週 報
聖 書 ヨハネによる福音書11章28節~37節
説教題 主イエスの涙
讃美歌 17,296,28
私たちが読み進めているヨハネによる福音書は、最も新しい福音書だと言われています。
マルコによる福音書が一番古くて、ヨハネが一番新しいと学者は言います。数十年の開きがあると言います。
確かにこの二つの福音書の間には、時間の経過を窺わせるようなものがあります。
ヨハネによる福音書は、主イエス・キリストというお方がどのようなお方であるかについての理解と告白が、より整理され、洗練されたものになっている印象を受けます。
このお方が神と一つの存在であること、はっきりと子なる神と呼ぶべきお方であること、私たち教会が父なる神と共に、礼拝すべき神であられること、そのことが、いよいよはっきりと、告白されている福音書であると言うことができると思います。
それは、他の三つの福音書とは、全然異なる理解を持っているというのではありません。
一人のキリスト者の生活においても、キリストの出来事がこの自分に与えるインパクトが日を追うごとに深まって行き、また新しい状況の中で、福音の新しい響きを聴き直したりすることが当然、起こるのと同じです。
教会共同体もまた、新しい状況で、新しく、キリストに出会い直し、その良き知らせを聞き直していくということが、起こったのです。
そして、ヨハネがどうしても、このことを意識して語りたいと願ったことの一つは、このイエスというお方が、天の神と一つであること、すなわち、私たちが礼拝すべき真の神であることを、はっきりと語ることであったことは疑いありません。
だからその福音書の初めに、キリストを「言」と呼びながら「言は神であった」と語り、また、この福音書のクライマックスである、ご復活された主イエスと弟子たちとの再会の時に、「わたしの主、わたしの神よ」と、このお方を礼拝する弟子の姿、教会の姿をそこに証言しました。
イエス・キリスト、このお方は、地上に来られた神そのものである。
このようなヨハネによる福音書であるから、今日、私たちが聴いた聖書の物語が、どれほど、不思議で、この物語を聴いた者に困惑を与えるものであるかは、どんなに強調しても、強調し過ぎるということはありません。
天地の造られる前から、父なる神と共に一つであり、父なる神と共に永遠にあったとヨハネによる福音書が信じる子なる神が、今日、読んだ聖書の箇所において、憤り、泣いておられるのです。
ラザロという、このお方が大切にされた一人の人間の死を前に、その墓を目前にして、その死を悼み泣いている姉妹、仲間たちの涙を目の当たりにして、心がざわめき、波立ち、涙を流されたました。
不思議なことです。
何が不思議で理解に苦しむかというと、ごく単純に言えば、全然神さまらしくないのです。
この方が、心を騒がせ、憤り、涙を流さなければならない理由が、私たちには本当のところよくわからないのです。
なぜならば、その場にいた多くの人々の中にあって、このお方だけは、ラザロの死の出来事がどこに行き着くのかよくご存じであったからです。
死んで、墓に葬られて、もう四日も経ち、臭くなっているにもかかわらず、このラザロを襲った死の病が、死で終わり切るものではないことを、この出来事の初めから、主イエスは一人だけ、よくご存じであったはずだからです。
姉妹たちが泣いている、近所の者たちが泣いている。それはよくわかります。死は私たち人間よりも強いのです。
けれども、もしも、この人たちが、これから起こることを自分でも主イエスと同じように知っていたら、ラザロが間もなく甦ることを知っていたら、泣き続けることはなかっただろうと思うのです。
その苦しみ、その悲しみを終わらせることができる方、その力のある方、天地の造り主なる神の独り子が、なぜ、泣く必要があるのだろうか?
無から有を呼び出すことのできる天地万物の造り主なる神が、心を騒がせることなどあるのだろうか?興奮し、涙を流すことなどあるのだろうか?
ギリシアの哲学者たちが論理的に突き詰めて考えたように、全知全能の神は、不動であり、心を騒がせるなどということはなく、心を騒がせ、涙を流すような神は、私たち弱く、脆い人間が、自分自身の姿を投影して造り出した神ならぬ神ではないか?と、疑問は尽きません。
福音書記者は、このことを知らないはずはありません。この人は、決して心を騒がせることのない全知全能の不動の神、哲学者の神、説得的な神らしい神を知っています。
いよいよこのお方が、子なる神なのだ、私たちが礼拝すべき神なのだと、はっきりくっきり語りたいのであるならば、このような神らしい主イエスの姿を強調した方が良かったのではないか?主イエスが、ラザロの墓を目前にして、興奮して、涙を流されたなど、書かない方が良かったんじゃないか?という問いが生まれても、それほど、的外れではないでしょう。
けれども、福音書記者はそうしませんでした。忘れ難かったのだと思います。
この出来事に接した者たち、マリアは、マルタは、弟子たちは、この主イエスの憤りと、涙が、心にすっかり刻み込まれてしまって、この出来事を思い起こす度に、主の泣き顔を思い出さずにはおれなかったのだと思います。
「主が、墓に葬られたラザロを墓の中から呼び起こされた時、主は涙を流されておられたのだよ。」
このことを話さずには、続く出来事を話すことができなかった。それが、一続きの出来事であると、考えずにはおれなかったのだということだと思います。この主イエスの興奮、憤り、涙を語らなければ、墓に葬られたラザロが甦ったという奇跡の証人になることは自分にはできないと。
少なくとも、この証人たちにとって、主の憤り、主の涙は、ラザロの復活の出来事と同じほどの重さを、驚きを与えたのです。
聖書学者たちは、主イエスがなぜ、ここで涙を流されたのか、憤られたのか、福音書からは確かなことは言えないとしつつ、主に2つの解釈を提案します。
1つ目は主イエスが甦りを期待していない人々の不信仰に憤りを覚え涙を流すほどに嘆かれたという解釈です。
2つ目は、主イエスは、こんなにも人間を捉え恐れさせている死の力に憤り、人間のその憐れな姿に涙を流されたという解釈です。
どちらかと言えば2つ目の解釈が福音書全体の文脈に即しており、妥当な読み方だろうと言われます。私もそうだと思います。
けれども主イエスが憤り、涙を流した理由を福音書が語っていないというのは言い過ぎではないかと思います。福音書自身もこの主イエスの不思議な涙、困惑させられる涙の理由を、語っていると私は思います。36節のユダヤ人たちの言葉です。
「御覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」
私は、これが主イエスが興奮して、憤って、涙を流された理由そのものであると信じます。
主イエスというお方は、この福音書においても、周りの人たちから度々誤解されるお方です。
11章から始まるこの物語においても、たくさんの誤解、浅い理解に取り囲まれています。
弟子たちの誤解、マルタとマリアの誤解、そしてユダヤ人たちの、度重なる誤解を受けます。
このラザロの甦りの出来事において、主イエスに対する無理解は頂点に達し、この時から後、主イエスを殺してしまおうという空気は、ユダヤ人たちの間で、決定的なものになります。
だから、36節も、主イエスが、子なる神であることを知らない、礼拝すべき我々の命と甦りの主であることを知らないユダヤ人たちの間違った受け止め方だと、ほとんど読み飛ばしてしまうのかもしれません。
けれども、虚心坦懐に読めば、これは的を射た受け止め方ではなかったかと思うのです。
なぜ、主イエスがラザロの死を前に、憤っておられるのか?涙を流しておられるのか?
