小さな小さな教理の窓No.12

小さな小さな教理の窓№12「カルケドン信条」①

 私たちの信仰の血筋を振り返るために始めました「小さな小さな教理の窓」、しばらくお休みしていましたが、今日は、古代信条の4つ目の信条であるカルケドン信条を紹介します。前回まで学んだ二つのニカイア信条は、父、子、聖霊が、私たちの礼拝すべき三位一体の神であられることを教会の信仰として告白したものでした。ニカイア信条自身がそのように告白した神であられる御子が、私たちと同じ人となられたという告白が意味することは、厳密に、どういうことなのか?という問いに答えようとするのが、カルケドン信条です。

 

 ある一方の極端では、神の子の霊が洗礼の時に人間イエスに宿ったのだから、キリストの内には混じり合うことのない二つの本性があると、二重人格のように考えたり、またもう一方の極端では、御子が、人となったと言っても、それは肉の体に、人間の精神に代わって、神の霊が宿ったものだから、厳密に言えば神でもない、人でもない第3の存在だと考えたりしました。

 この議論は、二つの極端の間で複雑に展開されましたが、451年のカルケドン公会議において、一つの定式にまとめられました。それが、カルケドン信条です。長いものではないので、次回に全文をご紹介しますが、注目すべき一文を先に紹介します。

 

 「われらの主イエス・キリストは、唯一同じなる御子であって、神性においても完全であり、また人性においても完全である。真の神にして、同時に理性を有する霊魂と肉体からなる真の人間である」。

 

 ごく単純に言えば、カルケドン信条は、ニカイア信条も当然の前提としていた主イエスが神であり、人であるという告白を、半神半人と理解されることから守り、「イエス・キリストは100%神であり、また100%人である。」と、告白することを教会の信仰として確認したものです。

 

 一見すると、普通の信仰生活には無縁の議論に見えますが、実際は、イエス・キリストの救いを理解するために、たいへん大切なテーマです。なぜ、主イエスは、私たちの罪を肩代わりできるのか?またなぜ、主イエスは、私たちを捕らえていた罪と死と悪魔の縄目から私たちを解き放つことができるのか?それはこのお方が真の神であり、真の人であられるからです。この完全に人であり、同時に、完全に神であられる一人のキリストへの信仰が、主イエス・キリストの救いの恵みを思い巡らすキリスト教会の信仰の中心とも言える贖罪論の土台となります。

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