週報
説 教 題 「しかし、勇気を出しなさい」
聖書個所 ヨハネによる福音書16章33節
讃 美 歌 112(54年版)
クリスマスおめでとうございます。この世界に来てくださった私たちの救い主、イエス・キリストのご降誕を覚え、この年も、皆さんと共にクリスマスを祝うことができますことを神様に感謝いたします。ここにお集まりの方だけでなく、ユーチューブで、この説教をお聞きの皆さんとも、クリスマスの礼拝を共に捧げたいと思います。時間は変わりますが、ホームページで、また手紙で、この説教を読み、聞いている方とも、クリスマスの喜びを共に分かち合いたいと願っています。
今日は、いつものコリントの信徒への手紙Ⅱから離れて、万感の思いを込めて、今年度の元町教会の年主題聖句を今日の祝いの日、私たちが聴くべき神の言葉として選ばせていただきました。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
今、本当に私たちが聴くべき聖書の言葉だと、しみじみとお感じになる方も多いのではないかと思います。苦難の多い一年でしたが、私も含めて、この年主題聖句の御言葉によって、何度も何度も支えられたという方は多かったのではないかと思います。「どんな困難な中にあっても勇気を出しなさい。この私は、既に世に勝っているのだ。」と、御子は、私たちに告げます。
今年は、御言葉が私たちを支えるということがいつも以上に、実感された一年であったように思います。しかも、それはきっと洗礼を受けた者や、毎週欠かさず礼拝に出席する者だけにとどまる経験ではなかったでしょう。先日、北陸学院の教務教師の方、つまり、学校付きの牧師である方から、石川地区の牧師あてに、メールがありました。そこでこんなエピソードを紹介してくださいました。「2020年の学院聖句は、「光が闇の中に輝いている」です。学校に出入りされている旅行会社の担当者の方が、廊下にかけられたこの聖句を見上げて佇んでおられました。まさに、今、僕らに必要な言葉ですと。」
御言葉には力があります。読んだだけで人間をその前に立ち止まらせ、勇気づける御言葉があります。信仰のあるなしは関係ありません。神の言葉が神の言葉であるならば、神がお望みになるとき、人間の心に力をもって届きます。私たちの年主題聖句も同じ種類の力ある言葉だと思いました。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」闇はあるのです。苦難はあるのです。けれども、その闇のただなかに輝いている光があるのです。世の試練の中にあって、既に勝っていてくださる方がいるのです。
もちろん、この時、世に勝っているのは、私たち人間ではありません。神の一人子です。世を作られたお方が、世に勝つのです。この世とは私たち自身のことでもありますから、この方が勝ち、私たちは負けたのだとも言えます。しかし、ご自分の勝利を宣言される方は、私たち人間に「勇気を出しなさい」と仰っています。その輝き、その勝利は、この方に負ける私たちと無関係のものではないというのです。御子の勝利は、この私たちのためのもの、私たちが、試練の中にあっても、勇気を持てるようにしてくれるためのキリストの勝利だというのです。
クリスマスを祝うとは、暗闇が押し迫り、夜はどんどん深まっていくような時にも、この私たちのために、今この瞬間、輝いている光があるということを知っているということです。世にある限り、試練がなくならならなくとも、既に、この瞬間、私たちのために勝敗を決してくださった方がいることを私たちは知っているということです。今がどんなに暗く、不透明で、私たちを脅かすものであったとしても、物語の最後の1ページはもう既に書かれており、それはハッピーエンドが定まっている物語であり、だから、私たちが生きているのは、良き物語なのです。
これはキリスト者のためだけの約束ではありません。私たちはただ、最初に聞かせて頂いたのであり、その聞いた責任において、私たち教会が、世に向かって語るようにと呼び出されている神の良き知らせです。「しかし、勇気を出しなさい。キリストは、あなたのために、世に打ち勝ってくださった。あなたの光が輝いている。」
私たちは外出がしづらくなりましたが、それゆえ、教会の使命を果たせないように見えますが、こんな状況下にあっても、神の言葉はかえって、思いがけない仕方で、教会の扉を超えて出ていくようになりました。ネットや手紙によって、今年は、御言葉が世界中を駆け巡りました。それによって既に洗礼を受けたキリスト者や、日曜毎の礼拝に欠かさずに通っている者だけでなく、思いがけず多くの人が、思いがけないところで聖書の言葉に改めて出会うという経験をしやすくなりました。今日も、24日の礼拝も、音声を配信する予定になっています。これは、本当は恥ずべきことでありますが、私たち教会の思惑を超えたことであったと思います。はじめは、感染が市内にも広がり始めた頃、家庭礼拝推奨を決断し、しかし、教会員の礼拝生活を守るため、また、会堂での礼拝推奨再開後は、体調の悪い方、持病のある方、普段礼拝に来ているけれども、コロナ禍にあって、礼拝に来るのが困難になってしまっている方のために続けたことですが、思いがけず、元町教会の外の方にも、聞いて頂いています。