「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」。
その通りじゃないでしょうか?これ以上にストンと落ちる理解が他にあるでしょうか?
主イエスを取り巻く様々な人は、様々な思惑を持っています。
しかし、主イエスを見ている人たちが、どんなに悪意を持った誤解を身の内に抱えていたとしても、また、どんなにいい加減な無理解を抱いていたとしても、その誤解、無理解を突き抜けて、届いてくるものがあったのではないでしょうか?
その主イエスの姿を見たら、誤解しようもなく突き刺さってくるものがあったのです。
「この人は、ラザロをどうしようもなく愛している。」
主イエスの敵であっても、主イエスを十字架に付けようと思い定めた者であっても、よくわかったのです。
「この人は、ラザロのことをどうしようもなく愛している。」
子なる神の狂おしいほどの愛です。
もちろん、このように言ったところで、それでも、なお、なぜ、この直後にラザロを墓から呼び起こすことをお定めになっていた方が、誰もが、強烈に印象付けられるほどに、憤られ、涙を流さなければならなかったのか?その不思議、その謎に答えたことにはなりません。
けれども、私たちには、もう、これで十分なような気がいたします。
主は、どうしようもなくラザロを愛していらっしゃる。
そのことを本気で受け止めたい。そこから外れて行くような議論は、あまり意味がない。
私たちはここに留まりたい。集中したい。
それどころか、実を言えば、もっと真ん中へと招かれていると言わなければなりません。
真ん中、すなわち、私たち自身が、観察者ではなく、この出来事の中に、入って行くようにと、招かれています。
これもまた、本当に面白いのですが、今日読んでいる聖書箇所の最初の言葉、「先生がいらして、あなたをお呼びです。」と、マルタが姉妹マリアに耳打ちしたという表現があります。
でも、その前後を見ても、主イエスが「マリアを呼んだ」などという記述はどこにもありません。
その直前には、主イエスに対する誤解を打ち破られて、まるで彼女自身が復活に与ったようなマルタの悔い改めの出来事があるだけです。
そこから立ち上がって、妹のマリアを呼びに行ったのです。
「先生がいらして、あなたをお呼びです。」と。どこにも、主がマリアを呼びに行かせたなど書かれていません。
けれども、私の信頼するある学者は、これは、正しいと言います。このマルタの言葉は正しい。
主イエスの言葉は、一人一人に的中し、声になって届く言葉だ。
マルタに的中した主イエスの声が、今度は、マルタを通して、マリアに声となって的中したのだと言います。
主イエスの声を聴いた者は、主イエスの声を届ける証人になるのです。
「耳打ちした」という独特の表現も、主イエスの声が、今度は、マリアに向かって、マリア一人を目指して語られた声として、聴かれるべき主イエスの呼び声であることを表現しているのだと言います。そして、さらには、29節の「マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり」という表現は、マリアの復活と理解して差し支えないと言うのです。
主の言葉が主の声として、届く時、聴かれる時、思わず立ち上がってしまうのです。そこで、神に知られ、神を知る新しい自分、本当の自分、甦りの命、永遠の命を取り戻すのです。
同じように、今日、私たちが、この主イエス・キリストに、呼ばれているのです。耳打ちされているのです。この名が呼ばれているのです。それゆえ、もう一歩進んでいきます。立ち上がり、もう一歩進んでまいります。
「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」という地点を越えて、もう一歩、核心へと、出来事の中へと踏み込んでまいります。
「御覧なさい。主イエスはどんなにわたしを愛してくださっているか。私たちを愛してくださっているか。」
主イエス・キリスト、このお方は、この私たちのために、心に憤りを覚え、興奮し、涙を流される方です。
死んではならない、死んでほしくない。あなたの悲しみ、あなたの涙、それはわたしのものである。
子なる神の狂おしいほどの愛は、ここにいるお一人お一人に、耳打ちされている声、主の声です。
このお方は哲学者の神ではなく、私の名を呼ばれた神、私の名を呼ぶ神、私のために憤られる神、私のために涙を流される神であられます。
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