牧師室だよりNo.81

 

2023.11.26

 今月初めに行われた教会修養会「楽しい聖書黙想入門」大好評を頂きましたが、この文章も紹介すれば良かったと後から気付いた神学者の言葉がありました。ナチス政権に抵抗した告白教会の神学者イーヴァントという人が、手元に全く資料がない状態で、牧師補たちにした説教学の講義の言葉です。少し難しい文章ですが、これまでとこれからの金沢元町教会の歩みにとって、急所とも言える文章だと思います。熟読玩味して頂ければと思います。太字は、大澤の強調です。

われわれが聖書のなかで求め、見出している神の言葉は、それ自身のなかに人間に対する関わりを持っている。その結果、正しい説き明かしは、正しい適用を内に含む。諸君はよく知っているであろうが、正統主義神学においては説き明かしが説教のすべてであったが、敬虔派は説教の課題は適用にあると見ていた。このいずれの問題提起も間違っていた。なぜかと言えば、テキストはひとつの真理自体を語っているというようなものではなく、まさしくキリストについて語っているからである。まさしくわたしにとっての神の救いを語っているのであり、既にその限り、初めから適用を含んでいる。テキストが語っているのは、ひとつの事柄、ひとつの事態というのではなく、わたしのことを語っている。わたしにおいてキリストを通じて神がしてくださっているみわざを語るのである。それゆえに、説教の導入が、このテキストはわたしどもに何を語っているのでしょうか、これはわたしどもにとって何を意味しているのでしょうか、などというようなものであることは決して許されない。テキストがわれわれにとって何を意味するか、どのようにわれわれに当てはまる言葉なのかを決するのは、神であって、われわれのすることではない。もしそれがわれわれのすることであるとすれば、われわれにとって良いと思うことを自分たちに自分勝手に当てはめようとするであろう。

 

 つまり、われわれは、説き明かしと適用とを切り離すことは決して許されない。そうでないと、両者の間に人間が勝手に割り込んできて、神の言葉の矢を逸らしてしまうことになる。人間が欲する方向に向かうようにしてしまう。私が真実に神の言葉を見出しておりその言葉が当たるべきところに当たっているならば、私は既にそこに、矢が命中した人間を見出している。私が聖書の中に見出している神の言葉は、いつも既に人間に関わりを持ってしまっている神の言葉である。それはそのなかに既に人間との関わりを含んでいる言葉である。我々に関わりを持たないままそれ自身だけでそこにある神の言葉ではなく、われわれに関わるものとしてわれわれの傍らにある神の言葉である。」     

  H.J.イーヴァント『説教学講義』154‐155頁

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