御言葉が教会を越えて出ていく。その行きつく先は眠れない夜の布団の中かもしれないし、洗濯物を畳んでいるリビングかもしれないし、通勤中の電車、車の中かもしれませんが、それは御言葉にふさわしいことであると思います。神の御子が来られた場所は、困難な日常の戦いの中にあって、髪を振り乱しながら生活する日常を中断して、神を礼拝するにふさわしい身なりを整えて出ていく場所ではなく、困難な日常のただなかでした。クリスマスが指し示す闇の中に輝く光、それは、ベツレヘムの家畜小屋の飼い葉桶の中にお生まれになった一人の幼子です。
人口調査をせよとのローマ皇帝アウグストゥスの命令によって、否応なく本籍地へと赴かざるを得なかった身重の妻を抱えた若い夫婦のもとに生まれた幼子です。この幼子が家畜小屋の飼い葉桶の中に生まれなければならなかったのは、皇帝の無茶な命令によって、世界に散っていた者たちが、もはや、親戚もいないような先祖の土地に戻らなければならなかったからです。自分の金づるとし、軍事力とするための人口調査の対象である人間に対して、この皇帝が何にも感じず、登録に来た旅人を受け入れるだけのキャパシティーを各町が備えているかどうかなどということは、一切、関心がなかったからです。そのような人を人とも思わない為政者の思惑に、振り回されて割を食ってしまう市井の夫婦のもとに、神の御子はお生まれになりました。その幼子のことを、神は光であると私たちに指し示されます。
いつでもどんな時でも、子供が無事に生まれてきたということは、一条の光であるということは間違いがないことだと思います。この1年の間にも、新しい夫婦の誕生や、新しい命の誕生の出来事が、この教会においてもいくつかありました。礼拝に集まることや集まる時間を制限したり、コンサートを中止したり、苦渋の決断の連続の中にあっても、二組の夫婦の誕生と、二人の幼子の誕生の知らせは、私たちの心を温めてくれた出来事となりました。その若い夫婦がまた礼拝を訪れること、その生まれた子たちが、ここに連れて来られることを私たちは待ち遠しく思っています。この死に取り囲まれたような世界の現実の中で、確実に灯った命の光は、小さくささやかだけれども、暗闇の中にも、どんな圧迫と制限下にあっても、人間の命は、闇をかいくぐって続いていくという命のしたたかさ、たくましさ、そして未来をあきらめない人間の姿を象徴する光であるように思います。
かつて神の民がエジプトの奴隷であった時、生まれてくる女の子だけ生かし、男の子は殺さなければならないとの王の命令が助産婦に対して出た時、それでも、神の民の数は男も女も増していった。この闇の命令をかいくぐって生まれ、育った男の子が、解放者モーセであったと聖書は告げます。助産婦たちは、いらだつエジプト王に、「ヘブライ人の女はエジプト人の女性とは違います。彼女たちは丈夫で、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」と申しました。王の命令であっても、生きよう、生まれようとする命の歩みを止めることはできないのです。そして神はそのことを喜ばれます。
けれども、新しい命の誕生は、人間のたくましさ、未来を諦めない心を力強く物語っていると思いますが、人間を取り囲む闇と、死への、決定的な治療薬であったり、確実なワクチンであると言うことはできないと思います。それはまだまだ私たちが、闇に負けない証拠ではあります。しかし、決定的な勝利のしるしでもないと思います。むしろ、小さく儚げな尊い命の光を放つ幼子の誕生は、希望の印ではありますが、現実においては、なお、一層私たちの不安を強くすることであるかもしれません。試練の闇が深ければ深いほど、この壊れやすい尊い命を、どうやって、守っていけばよいか、この幼子の未来はどうなるかと心は千々に乱れてしまうことであるかもしれません。
この一年、どの年代のどのご家庭も、それぞれに苦労を強いられたと思いますが、幼い子供を持つ家庭も、独特の苦労をされたと思います。ただ、幼稚園や、学校がお休みになり、いつも以上に仕事と子育ての両立が難しかったり、感染を恐れて、小児科を訪れるのすら憚られるというだけでなく、コロナ禍の非日常にあって、子供たちが真っ先にそのストレスを受けて、心と体のバランスを崩していくのを守らなければならない。それこそ、髪を振り乱しながらでないとできないことであると思います。主イエスがお生まれになったのは、具体的な試練は違えど、そういう状況です。こんな状況の中で、まともに子供を育てることができるのかというところにお生まれになったのです。
確かに死の闇の取り囲む世界に、命は輝きました。けれども、それは闇を振り払うほどの光であるか?闇を一層、不安で恐ろしいものにする私たちの保護を必要とする、私たちの心配事を増やす光ではないか?
