礼拝

6月30日(日)主日礼拝

聖 書  出エジプト記12章21節~28節

     マルコによる福音書14章12節~26節

説教題  エジプト脱出と過越の祭

説教者  松原 望 牧師

聖書 出エジプト記122128

21 モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。「さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。22 そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。23 主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである。24 あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。25 また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。26 また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、27 こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と。」民はひれ伏して礼拝した。28 それから、イスラエルの人々は帰って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った。

マルコによる福音書141226

12 除酵祭の第一日、すなわち過越の小羊を屠る日、弟子たちがイエスに、「過越の食事をなさるのに、どこへ行って用意いたしましょうか」と言った。13 そこで、イエスは次のように言って、二人の弟子を使いに出された。「都へ行きなさい。すると、水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい。14 その人が入って行く家の主人にはこう言いなさい。『先生が、「弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか」と言っています。』15 すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこにわたしたちのために準備をしておきなさい。」16 弟子たちは出かけて都に行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。17 夕方になると、イエスは十二人と一緒にそこへ行かれた。18 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」19 弟子たちは心を痛めて、「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。20 イエスは言われた。「十二人のうちの一人で、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ。21 人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」23 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。24 そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。25 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」26 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

序 創世記の振り返りと出エジプト記12章までのあらすじ

創世記の振り返り

マタイ福音書1章にアブラハムから主イエスにいたる系図があり、それは単に主イエスの血筋をあらわすのではなく、系図という方法で、神が全ての人を救う準備をしてきたことを示しています。その系図がアブラハムから始まるというのは、神はアブラハムを選ぶことからその救いの計画を開始され、主イエスが誕生したことにより、この計画が完成したことを示しています。

その神の救いとは何かを理解するために、4月から創世記1章から11章までを読み、神が良いものとして天地の全てのものを創ったことを見てきました。創られたもの自体が良いというだけでなく、人と神との関係、人と人との関係、人と他の被造物との関係も良い関係にありました。それが神の天地創造の目的であり、私たち人間に与えられた幸いでした。そこでは「永遠の命」という言葉こそありませんでしたが、神の御心は、私たち人間が神と共に永遠に幸いに生きることにありました。

創世記3章から11章までは、人間が神の信頼を裏切り、神の言葉に背いたことが記されています。このことにより、神との関係、隣人との関係、他の被造物のとの関係が全て損なわれ、私たちは死ぬ存在となり、喜びに満ちて永遠に生きるということができなくなりました。そして、自分の心に影が差し込み、全てのものとの関係が損なわれたことから来る苦しみや悲しみ、また自分自身に対する絶望を味わうことになったのです。

 

そのような罪と悲惨に悩む人間を救おうとして、神が行動を開始されました。それが創世記12章におけるアブラハムの選びでした。神は「あなたを祝福の源とする。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」と宣言しました。すべての人々を救うこと、これが神の計画でした。この計画を遂行するために、またすべての人々に神の祝福を伝えるアブラハムを選び、その使命をアブラハムと彼の子孫に与えたのです。こうして、マタイ福音書1章の系図で示されているアブラハムから主イエス・キリストにいたる神の救いの歴史が始まったのです。

創世記では、神の祝福によって全てのものが創造されたこと、人間の罪によってすべての良いものがはなはだしく損なわれたことを見、罪と悲惨から救おうとアブラハムとその子孫が選ばれたことを見てきました。

いよいよ出エジプト記を見ていくことになりますが、今年の12月のクリスマスまでに、神が独り子イエス・キリストを地上に送り出すために、どのような準備をしてこられたかに焦点を合わせてみていきます。そのため、旧約聖書に記されている多くの部分をはしょることになることを予めご了承いただきたいと思います。

 

②、出エジプト記1章から12章までのあらすじ

出エジプト記は前半が、その名の通り、エジプト脱出が主な内容になっており、後半は十戒をはじめとする様々な戒めになっています。そのすべてを扱うことをせず、今回は「エジプト脱出と過越しの祭」、続けて「十戒」、「神との契約」、「信仰者と共にいる神」を見ていくことにします。

 

さて、神はアブラハムに約束した通り、エジプトにおいて彼の子孫が一つの大きな民族になるほどに数が増えましたが、もう一つの「パレスチナの土地を与える」との約束はまだ果たされていません。この約束を実行するため、長年エジプトに住んでいたアブラハムの子孫たちをパレスチナに向かわせることになります。それが出エジプト記の主題です。

余談ですが、出エジプト記2章の最後にエジプトの王が死に、新しい王が登場します。この王の名前は出てきませんが、一応ラメセス2世として、話をしていきます。

 

