11月26日 主日礼拝説教 ヨハネによる福音書19章1節~16節a 大澤正芳牧師
今日この礼拝に招かれた方々なら、1度は聞いたことがある方も多いと思います。
エッケ・ホモ、「この人を見よ」という意味のラテン語です。
エッケ・ホモ、「この人を見よ」。
今日私たちが聞いております主イエス・キリストの裁判の席において、裁判官を務めたローマ総督ポンティオ・ピラトが語った言葉です。
「この男を見よ」。原語に正確に訳すならば、「この人を見よ」。
ユダヤ人の王を自称したとされる、「この人を見よ」。
大変印象深い場面での、印象深い言葉です。
そのため、この裁判の場面を描いた様々な絵画が、エッケ・ホモと言う題名をつけて、描かれてきました。西洋美術において、大変スタンダードな主題であると言って良いでしょう。
これは主イエス・キリストを裁く裁判官の言葉であります。
このみすぼらしい男を見よ。私の部下にからかわれているこいつを見よ。どこが王なのか?こんな者が、偉大なる我がローマ皇帝陛下に反逆する者なのか?
こんな者を裁くために、私を動かそうとするのか?私を脅し、自分たちの身勝手な要求を押し通そうというのか?
頑固で無様な者達よ、この男を見よ。これが、お前たちの王だ!!
つまり、ピラトの「この男を見よ」という4節、5節の言葉とは、このような嘲り、このような苛立ちを含んだ言葉でした。
しかし、同時に、この言葉は、その正式な裁判官を通して語られる神の言葉でもありました。
主イエスが11節で仰ったように、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もない」のであり、神はその独り子が、ピラトの下で裁かれることをお認めになったからです。
つまり、ピラトの声に合わせて、父なる神ご自身が私たちにお望みになっておられるのです。
「この人を見よ」
神はどんな人を「見よ」とお命じになっておられるのでしょうか?
それは、私たち人間にとって、躓きの石としか言いようのないキリストのお姿です。
人に捨てられ、裏切られ、今、十字架に引き渡されようとしているキリストのお姿です。
神は、このキリストを指して、「この人を見よ」とお命じになります。
考えてみれば不思議なことです。光輝くキリストを見よと命令されるのではないのです。
人を躓かせる、躓きの石であるゆえに、取り除かれ捨てられてしまう「この人を見よ」と、私たちにお望みになるのです。
私たちと少しも変わらない私たちの人間の祖先によって捨てられ十字架に追いやられようとしておられる。この人のその姿を見よ、目を逸らしてはならない。
あなたと少しも変わらないあなた達の祖先、だから、あなた方自身が同じように捨ててしまうその人を見よ。
あなたが裏切り、あなたが捨てずにはおれないその人を見よ。それがあなたの神であるわたしの望みである。
厳しいことです。
この後、讃美歌280番を賛美いたします。
まさにこのエッケ・ホモ「この人を見よ」と歌う讃美歌です。
飼い主のいない羊のような私たち人間を憐み、私たちのきょうだいとなるために、最も低いところにお生まれになったこの人を見よ。食べる暇も忘れて働かれたこの人を見よ。それにもかかわらずこの私たち人間から十字架の死の他には何も与えられることのなかったこの人を見よ。そこで私たちを赦されたこの人を見よ。この人を見れば神の愛がわかる。
そのように歌う讃美歌です。
私は今まで不思議に思っておりました。この讃美歌280番「この人を見よ」は、牧師就任式の時に必ずと言っていいほどよく歌われる讃美歌なのです。
日本人の作った賛美歌です。
なぜ、これを牧師就任式で歌うのか?
