週報
説 教 題 「わたしについてきなさい」 八田郁子長老
聖書個所 マタイによる福音書4章18節から22節
讃 美 歌 294(54年版)
私が、礼拝の中でお話をする日がこようとは、考えてもみませんでした。
毎日、聖書を読むことも続かず、通読しようとしても挫折するような者ですから、み言葉に対する読みも浅く、つたない者です。しかし、神様からあたえられたこの時、みなさまと共にみ言葉を考えていこうと思います。
聖書箇所をどう選ぶか迷った時、福音書を始めから読み進め、教会に集う者として神様に従うとはどういうことかと考えてみようと思いました。
神の子イエスさまのことは、皆さまもよくよくご存知ですが、イエスさまは、この世ではヨセフを父親とし母親をマリヤとして生まれ、ヨセフの職業である大工の手伝いをしながら育ち、30歳のころと言われていますが、洗礼者ヨハネより、洗礼を受けられました。その後、悪魔の誘惑を受けられましたが打ち勝ち、ガリラヤで伝道を始められました。そして、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられた時、この聖書の箇所、2人の兄弟ペトロと呼ばれるシモンとアンデレと出会われ、しばらく進み、ヤコブとヨハネに出会われたのです。この話は他の福音書、マルコ1章とルカ5章にも記されていますが、今日はマタイによる福音書で考えたいと思います。
4人は漁師でした。まず、最初にペトロとアンデレが湖で網をうっていた時イエスさまが声をかけられたのです。「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしよう」。
ペトロ、アンデレ達にとって突然の出来事です。何が起きたのか、知らないこの人は何を言っているのだと驚いたことでしょう。当時の漁師は貧困層から中間層まで幅広い方がいたそうです。その様な中でぺトロとアンデレはそんなに豊かな家ではなかったようです。この箇所の後半にでてくるヤコブとヨハネは雇人たちを使うほどの人達だったようです。イエス様が声をかけられたのは、一定の家柄の人たちではなく、貧しい人、豊かな人、様々な人々だったのです。
4人は、初めて見る人であるイエスさまから突然「わたしについてきなさい」と声をかけられ、それぞれどんなに驚いたでしょうか。貧しい二人は知識、教養もあまりなく、イエスさまの言っていることが、すぐにどのようなことか、理解できたでしょうか。漁師達はイエス様の身なりをみて、声、言葉を聞いて一瞬、どう思ったでしょうか。もし、私なら、初めての人、事柄にはとても警戒し、言われていることを先ずは、疑いをもって見るでしょう。とてもすぐにイエスさまの言葉を信じることはできないでしょう。そしてついて行くなどとんでもないことです。たとえば、社会問題になっているオレオレ詐欺。被害を受けないようにするためには、先ずは疑ってみよ。何事にも、確認相談し、間違いがなければ受け入れていいよ、という社会です。子どもたちにも知らない人に付いていってはいけないと教えます。
しかし、この聖書の箇所は「すぐに網をすてて従った」とあります。全てを捨てて従ったのです。4人は自分の漁師としての仕事、家族、いままでの日常をすべて一瞬の判断で捨て去ったのでしょうか。一人ひとり少しでも葛藤はなかったのでしょうか。貧しいペトロとアンデレは少しでも豊になるなら、という思いがあったかもしれません。しかし、豊かなヤコブとヨハネはどうだったのでしょう。迷わなかったのでしょうか。もちろん、2000年前と現代とでは何事も違いは大きいです。しかし、人生を変えるような出来事ということでは同じでしょう。
私はこの箇所を読んでいて、イエスさまには他の人間には無い、魅力が4人をとらえたのではないかと思いました。私の想像するところ、静かな雰囲気、でも明るく、そこに立っているだけでも安心して側にいられるような雰囲気。そして、貧しい漁師にも目を留めて「わたしについてきなさい」との言葉。何より、聖霊の働きがあったのでしょう。出会いは人生を変え、今までの生き方ではなく、主イエスに従って正しい生き方をしようという気持ちになったのではないかと思いました。
私たち教会に集う人々はどのようにして神様に出会ったのでしょうか。
