クリスマス・メッセージ 2022

2022年12月24日 午後7時~ 讃美礼拝 

「しっかりと捕えられて」   ルカによる福音書2章1節-7節

 

昨年に引き続き、今日このようにして、クリスマスイブの夕べに、皆さんと共にここに礼拝をお捧げすることができますことを心より感謝しております。

 

相変わらず、コロナウィルス感染症流行終了の出口は見えません。しかし、それでも落ち着きを取り戻し、少しづつ、日常が戻ってきていることを、ここにいる誰もが喜んでいると思います。

 

コロナ感染症の世界的な流行が始まった年のクリスマスである2020年には、このイブの夕べの礼拝は中止せざるを得ませんでした。

 

日曜日毎の礼拝は、一度たりとも、お休みしたことはありませんでしたが、イブの礼拝を始め、これまでたくさんの集会を中止してきました。

 

それは私たちにとって、不本意なことであり、苦渋の決断でした。

 

それだから、まだ、出口は見えないとは言え、こうして、一所(ひとところ)に集まって、多くの方をお招きし、クリスマスイブの礼拝を共にお捧げすることができるということは、本当に嬉しいことです。

 

この日、私たちは日常を取り戻し、世界中の教会でクリスマスの季節に、毎年、読まれてきた最初のクリスマスの物語の一つであるルカによる福音書の物語を読みました。

 

2022年のクリスマスイブ、ぜひ、皆さんと共にこの聖書の言葉に耳を傾けようと願い、何度も何度も、繰り返し読みましたが、今までとは違った感慨が与えられました。

 

特に6節から7節の言葉、「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼葉桶の中に寝かせた。宿屋には彼らの止まる場所がなかったからである。」という聖書の言葉が、新しい響きを立てて聴こえて来ました。

 

生まれたばかりのイエス・キリストは布にくるんで飼葉桶の中に寝かされた。宿屋には、彼らの泊まる所がなかったから。

 

誰もが良く知っているイエス・キリストの誕生の次第です。

 

救い主はひっそりとお生まれになりました。全ての人がそれとわかる形でお生まれになったのではありませんでした。

 

この方の2000年前の最初の誕生日は、今のように、多くの人に慕われ、祝われているようなものではありませんでした。

 

救い主にふさわしい王宮どころか、素泊まりの木賃宿にさえ居場所はなく、家畜小屋の飼い葉桶の中に寝かされたのです。

 

それは、この世界にはこの方の居場所がどこにもなかったということです。

 

このような物語を聴く時、私たちは、これまでも憐みの心を掻き立てらてまいりました。

 

たとえば、教会や、ミッションスクール、キリスト教幼稚園や、保育園で演じられるページェントと呼ばれるイエス・キリストの降誕劇を毎年毎年見ながら、「だめ、だめ、もう満員だから」とヨセフとマリアの夫妻を門前払いにする宿屋の主人やおかみの姿を見ながら、その人たちに、共感する者は、ほとんどいないでしょう。

 

臨月の妻を抱えた夫婦に宿を提供できない、生まれてしまった子供に、その夫婦が飼葉桶しか用意できなかったという人間社会に対して、憤りすら感じてきたかもしれません。

 

同時に、自分ならば、そんな残酷なことはしない、自分はもう少しましだとどこかで安堵を感じて来たかもしれません。

 

けれども、こうして、クリスマスイブの夕べの礼拝を皆さんと共に、今年も、お捧げできることを喜びながら、「ああ、今年は無事に、この日を迎えられた」と思う心は、掘り下げて考えるならば、あの門前払いを食らわせた宿屋の主人たちの心と、本当は、それほど違わないのではないか?と、思わずにはおれません。

 

なぜなら、聖書の語る通りであるならば、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」のは、3節、皇帝の命令に従った、全領土の住民登録をするために、人々は皆、各々の先祖の土地を目指していたからです。

 

ローマ帝国の税収アップのための大がかりな住民登録、帝国の領土に住む者全員が本籍地に赴き、登録をしなければなりませんでした。

 

まるで、自然災害のような、降って湧いた命令を実行するために、誰もが、てんやわんやになっていたのです。

 

