週 報
聖 書 ヨハネによる福音書16章25節~33節
説教題 しかし、勇気を出しなさい
讃美歌 120,140,471,29
今日、共にお聴きしている聖書の箇所、主イエスの御言葉、驚きの言葉がいくつも語られています。
私は洗礼を受けて今年で26年、考えてみれば、最初の神学校を卒業して、説教者にされてから、20年以上経ちますが、今日の主イエスの御言葉、落ち着いて考えると、これは、凄すぎる言葉だと、まるで初めて聞いたかのように驚いています。「今、分かりました」と主に申し上げるならば、「今ようやく信じるようになったのか」と、お叱りを受けそうでが、26節です。
「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。」
この主イエスの御言葉によれば、私たちが主イエス・キリストのお名前によって願うその願いは、天の神さま直結の願いだということです。正直申しまして、26年間の私の信仰の常識とぴったりマッチするような御言葉ではないと感じます。主イエスが、天の神様とわたしたちの間に立っていてくださるから、私たちは親しく「父」と呼べるはずです。主イエスが間に立って、とりなしてくださるから、守ってくださるから、弁護してくださるから、大胆に、天地万物の造り主なるお方に近づけるはずです。もしも、主イエスが間に入ってとりなしてくださらないのならば、私たちは、全能の父なる神様の御前に、一瞬たりとも立てない弱く空しい存在です。神の御顔を直接見ると、人間は滅びてしまう。これが旧約以来の聖書の民の確信です。
私たちも同じです。私たちの願い、祈り、もしも、主イエスが間に入って、とりなしてくださらないならば、神さまにお聞かせできないような、貧しく、足りない、自分勝手な願いと祈りしかできない私たちではないかと思います。主イエスの仲立ちが必要です。ちょうど、厳格な父親または、厳しい母親と、それにも関わらず我儘で未熟な子供の間に入って、思慮深い母、または思慮深い父が、うまく二人の間を取り持って、家族の平和を保ってくれるように、どうしても主イエスの執り成しがなければならないというのが、私の素朴な信仰の常識です。
あまり深く思い巡らして、考えてみたわけではありませんが、そう信じていますし、それは聖書に根拠のあることでもあります。
使徒パウロは、ローマにある教会に向けたその手紙の中で、「キリスト・イエスが神の右に座っていて、わたしたちのために執り成していてくださる」と語ります。今日、私たちが主イエスの口から聴きました「わたしの名によって願う」という言葉の中にも、この主イエスによる執り成しの響きがあると言って良いでしょう。私たちと天の神さまの間には、主イエスがいらっしゃらなければならない。主イエスのお名前がなければならない。その執り成し、そのお口添えを必要としている。天の神さまに直接、お声がけするのは、出過ぎたことであり、主イエスの仲介を必要とする。
けれども、私たちが主イエス・キリストのお名前によって願う時には、もはや、「わたしがあなたがたのために父に願ってあげるとは、言わない」とも仰います。まるで主イエスのとりなしを必要としない天の父と、わたしたちの直結があるようです。いいえ、もちろん、今日の主の御言葉においても、天の父に直結する私たちの祈りの内には、必ず、主イエスのお名前が、そこにはあるのです。主のお名前抜きではありません。主のお名前こそが、直結の鍵です。
けれども、同時に、「わたしがあなたがたのために父に願ってあげるとは、言わない」とも仰るのです。今日の聖書箇所でしか、聴いたことがないようなことを、ここでは、主イエスがお語りになります。まるで、主イエスが、そのお名前を完全に、私たちに預けてしまわれるという約束が語られているように思います。いわば、神の独り子である主イエス様が、私たちに、ご自分の実印をお渡しになってしまうのです。誰の手による文書であっても、最後に、その名前を刻んまれた印鑑証明付きの実印が押されれば、その文章は、その実印の名義人の正式な文書になってしまいます。「わたしがあなたがたのために父に願ってあげるとは、言わない」とは、主イエスは、そのようにして、ご自分のお名前を私たちにお委ねになっていらっしゃるということのように思います。私たちが主イエスのお名前によって、天の父を呼び、願い、祈る時、その祈り願いは、主イエス・キリストが願い、捧げた祈りと全く同じ重さをもって天の父に聴かれるというお約束でしょう。
しかも、これは、天の父のあずかり知らぬところで、主イエスの同情により、私たちに委ねられた秘密の、ちょっと違法すれすれの実印ではありません。直後に、「父御自身があなたがたを愛しておられるのである」と、続きます。
