週報
説 教 題 ポンテオ・ピラトのもとに
大澤正芳牧師
聖書個所 ヨハネによる福音書19章1節~18節
讃 美 歌 136(54年版)
今日は、年に一度の召天者記念礼拝の日です。この教会の教会員であった故人、それだけでなく野田山の教会墓地に納められている教会員の親族であった故人を覚えながら、捧げる礼拝です。
しかし、私たちがここでしていることは、死者を拝むことではなく、主イエス・キリストの父なる神を拝むことです。私たちはその恵みに圧倒されて、その方をほめたたえ、賛美と感謝を捧げます。
私たちの神礼拝によって、故人の冥福を祈るというのでもありません。故人をイエス・キリストの父なる神に委ねた者は、愛する者の冥福を祈る必要はありません。そういうことは、少しも問題にはならないのです。私たちは、ただただ故人と、私たちに注がれている主なる神の愛に圧倒されて、賛美と感謝を捧げるために、今日ここに集められているのです。
なぜならば、今は故人となった私たちの愛する者達の祝福を、死をも超えて、願っておられるのは、イエス・キリストの父なる神ご自身だからです。
聖書の中で主なる神は、しばしばご自分のことを「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とご紹介されます。アブラハム、イサク、ヤコブという名を持った人間たちが、死んで葬られた後、何百年、何千年経っても、主なる神は、聖書の中で、ご自分を、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とご紹介されます。ほんの一瞬の存在に過ぎないこれら人間の名を神は決してお忘れにならない。世界の歴史が続くかぎり、ご自分の名前が、彼らの名前と、結びつけられて呼ばれることを、神はお求めになられます。
いいえ、神は彼らの名を歴史の続くかぎり、忘れないと言うだけではありません。主イエス・キリストというお方はある時、神が「アブラハム、イサク、ヤコブの神」とご自分の名を呼ばせるのは、今も彼らの神だからだと仰いました。神は今もなお、その者たちを滅びから守っておられる。神の支えのゆえに、彼らはなお、神の御前に生きているのだと、主イエスは仰たのです。
今日、私たちをこの礼拝に招き、この私たちの礼拝を求められるこの神の思いを、私たちの理解しやすい言葉で言い直すならば、「神が私たちをお見捨てになることは絶対にない」ということだと言って良いでしょう。神は私たちを手放すことを決してなさらない。死の力も、この方の御手から、私たちのことをもぎ取ることはできない。
「アブラハム、イサク、ヤコブ」の名をもって呼ばれることをお求めになるこのお方は、今日みなさんのお手元に配られている金沢元町教会逝去者名簿に記された一人一人の名を、持って呼ばれることをも求めておられるのです。
神は仰います。「わたしは、伸、竹次郎、春子、すなを、達郎、陽一、徹行、幸子の神である。」本当は、今ここで、最初と最後だけではなく、名簿の名前を全部、そして今日、ここにお集まりの方全員のお名前をお呼びしたいのです。この神の自己紹介には、ここに記された82名の名が刻まれていますし、金沢元町教会135年の歴史において、本当は、まだまだ大勢いる逝去者たち、そしてまた、今しばらく地上の歩みを続けていく私たちの名前も既に、刻み込まれているのです。
私たちキリスト教会の信仰を最も短い言葉で言い表すとどうなるのか?ある牧師は言いました。それは「インマヌエル」の6文字だと。インマヌエルとは、聖書の中に出てくる言葉です。その意味は、「神は私たちと共におられる」です。その牧師は、これをお題目のように毎日毎日、どこにあっても唱えることを提唱します。さらに、そこに「アーメン」と付しても良いとアドバイスします。アーメンとは、「これは本当のことです。」という意味の聖書の言葉です。「インマヌエル・アーメン」、「神は私たちと共にいます。これは、本当のことです。」これがキリスト教会の信仰だと言います。私もそう思います。
今日は、ぜひ、このことを心に刻んで頂きたいと思います。これまでも、これからも、生きる時も、死ぬ時も、インマヌエル・アーメン、これだけです。神が私たちを今日この礼拝に招かれるのは、このことを告げたいからです。このことを知ってほしいからです。いついかなる時にも神が共におられることを知って、私たちが安心して、私たちが喜んで生きることを欲してくださるのです。