この3年間、コロナの流行への対処に追われ、誰も彼もが疲れ果てました。

 

疲れ果てて、職場を辞めた人、仕事を変えた人、いわゆる、燃え尽き症候群のようになってしまった人が、私の知り合いでも何人もいます。

 

ある人が、どうしてコロナ下で、こんなに燃え尽き症候群になってしまう人が多いのか?と問うていました。

 

実感としては、大きな自然災害に見舞われた地域で起こる燃え尽き症候群よりも、コロナ禍の方が、じわじわと、その割合が増えていると感じてさえいると言っていました。

 

そしてそれは、この困難が、地域的なものではなく、全世界を巻き込んだものであるからだと、結論付けました。誰もが、被災者であるからだと、分析していました。

 

なるほどと思いました。

 

日本全国、全世界、同じように、追い詰められているから、外からの助けを見込めないのです。

 

疲れて、潰れそうになったら、災害の起こった現場を一時離れて、リフレッシュして帰って来るなんてことができないから、燃えつきてしまう、潰れてしまう。なるほどと思いました。

 

それは、教会も同じでした。

 

教会だけは治外法権というわけにはまいりませんでした。

 

これまでも、様々な集会を取りやめなければなりませんでした。様々な制限をお願いしなければなりませんでした。

 

今年、この聖書の言葉を読みながら、私たちのこの3年間は、主イエスがお生まれになった時に、少し似ていると思わされました。

 

皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出ていたのです。

 

人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立たなければならなかったのです。

 

それだから、それぞれの町は、旅人でごった返していたのです。

 

それぞれの町の宿のキャパシティーを軽く超えてていたというのは、想像に難くありません。

 

それどころか、これは今まで私も思いつかなかったことですが、考えてみれば、宿屋の主人も、おかみも、従業員も皆、この勅令の対象なのです。

 

ただでさえ、町の宿屋の定員を超える人々が集まって来ているのに、自分たちも、先祖の町で住民登録をしなければなりませんでした。

 

宿に勤める住み込みの丁稚(でっち)も、通いの賄い婦(まかないふ)も、一人の例外もなく、先祖の町まで旅をし、登録をしなければならないのです。

 

聖書には、マリア、ヨセフ夫妻と宿屋とのやり取りというのは、記されておりません。

 

しかし、ページェントの台本が、想像をたくましくして、この身重の妻を抱えた若い夫婦が、何件もの宿屋から門前払いを食らわされたと、常に考えていることは、それほど、事実から外れていなかったろうと思います。

 

今、全世界、全人類が平等に巻き込まれたコロナ禍という災害の日々を経験している私たちだから、よくわかります。

 

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」という出来事は、必ずしも、人間の薄情さや、共感の乏しさを語る言葉であるばかりではないのではないか?

 

本当はこの家族をお泊めしたかった。できることなら、泊まってもらいたかった。

 

けれども、事情がそれを許さなかった。親切心の問題ではなく、物理的にそれが適わなかったということでもあるのではないかと、想像することが許されると私は思うのです。

 

泊めたくても、泊められない。受け入れたくても、受け入れられない。

 

そういうことであったのではないか?

 

どうして、主イエスの家族をお泊めしなかったのか?どうして、臨月を迎えている女性を、家畜小屋に追いやったのか?

 

その根性を入れ替えることが悔い改めであり、信仰であるかのように、私たちは思い込んでいるところがありますが、それは、違うのかもしれません。

 

むしろ、私たち人間の本当の悲しさ、本当のやるせなさ、聖書が語るどうしようもない罪というのは、マリアとヨセフを泊めたくても、泊めることができない、為すべきことが分かっていても、どうしてもできないところにあるのではないかと思わされます。

 

そうであるならば、ここにいる私たちもまた、いいえ、教会さえもまた、この神の選ばれた家族に、主イエスの家族に、泊まる場所、その居場所を差し出すことができない悲しさ、やるせなさを知っているのではないか、その無力と無縁ではないのではないかと思わされます。

 

そうです。問題は、心根ではなく、私たちの無力であります。

 

クリスマス物語は、私たち人間が、憐みを拒否する者であることを暴露するものではなく、むしろ、それ以上に、私たち自身が無力で、助けを必要としている者であることを、示すところに本領があるのではないかと思うのです。

 

主イエスをお迎えできるような客間を持たないのです。

 

私たちは、散らかり放題の部屋のことを、自虐的に、豚小屋と表現することがありますが、私たちの世界が、主イエスをお迎えする客間を持たず、そのために、この方が、飼葉桶の中にお生まれにならなければならなかったということは、むしろ、この方が、まさに救い主であられるということを物語っているのではないでしょうか?

