを与えられ(列王記上3章)、さらに経済的にも非常に豊かになり、軍備も整えました。(列王記上4~5章) ついに、ソロモンはエルサレムに神殿を建てることを計画し、完成させ、ますます繫栄していきました。(列王記上5~9章) その繁栄ぶりとソロモンの知恵を見ようとシェバから女王が来訪し、ますますソロモンのもとに富が集まったことが記されています。(列王記上10章) こうしてソロモンの王国は絶頂期を迎えたのでした。

3、ソロモン王の罪  闇の時代が始まる

 列王記上11章では、一転してソロモン王の罪が語られます。

 そこには、千人もの非常に多くの外国の女性を王妃や側室にしたとあります。多くの女性たち、しかもそのすべてが外国の女性たちでした。それらは確かに大きな問題ですが、旧約聖書の時代はそのこと自体は責められることではなく、ごく普通のことでした。アブラハムやダビデも何人もの女性を妻にしましたし、その中には外国の女性もいました。列王記もそのことを問題にしてはいません。列王記がソロモンの罪として指摘しているのは、それらの結婚は政略結婚であり、婚姻関係によって繁栄と平和を得ようとしたことです。

 そのような政略結婚によって、結婚した相手の国との関係を大切にするため、女性たちが母国の宗教をエルサレムに持ち込み、町のあちこちに偶像と礼拝する場所を造りました。こうして、ソロモンは、平和と繁栄を得るために人間的な政略を重視し、神への信仰を捨ててしまったのです。この罪のため、神はソロモンの王国を北と南に切り離すと宣言されました。そして、ソロモンの子孫は、南のユダ王国を引き継ぎ、北のイスラエル王国は、クーデターによってその時その時神が選ぶ者を王として立てると言われたのです。

 さらに、ソロモンの罪は、遠い将来、国を亡ぼす原因となっていきました。ソロモンの時に入ってきた異教と偶像を、後々、国が亡ぶまで除き去ることができなかったからです。

4、申命記と申命記史書(ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記)を振り返る

 申命記には、神から与えると約束された地カナン(今のパレスチナ)に入る時、神から警告されたとあります。

 「あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、『わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった』と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである。あなたが正しく、心がまっすぐであるから、行って、彼らの土地を得るのではなく、この国々の民が神に逆らうから、あなたの神、主が彼らを追い払われる。」(申命記9:4~5)

 「もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る。」(申命記8:19~20)

 そして、ヨシュア記から列王記までは神から約束された地に入った神の民イスラエルは、なぜその約束の地カナンから追い出されることになったのかを歴史という形で説明しているのです。

なぜイスラエルの民の王国は滅んだのか。バビロン捕囚はなぜ起こったのか。イスラエルの民の歴史を信仰の面から解釈をし直したのがヨシュア記から列王記までの歴史書なのです。それは神に救われ約束の地を与えられながら、彼らの不信仰と神への裏切りによって国は滅び、人々はその罰としてバビロンへ捕らえられて行ったと告げているのです。そして、列王記はイスラエルの民が滅亡へと突き進んでいくきっかけとなり、また最も大きな原因となったのがソロモンであったと告げているのです。

5、ソロモン以降の王国

 列王記は、ソロモンの罪の大きさとそれに対する神の怒りの大きさを語ります。しかし、ソロモンの時代やその息子の時代はまだ国は滅びませんでした。それは、イスラエルの民が悔い改め、神に立ち帰る機会を与えられていたのです。そのために、神は何度も預言者を遣わし、警告し、「神のもとに立ち帰れ」と呼びかけ続けました。

 主イエスがこのようなイスラエルの人々についてたとえを語ったことがありました。

 「ぶどう園の主人が、農夫たちにそのブドウ園を貸して旅に出ました。収穫の時が近づいたので、収穫を受け取るために主人は僕たちを送りましたが、けがをさせ、帰しました。その後も何度も僕を送りましたが、けがをさせたり、殺したりした」(マタイ21:33以下)という話です。このたとえは、最後に主人は自分の愛する独り子を送りますが、その息子をも殺してしまうというように続きます。このたとえは、最後に殺されてしまう主人の息子は神の独り子である主イエスを指しており、その前に農夫たちのところに送られる僕たちは、旧約の預言者たちということです。このたとえのように、神は何度も預言者たちを送り、悔い改め、神に立ち帰るよう警告をしましたが、歴代の王たちは、預言者たちを迫害し、殺しました。