牧師就任式の際に、この人を見よ、この人を見よと歌う。それはまるでこの牧師を見なさいと歌っているようではないかと感じることがあります。
なぜこの讃美歌を牧師就任式でよく歌うのか、はっきりとした理由を耳にしたことはありません。
でも今はわかります。新しい牧師が与えられる喜びに包まれて、無牧師にならず良かった、この牧師が与えられて良かった、良かったと歌うのではありません。
この牧師、この説教者が教会に立てられたのは、食べる暇も忘れて、私たちのために働いてくださったキリストを指し示す為です。しかしそのお方に十字架の死のほか、何も与える事はなかった私たちの罪を見るためです。
このことを語らせるために神がお立てになり、教会が招いた牧師であることを、心に刻むためにまず歌うのです。
自分が、この牧師から何を聞こうとしているのか、この牧師と共に教会として何をこの世界に向かって証ししようとしているのか、確認するのです。
つまり、キリストという躓きの石をきちんとご紹介するために私たち教会は存在するということを確認するのです。
今日も週報の裏面にご紹介いたしましたハンス・ヨアヒム・イーヴァントという神学者が、『説教学講義』という書物の中ではっきりと語っています。
もしも、説教者がきちんと福音を説くことが出来たならば、聴く者は躓く。わかりやすく福音を伝えることができればできるほど、激しい抵抗にあう。
そして、キリストの福音が躓きであるというのは、復活が信じられないとか、一人の人が全人類の罪を背負うことができるなどということは荒唐無稽で信じ難いということではありません。
聖書に登場する祭司長、律法学者、ファリサイ派の人々、また、ピラト、ローマの兵隊たち、そして主イエスの弟子たちのように、このお方を裏切り、このお方を憎み、このお方がいなかったらどんなに人生は自分の思い通りになるだろうかと実感し、このお方を必要としないことを確信する、自分の人生から退場してもらいたいと願うのは他の誰でもなくこの私自身のことだったと、本当の意味で、イエス・キリストに躓いていた自分であることを弁えるようになることです。
説教がきちんと主イエス・キリストをご紹介することができるならば、必ず、そのような躓きが、聴く者の内に起こるのです。
私たち教会に託された使命というのは、また牧師に託された使命というのは、これは、一見、分かりにくいことですが、きちんとイエス・キリストに躓いて頂くことです。
そのためには、語る牧師が、その躓きを語る教会が、この躓きの石に、きちんと躓いておかなければならないのです。
ルカによる福音書20:17以下において、主イエスは、次のようにその場にいた者をご覧になり、その場にいる者にお語りになっておられます。
イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
ご復活のキリストに出会い、打ち砕かれ、最も小さい者となってしまった使徒パウロも喜んで語ります。「『見よ、わたしはシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない』と書いてある通りです。」(ローマ9:33)
キリストに躓くことを恐れる必要はありません。自分が、ファリサイ派、律法学者、祭司長、ピラト、ローマ兵たち、また主イエスが誰であるかをその時代の誰よりもよく分かっていたのに、このお方を裏切り、捨てた12弟子たちと、少しも変わらない自分であることを認めること、主イエス・キリストに躓くその当事者である自分であることを、拒否しなくとも良いのです。
そうです。私たちは、主イエスを王として戴きたくないのです。
私たちの内の最も信心深い者であっても、私たちは、主イエスを自分の王とはしたくないのです。
21節にこうあります。
ユダヤ人の祭司長たちがピラトに「『ユダヤ人の王』とは書かず、『この男はユダヤ人の王と自称した』と書いてください」と頼みました。
ここに私達自身がいるのです。本音のところ、王を必要としていない私たちなのです。
聖書が読めるようになるとは、そのような自分の姿に気付くようになることです。
そして、そのような人間の姿こそ、創世記の神話的な物語によって、善悪の知識の実を食べて、神のように成ることを求めた人間の罪の姿そのものなのです。
原罪とも表現されることのあるこのような罪を、私たちが、自分と他人の目に、どんなに上手に隠しても、イエス・キリスト、この石の上に落ち、また私の上に落ちてくるこの石によって、その本性が必ず明らかになるのです。
それが、今日お読みした主イエス・キリストの裁判の席で明らかになってしまった私たち人間の姿です。
しかし、それは、ただ私たちを裁くための衝撃ではありません。
私たちの虚飾が粉々にされ、神の御前に、心打ち砕かれた者、心の貧しい者になることは幸いなことなのです。
神は、天地創造から、今の時に至るまで、ずっとそう仰っています。私たち人間にずっとそう呼び掛けていらっしゃいます。
「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:9)
「わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。」(イザヤ66:2)
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マルコ5:3)
私たちは、「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(Ⅱコリント12:5)と、告白する者とされているのです。
「『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」(Ⅰコリント1:30)
キリスト者とは、このような裁かれ、砕かれ、貧しさに徹して生きる者のことです。喜んで、この貧しさに生きる者、ただ神の憐みによって生きる乳飲み子のような者のことです。しかし、その貧しい者は、喜んでいるのです。乳飲み子の喜びに生きるのです。
そうです。喜んでいるのです。
自分の貧しさを曇りなき眼で見る者とされたゆえに、自分を小さな神のように思う夢から覚めてしまったゆえに、たいへん悲しんでいるようでいて、誰よりも喜んでいるのです。
このイエス・キリストにおいて、折れかかった葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すことのない神を知ったからです。
そのためにへりくだって人となって私たちの元に来られ、今、神のお立てになった権威であるピラトの前で、私たちの身代わりとなり、裁かれてくださる私たちの真のきょうだいとなられたキリストと出会ったからです。
そしてそこでこそ、神をわが父、「アッバ、アッバ」と、幼子のように呼べることを覚えたのです。
この人、私たちのために、人間と成ってくださった神の独り子を見る者は、いつも悲しんでいるようでいて、それ以上に、いつも喜んでいるのです。
神を必要としていない人間を捨てず、なお、私たちの神となり、王となり、主となってくださる真の飼い主の元に、連れ戻された者として生き始めるからです。
いつでも自分自身の支配者でありたいと願う私たちの罪の心を凌駕する、信頼が、この心の内に与えられます。
このイエス・キリストの父なる神様が私たちになさってくださることは、時に適って美しいと、言わせて頂きます。
なぜならば、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずが」(ローマ8:32)ないと言えるようにされているからです。
私たちは、貧しい罪人でありながら、この主の愛のゆえに、この主の愛に心温められ、真実に、神と自分と、それから隣人を愛し始めています。
そうです。キリストに出会った者は、まず、神と自分を、自分の人生を愛するように助けられているのです。
ニューヨークのリハビリテーションセンターの壁に書かれた無名兵士の詩と呼ばれる一篇の詩は、キリストに出会って頂いた私達が、どんな強さに生きることができるか、どんなしなやかさに生きることができる者とされているかを、たとえば証ししてくれる私たちの仲間の証言の一つであると思います。短いものですので、ご紹介したいと思います。
大きなことを成し遂げる為に、
強さを求めたのに
謙遜を学ぶようにと弱さを授かった
偉大なことをできるようにと
健康を求めたのに
より良きことをするようにと病気を賜った
幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようと 成功を求めたのに
得意にならないようにと 失敗を授かった
人生を楽しむために あらゆるものを求めたのに
あらゆるものを慈しむために 人生を賜った
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いは全て聞き届けられた
私は もっとも豊かに祝福されたのだ
主イエス・キリストとの出会いが、私たちに結ぶ柔らかな心、しなやかな強さが、ここにあります。主を主とさせて頂いた者に与えられる強さがここに見えていると思います。
これは、強がりではありません。また、神は、私たちの祈りを聞いてくださらないということでもありません。
呪われているような私が、本当は、祝福されています。
キリストを見てください。この祝福が私の内に流れ込んでいます。いいえ、真の人であり、また真の神であられるこのお方が、共におられます。
イエス・キリスト、罪人の救い主、神を失った者の神であられるこのお方が、共におられます。そこに、誰にも何者にも奪われることのない本物の喜びがあります。
今日、ここに集められたお一人お一人が、一人の例外もなく、神の者として最も豊かに祝福された生涯を必ず歩みます。
御覧なさい。あなたが生きるために御自分の命を惜しまず注ぐことを厭わないキリストが、今、あなたの目の前に、あなたのためにいらっしゃいます。
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