天の父なる神様が、祈り願いの内容に頓着するよりも、実印が押してあるかどうかでしか、物事を判断しないいわゆる一昔前のお役所仕事をされるから、主の名によって祈る私たちの祈りが聞かれるのではありません。「父御自身があなたがたを愛しておられるのである」から、私の名で祈るならば、これ以上の私の執り成しは必要ないと仰っています。つまり、主がここで教えて下さること、神が私たちに知ってほしいと願っていらっしゃること、それは、私たちのことを、このお方が、どんなに愛しておられるかということではないでしょうか。
「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。」
あなたがたは、直接、願って良いのだ。あなたがた自身が愛されているのだから。ここで、御父と御子がご一緒になって、目いっぱい、私たちを愛していらっしゃるそのお姿を、その御心を本当に分かりやすく、はっきりと、主イエスがお語りになっていらっしゃると思うのです。
祈ること、祈りというのは、私たちキリスト者にとって、務めであり、義務のように感じられることがあります。しかし、神様に対して「私のお父ちゃん」と呼びながら、呼びかけることができるというのは、こんなに心強いことはありません。いつでも、その名を呼べる。親しく、大胆に、恐れることなく、神を父と呼べる。このような祈りは、務めでも、義務でもなく、子どもの鼻歌のようなものでさえあると思います。パパパパ、ママママ、パパパパ、ママママ。御自分でも幼い頃、でたらめな節を付けて、楽しく親の名を歌って呼んだり、あるいは子から歌って呼ばれた経験が皆さんにもおありになるのではないかと思います。子とされた者は、歌いたいのです。その父のお名前を喜びの内に、呼ばずにはおれないのです。それが私たちキリスト教会の祈りです。
しかし、なぜ、私たちが、神の名を、父の名を呼びたいかと言えば、それは、このお方が私たちの祈り願いを待っていてくださるからです。そこまで突き通して、思い巡らさなければ、信仰の妙味がわかりません。神さまは、私たちのことが大好き過ぎて、いつでも私たちの声を聴きたいと願っていらっしゃる。この驚くべき神の思いこそ、今日の主の御言葉から誤解なく伝わって参ります。
「わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。」
私たちの祈りでは、天の神様の注意を引くことはできないから、主イエスのお名前を必要とするのではありません。私たちが、主イエスのお名前によって祈ること、主が天で執り成していてくださるということを、そういう風に、理解することがあるかもしれませんが、どうも、違うのです。今日の主イエスのお言葉を思い巡らしていく時に伝わってくるのは、神さまは私たちの祈り願いを聞きたくてょうがない。私たちの声を聞きたくて仕方がない。それだからまた、このことに気付くならば、自分が既に、いつもいつも祈っていることにも気付くようになります。
皆さん、自分には祈りの生活が足りないと、後ろめたい気持ちを感じたことがあるでしょう。しかし、福音を信じる者が、祈っていないということは絶対にないと私は思います。もしかしたら、確かに、椅子に座って、あるいは布団に膝まづいて、神さまと向かい合って、真剣に、30分、1時間と祈る生活はできていないかもしれません。けれども、祈りとは神さまとの会話、お話であるというならば、親しい者との会話というのは、いつでも、毎日、定期的に、決まった時間に、差し向かいになり、会話するだけが、会話の時間ではありません。もちろん、膝を突き合わせて、じっくりと話し合うこともあるでしょうし、そうやって、毎日を過ごしならば、本当によいコミュニケーションが取れますし、それはかけがえのない時間です。けれども、もちろん、それだけが会話ではありません。どこにあっても、何をしていても、一緒にいる父の名を、母の名を、ふと何気なく口ずさむのが、子どもというものではないでしょうか?片時も離れることなく私たちと歩んでくださる天の父の名を呼ぶ喜びは、私たちの心と体にすっかり刻み込まれ、電車で移動する時も、家事をしているふとした瞬間にも、間欠泉のように湧き上がるものではないでしょうか?そうやって、私たちの命の丸ごとが、神さまの御顔の前にあるのではないでしょうか?しかも、私たちのアッバ、お父ちゃんとしての御顔の前にあるのです。
もちろん、それは、主イエスがいなくても、私たちと神は直結であるというのではありません。主イエスの執り成しがなくても、私たちは、父なる神様に存分に愛されているというのではありません。全くそうではありません。むしろ、主イエスこそが、私たちに対するこの神さまの愛そのものなのです。主イエスこそが、私たちに対する神の愛の直結なのです。
だから、27節の後半で主イエスは仰います。「あなたがたがわたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。」
主イエスを愛し、信じるとは、どういうことでしょうか?このお方が神のもとから出て来られた方として信じ、愛するとはどういうことでしょうか?