家族、親が教会に行っていた、学校がキリスト教関係でありそこでの人間関係で導かれた、歩いていて教会があった、読んだ本、小説で興味をもったなど、一人ひとりきっかけが違ったとしても、教会へ出掛け、神様と出会ったのは自分の力でしょうか。きっかけがどのようであったとしても、この金沢元町教会に今いるのは自分の選びの結果のみでしょうか。私は中学が北陸学院でした。高校の時洗礼を受けそれからの歩の中で教会から離れることなくいられるのは、生活環境が恵まれていたからと思うのですが、それは自分の力でそうしてきたわけではないように思います。私はキリスト者の夫が与えられました。夫とともに教会員でしたから家庭の中心に教会がありました。教会が家の中心にあるからといって良い時だけではありません。教会のことでケンカをしたこともありました。教会なんかと思ったこともありました。けれども、夫が亡くなった時、神様は教会の方々を通して、励まし、辛くて祈ることもできなかったとき、教会の方々が代わりに祈ってくださいました。神様は教会からはなれることが無いよう教会の方々を通して常にとらえてくださっていたように思います。
教会には、時代によって自分の思いと違っていることが起きたり、あの人がこう言った、こうだったなど教会であっても、社会の縮図としての問題が起きてしまいますが、やはり、共に祈ることができ、共に教会への思いを語り合う人がいてくださったことで歩を進めることができたように思います。ずっと神様に手を引いていただき、教会から離れずにこれたのです。神様は相手がどのような人間かによって差別される方ではありません。
たとえ罪人であっても、誰でも、聴き従おうとする人を招き、とらえていてくださるのではないでしょうか。神様は私たちに一人一人に合った出会いの時を与えてくださって、その人に合った教会とのつながりを与えてくださっているのではないでしょうか。神様と出会い、教会生活をしていても、何らかの事情や思いで教会から離れてしまう人もいらっしゃいますが、その方たちも神様の手の中にあり、いつの日か神様への思いが溢れてくるのではないかと思います。神様はどの人のことも忘れず手の中においてくださると思います。
では、私たちにとってイエスさまに従う生き方とはどういう生き方でしょうか?
加藤常昭牧師は、著書『教会に生きる祈り』の中で、『罪に気づき、罪を許すことを求めること。』がキリスト者の生き方であると、書いていらっしゃいます。
人は歩の中で良い時もあれば、悪い時もありますが、その波のような出来事、時の流れの中で人に対して様々な感情をいだきます。社会生活の中で思わず人に対して強い言葉を言ってしまったとき、しまったと思いながらも謝れない自分。人の言うことが何か違っていると思っていても意見を言わない自分。人に言われたことで自分が傷つき嫌な思いをすると、ずっとその相手を嫌いになってしまう自分。などなど、人と接し活動する中で様々な思いをいだき、時には憎しみともいえる感情をいだきます。それが罪ということではないでしょうか。一時反省しても、また思いはわいてきて、自分に対しても、相手に対しても嫌な思い、憎しみは繰り返し生まれてきます。
人は本当に弱く、洗礼を受けた者であっても罪を繰り返し犯してしまいます。しかし、キリスト者として生きるということは、罪をもう犯さない、罪と無関係に生きられるということではなく、罪を常に犯してしまう自分を自覚し、罪深い者だということに気づくこと。またその罪をイエスさまによってゆるされた者として、お互いの罪を赦し合って生きられるように、神さまの助けを祈り求めることだと、加藤先生は語っておられるのではないでしょうか。教会の中で、自分と隣人の罪に気づいても、避難したり、がっかりしなくてもよく、神様から『赦し合うという恵み』が与えられているのです。
今日の聖書箇所にでてきたペトロ、すべてを捨てて素直にそして大胆にイエスさまに従ったはずのペトロにも様々な出来事が起きてきます。
以前、大澤正芳先生より、説教の中で紹介された本で塩谷直也牧師の書かれた「迷っているけど着くはずだ」を読みました。塩谷直也牧師は東京神学大学卒業後、日本基督教団中京教会で副牧師、梅ケ丘教会の牧師をなさったあと、現在青山学院大学の法学部教授です。これは、梅ヶ丘教会牧師時代に書かれた本です。その中にペトロについて書かれた印象深い箇所がありました。ここでイエスさまについて行ったペトロはイエス様と出会った頃すでに結婚をしていました。落ち着いた生活があったわけです。それをすて、イエスさまに従ったのです。そして、イエス様の弟子として常に代表としてイエスさまの問いに答えたりと、いろいろな所に名前がでてくるような働きをしていくのです。しかし良い行いとしての働きを評価されるだけではなく、聖書はイエスさまを知らないと3度言い、自分が捉えられるかもしれないという恐怖からか、イエスさまを裏切っています。自分を守ろうとする、今までのことに気持ちが残っている、不安を表す、ペトロがいるというのです。ペトロはすぐ、後ろを振り向いてぐちをいうのです。振り向くペトロに後ろを顧みる者は神の国にふさわしくないとイエスさまはおっしゃいます。