ヨセフの働きによってエジプトに住むことになったアブラハムの子孫たちでしたが、王朝が変わり、彼らへのあつかいが大きく変わり、ほとんど奴隷のような状態になっていました。しかも彼らがあまりにも早く数が増えていくのを怖れた王が、生まれたばかりの男の子の殺害を決めます。そのような状況の中でモーセが生まれましたが、母親が葦で作った籠に入れ、ナイル川に流し、それがたまたま王女の目に留まり、王女は自分の子どもとして育てることにしました。

成人となったモーセは殺人を犯してしまい、エジプトからシナイ半島の方へと逃亡します。そこで出会ったミデアン人のもとで40年の間生活をしました。

80歳になったモーセはシナイ山の近くで神に呼ばれ、エジプトへ行き、イスラエルの民(アブラハムの子孫)を救い出すよう命じられます。何度も拒むモーセでしたが、ついに折れ、エジプトに行くこととなりました。

王の前に出たモーセは神の言葉を伝え、イスラエルの民をエジプトから去らせるよう交渉しますが、もちろん王は拒否します。モーセの言葉が神から告げられたことであるしるしとして奇跡を行いますが、王に仕える魔術師たちも同じ奇跡を起こして見せ、モーセの言う神の力など怖れるに足りないと言って退けます。

その後もモーセは王と交渉し、エジプトに災いの奇跡を起こします。最初エジプトの魔術師たちも同じ事して見せましたが、そのうち、魔術師たちには同じ奇跡をおこなうことができなくなり、しかも災いを解決することもできませんでした。魔術師たちはモーセの奇跡は「神の指の働きだ」と王に訴えますが、王はモーセの要求を拒否し続けました。こうした災いが9回も繰り返され、次第にその災いは大きくなりましたが、なお王はかたくなに拒否し続けます。ついに、神はエジプト中の人や家畜などの長子や初子をことごとく死なせる災いを起こしました。この時、モーセを通して、イスラエルの民に家の門と鴨居に目印として小羊の血を塗らせました。この血を目印に、神の使いがイスラエルを避け、エジプト人にだけ災いを与えると告げました。これは、後に、イスラエルの民自身が神は自分たちに災いを下さなかったことを確認するしるしとなりました。

この最後の災いがイスラエルの民を過ぎ越したことから「過越(すぎこし)」と呼ばれるようになりました。その夜の出来事を様子を記しているのが出エジプト記12章です。今日読んでいただいた12章21~28節はその夜を過ごした人々の様子が記されています。これが「過越の食事」です。

 

1、過越の食事と過越の祭

過越しの祭りにおいて、もっとも重要な儀式は「過越しの食事」です。エルサレムに神殿があった時代は、過越の祭りの時に神殿で数多くの犠牲が献げられましたが、神殿がなくなってからは動物の犠牲をささげる儀式は行われなくなりました。しかし、この祭りのもっとも重要なことは家族で「過越の食事」をすることでしたから、神殿で犠牲を献げなくなってもこの祭り自体大きな影響はありませんでした。

ユダヤ人は、今に至るまでこの過越の食事を守ってきました。時代によって、準備や食事の持ち方に変化があったかもしれませんが、おおむね出エジプト記12章に記されていることがそのまま行われています。子どもたちが「この儀式にはどういう意味があるのですか」と尋ねることも必ず行われ、子どもがいない時でも食事の席で一番若い人がこの言葉を言うことになっています。この過越しの食事を守ることによって、ユダヤ人はユダヤ人としての自覚、アイデンティティーを保ち続けることができたのです。もちろん、ユダヤ人としての自覚は過越の食事だけで保たれたのではなく、そのほかにも多くの要素があったことは確かです。しかし、この過越の食事を守ることは特に重要な働きをしたのです。

 

2、エジプト脱出の記念 神の民としてのアイデンティティー

このように、過越しの食事は、過去の出来事を思い起こすだけでなく、自分がいったい何者なのかを確認する大切な時なのです。

画家のポール・ゴーギャンの作品に「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」というのがあります。人によって好みがありますから、この絵に対する評価も人それぞれですが、この絵のタイトル「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」という哲学的な響きが、わたしの記憶に深く刻み付けられました。

「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」という言葉は、まさに「私は何者なのか」と自分自身を考えさせてくれます。

ユダヤ人にとって、過越の食事こそ、「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」を思い起こさせる大切な事柄なのです。この食事を家族と一緒に守ることによって、「自分たちはかつてエジプトで奴隷であったが、神が我々を救出してくださって、約束の地へ向かわせてくださった。我々は、神の恵みによって生きる神の民なのだ」という自覚を、繰り返し確認してきたのです。