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という神の愛である主イエスの派遣を信じること以外ではありません。
「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」という主イエスの愛のご決意を信じ、愛すること以外ではありません。
「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。…わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と仰る主イエスのお約束を、信じ、愛すること以外ではありません。神がお喜びになるのは、父、子、聖霊なる三位一体の神が、主イエス・キリストにおいて、私たちをこれでもか、これでもかと私たちを愛し、私たちを守ることを、私たちが味わうこと、そして、私たちが喜ぶこと、その私たちの口から喜びの声が漏れること、父を呼ぶ声が歌となって、溢れ出すこと、苦難の時には子供らしく「助けて」と縋れることです。
そしてこの三位一体の神の御業、私たちに惜しみなく注がれるその愛は、ただひたすら、主イエスを見ることによって、わかります。主イエス・キリスト、このお方こそ、天の父がわたしたちにお与えになった神の愛、神の真心そのものです。
33節で、主イエス・キリストは仰います。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難である。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
私がこの教会で説教をするとき、特に意識して大切にしてきたことは、神がその独り子を賜るほどに愛してくださったこの世とは、この私たちのことであるということ。また、同時に、主イエスが、既に打ち勝ってくださったというこの世もまた、私たちのことであるということです。
私は、今日与えられた主イエスの言葉もまた同じように、聴かせて頂きます。主のものである私たちに与えられる、世の苦難に主が打ち勝ってくださるだけでなく、その苦難の中にまみれながら、この世そのものと区別なく、一体化してしまう私たちの不信仰に、主が打ち勝っていてくださる。不安ばかりだ。勇気が出ない。その時私たちはこの世の力に飲み込まれており、この世そのものに成り切っているのです。
けれども、主イエスは既にこの世に打ち勝っておられる。私たちの不信仰に、打ち勝っておられる。
十字架前です。これは、お甦りの前の御言葉です。
しかし、既にこの時、主イエスは私たちに打ち勝たれたのです。主の勝利が打ち立てられたのです。
それは、それは他でもありません。神の愛です。「父御自身が、あなたがたを愛しておられる」と仰る神の愛です。
神の愛がもう既に勝っている。この世の不信仰、私たちの不信仰、その独り子を愛し、信じることのない私たちの不信仰に、もう、既に勝っておられる。この杯を最後まで、飲干してくださることを、既に決めていてくださる。主イエスのもとから、散らされ、自分の昔ながらの古巣に戻ってしまう弟子たち、この世に戻り、この世に埋没し、この世そのものに成り切ってしまい、主イエスをお一人きりにしてしまう弟子たち、私たちであるにも関わらず、神は私たちを愛される。愛し抜かれます。ここに既に世に勝っている主イエスと、御父の勝利があります。
最近、私は思います。私もまた天国を待ち望んでいる。主イエスの再臨を待ち望んでいる。聖書に約束される私たちの目の涙が完全に拭い去られる、もはや死はなく、悲しみも嘆きも、労苦もない、新しい天、新しい地が来ることを、願っています。
けれども、やがて完全に頂くべき天の相続分の大半は、もう既に、今、ここで頂いてしまっているのではないか?後で頂くものよりも、今、頂いているものの方が、大きいのではないか?何だか、そういう思いがしています。
それは、私たちもまた、十字架前の主イエスと弟子たちが交わした対話を、今、ここにあって、主と私たちの間で交わしながら、その日に向かって歩んでいること、それが、本当に貴いことなのだと考えさせられるのです。
私たちは主に申し上げます。「今、分かりました。」
主は、その私たちに仰います。「今ようやく、信じるようになったのか。」
私たちは教会にあって、世の終わりに至るまで、こういうやり取りを主とずっと続けて行くのだろうと思います。情けなく申し訳ないことですが、ありがたいことです。主イエスは今この時も、世の終わりに至るまで、インマヌエル、私たちと共におられます。
聖書を通して、説教を通して、洗礼を通して、聖餐を通して、そしてキリスト者相互の交わりを通して、「今、分かりました。」、「今、ようやく信じるようになったのか。」という小さな一歩、小さな一歩と進んでいく主とのやり取りを、その日までずっとずっと私たちと続けてくださるのです。
こんな理解の遅い者を見捨てずに、私の不信仰に打ち勝ち、飽きずに、ずっと付き合ってくださる主イエスが、ここにおられる。共にいてくださる。そしてそれこそ、主が私たちにの不信仰に打ち勝ってくださった事実そのもの、神が私たちと共におられるという事実そのもの、神の愛そのものの成就であり、約束されている相続の大半であると思うのです。
そのお方が、私たちと、今も、共におられ、今、私たちに仰っています。
「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
あなたたちの不信仰に、不信仰なあなたたちに、わたしは打ち勝っている。そうです。三一の神は、私たちの不信仰に、不誠実に、私たちのために、既に、打ち勝たれていらっしゃいます。
アバ父よ、アッバ父よ、愛する主イエスよ、命の息よ、御名をあがめます。あなたのお名前、それは、私たちのための神です。また、私たちの名前は、あなたのための人間、キリストのものです。
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