20世紀最大の神学者にカール・バルトと言う人がいます。私たち日本人にとって大変興味深いことに、その著書の中で、この聖書の語るインマヌエルのメッセージは、驚くほど、日本の浄土真宗に似ているということを指摘しています。なぜ、ヨーロッパの神学者であるバルトが、このことに気付いたのか?仏教の研究書と共に、おそらく彼の下で学んだ、滝沢克己という日本人によっても教えられたのだと思います。滝沢は、この金沢に親しい西田幾多郎の哲学を学び、西田の推薦によって、神学者バルトの下で学んだ人です。西田とバルトから学んだ滝沢は、「神は、私たちと共にいます」という信仰において、両者は、完全に一致できると考え、独特な宗教哲学を探求しました。
けれども、バルトという神学者は決してそれを手放しでは認めませんでした。両者には決定的な違いがあると、30年に渡る文通の中で弟子の滝沢に根気よく語り続けました。その要点は、聖書におけるインマヌエルとは、美しい思想でも何でもない。世界の宗教者たちが、考えを深めて行けば、同じような結論に至る慰め深い宗教思想の頂点でも何でもない。
私たちキリスト者がこのことを信じるのは、深く深く掘り下げて考えて行ったからではなく、非常に単純な理由による。イエス・キリスト、このお方が、この私たちの生きる地上に、世界の歴史に、おいでになることによって、現実になったと神より告げられ、知らされたからだと言います。
難しいことではありません。むしろ、余りにも素朴過ぎて、私たちを戸惑わせるほどのことです。イエス・キリストという一人の人間。2021年11月21日という今日という日をさかのぼって辿り着くことのできる日付を持った過去、この金沢市元町から苦痛手段を駆使して辿り着くことのできるユダヤの地、そこで生まれ、そこに生きたイエス・キリストという一人の歴史上の人間が、私たちと共におられるようになった神だと、教会は神より告げられたと信じているから、インマヌエルを語るのです。
今日も告白しました使徒信条の言葉、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」という言葉があります。こんな短い信仰告白の言葉の中に、ローマ時代に生きた役人の名前を入れることは、余計なように思われます。こんな過去の歴史の人物の名前ではなく、永遠不変の真理を語ることにこそ、言葉を費やした方が良いと思うかもしれません。
けれども、この歴史のイエスを十字架につけることを許可したローマ帝国の役人の名が決定的に重要なのです。なぜならば、ピラトの名は、神が私たちと共におられるということは、単なる美しい思想ではなく、歴史の事実となったということを証言しているからです。
「いついかなる時も神さまは私たちと共にいる。生きている時も、死ぬ時も、神さまは私たちと見捨てず、共にいてくださる。」慰め深い言葉です。多くの人が、聴いて嬉しい言葉であると思います。この言葉に励まされて、苦しい時、悲しい時、乗り越えることができそうだという人もあるでしょう。しかし、私たちは、こう問うでしょう。「それは本当か?この甘い言葉、慰め深い言葉は、本当か?ただの言葉ではないのか?人間のただの願望ではないのか?私たちの夢でしかないのではないか?」
いいえ、ピラトという聖書外にも名前を見出すことのできるローマの役人の時代に、神はこの地上を、体をもって、私たち人間の本当の近くに歩まれたのです。イエス・キリストを見るならば、神が私たちと共におられるということが、本当かどうか疑う必要はありません。神は見ることのできる方、この手に触れることのできるお方として来てくださったのです。
けれども、不思議なことに、聖書は、この神の近さは、その当時の人間にとって、必ずしも喜ばしいことではなかったと言います。聖書の証しするところによると、私たち人間は、このことをまったく願わなかったのであります。神が私たちと共におられること、神が、イエス・キリストという歴史上の一人の人となって、私たち人間の兄弟となって、私たちと共におられること、神がそれほどまで、私たちのそば近くに共におられるお方であることを、喜ばなかったのです。
これは、おもしろいことです。一人の哲学者、宗教者、神学者が、人間の宗教心、宗教性を突き詰めて行けば、「神は私たちとと共にいます」という信仰に着地すると考えましたが、むしろ、聖書はそれとは真逆のことを語ります。私たちは本能的にそれを望まないと。
今日ともにお読みしたヨハネによる福音書の語るところに従えば、この神の近さが現実になる時には、神を殺してでも、私たちは、キリストから逃げ出そうとする人間なのです。
このことをゆっくりお話しする時間は今日はありません。しかし、聖書に書かれていることは、人間の宗教性の美しい結晶化の一つであるとか、ネガティブに言えば、人間の願望の投影であるというのは、どうも、聖書の内容自身にはそぐわない考えのように思います。むしろ、人となったキリストにおけるインマヌエルはたいへん都合が悪いのです。私たちの宗教的本能を逆なでするものですらあるのです。