一人の人間としてのアイデンティティーも大切ですが、一つの民としてのアイデンティティーも重要です。過越しの食事は神の民としてのアイデンティティーを確認する大切な時なのです。

 

3、主イエスの最後の晩餐

さて、旧約聖書は、神が主イエス・キリストを救い主として遣わすにあたり、どのような準備をしてきたかに目を向けましょう。今日の主題は過越の祭と過越の食事です。これらは主イエスによる救いとどう関係しているのでしょうか。

主イエスがエルサレムで十字架にかけられたのは、過越の祭の時でした。主イエスはこの祭に合わせてエルサレムへ来たのです。すべてのユダヤ人はエルサレムで過越しを祝いたいと思っていましたので、主イエスも同じであったとも言えますが、それだけではなく、過越しの祭りの時に、十字架にかかることが神の御計画であったのです。十字架はいつでもよかったのではなく、過越の祭の時でなければならないというのが、神の御意志だったのです。

モーセの時のエジプト脱出は奴隷となっていた土地からの脱出でした。しかし、主イエスの十字架は私たちを罪から脱出させ、罪の奴隷から解放することだったのです。かつてのエジプト脱出を思い起こさせる過越の祭の時に救い主が十字架にかけられる。それは、主イエスによって新しいエジプト脱出、罪からの脱出、神の御国へ向かっての旅立ちという新しい意味を持って起こされた神の業なのです。

 

いわゆる「最後の晩餐」と言われている主イエスと弟子たちの食事は、過越の食事でした。しかし、福音書に描かれているこの食事の場面は、すぐ「過越の食事」だとは気づかない描き方がされています。主イエスの弟子たちとの最後の晩餐は、ほぼ通常通り行われたのでしょうが、福音書は、過越しの食事の場面のほとんどを省略しています。なぜでしょうか。

福音書を記した人々にとって、通常行われることのない主イエスの言葉こそ重要だと考えたからに違いありません。特にパンとぶどう酒について、「これはわたしの体である」、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ14:22~24)という言葉は、この後主イエスが十字架にかけられる出来事を指していると考えたからです。

過越という神の奇跡がイスラエルの民をエジプトから脱出させたように、主イエスの十字架の出来事は、キリストを信じる私たちを神のみ国へと向かわるために罪から脱出させ

る出来事であり、神のみ国への旅の出発なのです。

 

4、救いの象徴としてのエジプト脱出

エジプト脱出は、それ自体とても重要な出来事ですが、約束の地へ向かう出発であることを忘れてはなりません。その意味では、出エジプト記から始まる物語は、約束の地に入っていく出来事が記されているヨシュア記までが一つの大きな流れになっているのです。

 

エジプト脱出から約束の地への旅は、過去の出来事を記していますが、またわたしたち信仰者の歩みを象徴してもいるのです。

エジプトを脱出したイスラエルの民は、海が真っ二つに分かれ、その間を通って旅を始めました。使徒パウロはこの海の中を渡った出来事を洗礼の象徴として説明しています。

Ⅰコリント10章1~4節

「1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、3 皆、同じ霊的な食物を食べ、4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」

 

旧約聖書に記されているエジプト脱出の出来事は、単に過去の出来事の記録ではありません。

主イエス・キリストの十字架の出来事を指し示す働きをし、エジプトから神の約束の地に向かう旅の始まりを示しているのです。

イスラエルの民は、モーセの導きによってエジプトを脱出し、40年の荒れ野で神を信頼する訓練を受けて、約束の地に入っていきました。キリストを信じる私たちはキリストに結ばれて罪から脱出し、それぞれの人生の中で神を信頼する訓練を受けて、神の国、神の都へと入っていくのです。

 

5、過越しの食事は、私たちにとって聖餐式という形にとなってアイデンティティーを確認させる

過越の食事を守ることによって、イスラエルは神の民の自覚を保っていきました。それと同じように、わたしたちも聖餐式を守ることによってキリストに救われた者、信仰によって神の民の一員とされたという自覚を保つのです。

 

「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」

私たちは、キリストによって罪の奴隷から解放され、(天路歴程の言葉で言うならば)滅びの国から出てきた」。「我々は、キリストに救われた者、キリストによって神の民とされたもの」。「我々は、我々の先頭に立って導いてくださるキリストによって、神の国、神の都へ行く」。

聖餐の恵みにあずかるたびごとに、キリストに救われ、神の民とされていること、神の国に向かっているとの自覚をもって歩んでいきましょう。

 

 

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