 歴代の王たちの中には、神に立ち帰ろうとする人もありましたが、結局は、国全体としては立ち帰ることはなく、ついに国を滅ぼしてしまったのです。

6、エルサレム神殿の形骸化

①旧約の時代

 そのように国を滅ぼしてしまうイスラエルの民でしたが、そんな彼らにも、かすかな希望がありました。エルサレムの神殿です。神殿は神の住まいと考えられ、エジプト脱出後に荒野での移動式神殿「臨在の幕屋」がエルサレムで、立派な神殿として人々に、神が共にいてくださり、我々を守って下さるとの希望を持ち続けることができたのです。

 しかし、神を裏切り、他の神々の像を立て、それを拝んでいる彼らに、神は預言者エレミヤを遣わし、真実に神への信仰がない状態で「エルサレムには神の神殿がある」と言っていることが、いかに空しいことかを警告しました。

 「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。」(エレミヤ7:4) 「わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。」(エレミヤ7:10~11)

 このように告げ、神はこのエルサレムの神殿を「投げ捨てる」(エレミヤ7:12~15)と、宣言したのです。

 神殿という建物が人を救うのではありません。神が人を救うのです。エジプトから脱出させてきて以来、神はイスラエルの人々を愛し、守り、導いてこられました。その神の恵みに応えてこそ、神殿は意味があるのです。神へのまことの信仰を失ったとき、もはや神殿には何の意味もないのです。

  • 新約の時代

 今日読んでいただいたマルコ福音書13章は、主イエスのエルサレム神殿崩壊の予告の場面です。

 新約の時代、ユダヤのヘロデ大王(マタイ2;1以下)によって、新しいエルサレム神殿の建設が始まりました。主イエスが神殿崩壊の予告をしたのは、建設が始まって40年以上が経っていましたが、まだ完成していません。それでもエルサレムの町の東にあるオリーブ山から見る建物の美しさは、大きな感動を与えます。弟子たちもその美しさに心躍り、なんと美しいことかと感嘆の声を上げ、主イエスを促します。

 しかし、主イエスの口から出たのは、「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。」という悲しく響く言葉でした。

 主イエスの目には、エレミヤと同じく、国の滅亡と神殿の崩壊が見えていたのです。神殿の崩壊は、単にローマ帝国に破壊されるというだけではありません。この時のユダヤとエルサレムの神殿に、彼らの罪と信仰の形骸化を見たのです。

 この神殿崩壊の予告の数日前、主イエスはその神殿で「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』(イザヤ56:7)。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣(エレミヤ7:11)にしてしまった。」と嘆かれています。

 旧約の時以上に、バビロン捕囚以上に、大きな厳しい神の裁きと神の怒りとを見ているのです。そして、その神の怒りを一身に受けるために主イエス・キリストはこの地上に来られ、十字架へと向かっていかれるのです。

7、神の忍耐の歴史

 ソロモンの罪は、国を亡ぼすほどの大きなものでした。しかし、神はすぐに国を亡ぼすのではなく、何度もイスラエルの人々に「悔い改めよ。私のもとに帰ってきなさい」と呼びかけ、招いておられるのです。ここに、神の忍耐があります。

 すべての人々を救おうと働いておられる神は、その救いの業が完成するまで忍耐しておられるのです。

 使徒パウロは私たちに告げます。

 「23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。」(ローマ3:23~26)

 以前、マタイ福音書1章の系図はすべての人々を救う神の御計画を示していると言いました。すべての人を救う神の働きの歴史は、同時に、一人でも多くの人を救うための神の忍耐の歴史でもあるのです。

 「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ペトロ 二 3:9)

 私たちは神の忍耐により、救いの機会を与えられたのです。この神の忍耐を空しくしないように、神の愛に応えて歩み、周囲の一人一人が神の救いにあずかれるように執り成しの祈りをささげていきましょう。

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