 

この方のために、宿屋を用意することができず、この方の居場所を用意できず、このお方が、飼い葉桶の中に寝かされたというこの事実は、このお方が、そんな私たちの貧しさの内にやって来られた事実そのものであるのではないでしょうか?

 

聖書は語ります。主イエスというお方は、仕えられるためではなく、仕えるためにやって来られたと。

 

今日、私たちは、この金沢元町教会の礼拝堂に集まり、クリスマスを祝う礼拝をしております。

 

クリスマスとは、クライストミサ、すなわち、キリスト礼拝です。

 

礼拝とは何でしょうか?

 

神を拝むことです。キリストを神として拝むことです。

 

しかし、この礼拝という言葉、さらに言いますと、英語でもドイツ語でも、サーヴィス、奉仕を表す言葉で表現されます。

 

礼拝とは奉仕です。キリスト奉仕です。

 

このキリスト奉仕、もちろん、そこには、私たちがこのお方を礼拝し、賛美を捧げることにより、このお方に奉仕するというニュアンスが含まれています。

 

けれども、ある人は言います。

 

この神奉仕、キリスト奉仕とも呼ばれる礼拝、それは、本当のことを言えば、私たちの神への奉仕である前に、実は、神ご自身の奉仕、神がキリストにおいて私たちに捧げてくださった奉仕が最初にあることを決して忘れてはならないと。

 

そしてこのような神の奉仕がいつでも先にあるがゆえに、このお方を、この世界に、この人生に、私たちのスケジュールに迎え入れる余裕が少しもない時も、そのお方をお迎えする余裕の少しもない私たちであったとしても、私たちが、この方と共にあることを止めてしまうことはあり得ないのです。

 

それゆえ、申します。

 

今ここで、私たちが捧げているこの礼拝とは、あの最初のクリスマスと同じように、やっぱり、キリストが私たちの元に来てくださった礼拝なのです。

 

つまり、今、私たちがここで過ごす一時(ひととき)は、私たちの貧しさに、余裕のなさに、このお方をお迎えすることのできない荒れ放題の私たちの日々に、今、このお方が、やって来られ、共にいてくださるということでしかないのです。

 

そしてそれは、この礼拝の終了と共に、消えてなくなってしまうものではありません。

 

今日、ここに集められたお一人お一人が、帰っていくその毎日の中に、この救い主は伴われるのです。

 

このお方のお名前は、インマヌエルとも呼ばれています。

 

その意味は、「神は私たちと共にいます。」ということです。

 

そのお名前の通り、このお方は、私たちをしっかりと捕らえ、もう放すことはありません。

 

どんなに暗く、荒れ果てた場所にも、イエス・キリストは、伴われます。

 

それゆえ、今、私たちは願います。

 

私たちの家畜小屋に来られた主よ、この私たちの救い主、私たちの神よ、あなたは、私たちの居間も、客間も、仕事部屋も、子ども部屋も、あなたこそ支配するにふさわしいお方、どこにあっても、何が起きても、あなたが共にいてくださることが、私たちの力であり、喜びです。

 

祈ります。

 

御子イエス・キリストをこの世に、私たちの元に遣わしてくださった父なる神様、この御子のゆえに、私たちはどこにあっても、孤独ではありません。ここから遣わされていく先がどのような場所であっても、御子と共に、歩んでまいります。生きる時も、死ぬ時も、光の中でも、暗闇の中でも、この御子のものとされた私たちとして、安心して歩ませてくださいますように。この祈りを主イエス・キリストのお名前によって祈ります。

 

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