『振り向く』というのはイエス様の仕事なのだと塩谷牧師はいいます。イエスさまを慕ってはいるものの、裏切ったり、後ろばかり見てしまうペトロに「あなたはわたしに従いなさい」といわれるのです。何度でも私を見ていなさいと招いてくださったのです。
のちに、ペトロはペトロの手紙一5章7節で「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」と言っています。ペトロは、繰り返し失敗してしまう者ですが、イエスさまの絶えることのない繰り返される招き、「わたしについてきなさい」という言葉を、真っすぐにとらえ、信じることにより、思い煩いを全て神にゆだね、伝える者となったのです。
私たちも、後ろを顧みて、「あの時こうだった、」「あの人がこういった」「こうだったらよかったのに」など後悔したりぐちを言ったりして、同じ所に立ち止まり先に進もうとしないことが、多いのではないでしょうか。特にこのコロナ禍にあって、私自身もいろいろなことが不自由となり、人間関係がギクシャクすることもありました。なかなかゆっくり話をし心を開いて思いを伝え合うことができなくなっているからだと思っています。このような時にこそ、キリスト者として改めて、自分自身に気づいて自分の罪のゆるしを求め、また人の罪をゆるそうと思う気持ちになることこそが、イエスさまに従って生きることなのではないでしょうか。
ただ、人は簡単に人のことをゆるせる者ではありません。「ゆるせる思いをください」と、神さまに祈り求めること、その『赦し合うという恵み』を知ることによりキリスト者としての歩を進めることができるのではないでしょうか。
イエスさまに招いて頂いたペトロ、アンデレ、ヤコブ、シモンという弟子たちのように、素直にイエスさまの招きに従い、生涯かけて神様にすべてをゆだね生きていくことを神様は喜んでくださるように思います。イエス様は私たちにも「わたしについてきなさい」と常におっしゃっているように思います。その声は人の一生の間、何度でも、繰り返し「わたしについてきなさい」とおっしゃっています。私たちはその声に気が付いているでしょうか。その声は、聖書を通して、牧師を通して、教会の友を通して、家族、友人を通して私たちに届けられているように思います。
先程紹介した本の塩谷直也牧師はあとがきにこう書いています。
少し長いですが、お読みします。
「擦りむいた傷口はかさぶたができるまでひりひりします。そのひりひりした傷を
自分でいじったり、ましてや他人にむやみに触らせたりはしないものです。ただ、信頼できるお医者さんだけには触らせます。治してくれる医者だけが私の傷口を触ることができます。心に残った傷も似ています。その傷が深ければ深いほど自分も触れたくないし、もちろん他人にも触れてもらいたくないもの。ただ、医者には触れていただきます。その医者こそ私にとってイエス・キリスト。そのイエスに病んだ私が往診していただく道のりを診療の具合をこの本に書いて見ました。当然診療には痛みが伴うもので、その痛みに耐えられず何度も逃げようと試みました。」と、あります。
繰り返しになりますが、私は生活していく中で、教会生活の中で、自分を見つめる時、時には迷い、悲しみ、怒りなどを感じたり、教会といえども、誤解や苦しみさえ感じ、祈ることすらできなくなる時があります。けれども今、ペトロ達、漁師が声をかけられた時のように、素直にイエス様の声を聞けるよう耳をすましていたいという思いがこみ上げてきています。人生において苦しくて祈ることすらできないとき、私自身の代わりに祈ってくださる牧師夫妻と教会員のみなさまがいてくださることを安心感と共に、喜びをも感じます。自分自身の罪に向き合うようにと招かれるイエスさまは、この教会においても、私たちと出会ってくださり、私たちを癒そうと触れてくださいます。イエスさまの方から来てくださっているのです。
イエスさまの声が聴こえるよう耳をすまし、素直な心で「わたしについてきなさい」という言葉を受け入れ、これからも教会の皆様と共に歩んでいきたいと思っています。
お祈りをいたします。
恵み深いイエスキリストの父なる神様
あなたは、自分の価値観で歩む私たちに、イエスさまに従うよう常に声をかけてくださっています。その声を聴き逃すことなく歩む私たちでありますように。日々の忙しさの中で心乱すことが多い私たちですが、神様がよろこばれることは何か求めていくことができますように導いてください。
私たちの主イエスキリストのみ名によって祈ります。アーメン
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