キリストに出会った者は、躓きました。律法学者、ファリサイ派と呼ばれる当時の最高の、信仰深い人たちもまた、躓きました。いいえ、キリストご自身が召し出された12弟子ですら躓きました。それは、根本的には、現代に生きる私たちが、このお方に躓くときと同じ仕方で躓いたのです。余りにも、神が近くに来過ぎたのです。私たちが望まないほどに、どんな信仰深い者であっても、決して望まないほどに、神が近くに来られてしまったからです。
もしも、聖書が、ポンテオ・ピラトの下に十字架刑に処された方を神として語らず、ただひたすら、美しい宗教思想として「神さまは私たちと共におられる」とだけ語っていたら、もっと多くの人が共感するかもしれないと私は思います。神がその独り子をこの地上に送らなければ、御子が父と共に、永遠に天におられたならば、躓きはずっと少なかったと思います。「それは本当か?」と問われる時も、地上を離れて、天のことを考えているだけでいいならば、かえって、信じられやすかったと思います。
けれども、その独り子が、この地上の、この歴史、ピラトという一点を指さすことのできるこの世界史の中に、来られてしまったために、聖書の使信は、信じがたい、躓きの多いものとなってしまいました。主イエスがこの地上に来られた2000年前の人々にとっても、また、私たちにとっても。
なぜ、神は、こんなことをされるのか?なぜ、躓きを大きいものにされるのか?答えは単純です。主なる神は、我慢ができなかったのです。私たちが神との遠さに生き、神との遠さの内に、死んでいくことが我慢ならなかったからです。神は一体どこにいるのかと嘆く人間、神はわたしを見捨てたと神を呪う人間、この世に神などいないと黙る人間、しかし、また、この驚くべき神の近さのゆえに、神を神として、認めることのできない人間、いいえ、本当に神がそばに来られるなら、神から逃げ出そうとする人間、その神の近さが邪魔になり、十字架につけて殺そうとする人間、主なる神は、この人間が、神との遠さの内に生き、死んでいくことに耐えられなかったのです。
私たちが信じるとか、信じないとか、私たちが喜ぶとか、喜ばないとか、私たちが慰められるとか、慰められないとか、そういう話ではありません。イエス・キリストの歴史において、人間と共におられることを願われる神は事実、人間のそばに、私たちのそばに、とんでもない近さに、現に、おられるようになったのです。
この神を遠ざけよう遠ざけようとする力の限りの努力は私たち人間の先祖たちによってなされたことは、今日の個所も含めて福音書の語る通りです。けれども、この方を遠ざけよう遠ざけようとするあらゆる努力は、11節の「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もない」という主イエスの御言葉通り、ただ一層、「あなた達と共にいたい」神の御意志を成就させるためにしか、働くことがなかったのです。主イエスにおける神から遠ざかろうとする人間の最大の努力、最大の罪深い行い、イエス・キリストを十字架につける私たち人間の恥知らずな行為は、いよいよ神から全力で遠ざかろうとする罪人に、神を近づけるように働いてしまう他なかったのです。
キリストが十字架につけられた時、ほかの二人の犯罪人が、右と左に十字架にかけられました。ヨハネもまた、今日の18節で語る出来事です。ある人は言います。ここに世界最初の教会がある。それゆえ、インマヌエル・アーメン。「神は私たちと共におられる。これは本当のことだ。」とは、もっと正確に言うならば、「神は私たち罪人と共におられる。これは本当のことだ。」ということになります。
あらゆる人間を指して、「罪人」と語る教会の言葉は、たいへん不評なものでありますが、本当はこんなにもありがたい言葉はないと私は思います。それは、神さまは私たちがどんな者であっても、私たちを捨てないという事実を表現していることでしかないからです。あの十字架の事実、神が神を求めない私たち全ての者と共におられる神であられる事実を告げる言葉でしかありません。
そうであるならば、今日、この時、この言葉を聴いた者は、ただちに、何の留保もなく、次のように神の名を呼び始めることがゆるされています。「アブラハム、イサク、ヤコブと同じように、地上を去った私の愛する父、母、祖父、祖母、兄弟、姉妹、夫、妻、子、孫の神、そして、この私の神、いついかなる時も私たちと共におられる神」。
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