今日私たちが読んでいる聖書の言葉も、この光によって、私たちを取り囲む闇が消えるとは言っていません。苦難が消える、不安がなくなるとは言っていません。そうではなくて、「あなたがたは世で苦難である」と言うのです。マリアとヨセフにとって、実際に主イエスが旅の途中でお生まれになったということは、試練の上になお試練を重ねるものとなったことは疑いありません。同じように私たちにとっても、主と共に生きていくことは、実際の困難を生じさせることでしょう。
考えてみれば、この方と一緒に生きていく必要がないならば、日曜日の礼拝をなんとか、守ろうなどと考える必要はないのです。「こんなご時世にあの人たちは、一つ所に集まっている」などと、家族や近所の人に、後ろ指さされるかもしれないリスクを取る必要なんてないのです。おとなしく家で過ごしていれば、マスクをする必要も、寒い思いをすることも、礼拝後、この場所を念入りに消毒する必要もありません。
もちろん、私たちの生活から礼拝が取り除かれることによって、苦難がすっかり取り除かれるということはありません。しかし、主イエスと共に生きる者とされたことによっても、既にある苦難に、もう一つの試練が上乗せされるということでもあるのです。
けれども、なんで好き好んでそんなリスクを負うかといえば、一つには、子供の誕生のように、最後のところでは人知を超えて、自分の思惑を超えて、神がこの方との出会いを与えてくださったからです。出会ったからには、関係を断ち切って生きるという無責任なことはもうできないからです。すなわち、神がこの教会で、この方と共に生きていくことを私たちにお命じになるならば、そうしないわけにはいかないのです。しかし、私たちが背負ううべき重荷が増えたとしても、好き好んで、キリストと共にこの教会で生きていくのは、このお方が、どんなに弱く、儚く見えても、「既に世に勝っている」、私たちのための救い主であられるからです。
しかも、幼子キリストは、はじめはどんなに弱く、儚く見えても、成長された後は、5つのパンと二匹の魚を祈りによって増やし、5000人以上もの人の胃袋を満たしたり、病の者を癒したり、悪霊憑きを正気に戻したり、嵐を沈めたり、そんな数々の奇跡を起こすお方として、隠されていた力をやがては露わにしてくださって、私たちの人生の諸問題を解決してくださるから私たちは救われるというのではありません。
そうではなくて、この方はあくまでもへりくだって弱さの中を歩むことを選び続けたのです。その幼子の貧しさの象徴たる飼い葉桶と同じ木材で作られたような荒削りの十字架におかかりになり、それによって、世への勝利を、私たちの救いを成し遂げてくださったのです。天の父に願い、一二軍団の天使を呼び出して十字架から降りて、闇の力を滅ぼす力によって勝利されたのではなく、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、叫び、息を引き取られることによって世に勝利し、私たちに勇気を与えられたのです。
このお方のこの叫びのゆえに、世は滅びを免れました。御子は世を神と和解させられました。世は御子のものとなりました。なぜならば、このような御子の十字架の出来事の前には、私たちにとっての最後の言葉は死の勝利であったからです。大なり小なり私たちを取り囲む困難が辿り着く先は、滅びであったのです。どんなにうまくいっている人生も、どんなにうまくいっている仕事も、どんなにうまくいっている家庭も、ひとつづつ大事に積み上げられた命の営みも、突然、あるいはゆっくりやってくる、闇の力に最後は飲み込まれていたのです。
たとえば、今年はコロナウィルスによって全世界が、医療崩壊の不安、その先の死の不安にさいなまれています。もちろん、冷静に考えるならば、それがもたらす死へのリスクは実際には、限定的なものであるかもしれません。ペストほどの猛威を振るうわけではありません。罹っても、致死率は0.1‐0.4パーセントだと言われています。高齢者が罹患しても大半の人は、回復いたします。けれども、ワクチンもようやくでき始めたばかりだし、タミフルのような決定的な治療薬があるわけでもない。決定的な対抗手段を持っていないので、それだけ、毎年1万人の死者を出しているとされるインフルエンザよりも、恐ろしい病です。
しかし、世界を覆っているこの影が、投与されだしたワクチン、日々努力されている治療法の確立によって、この病に象徴される闇への不安が、すっかり消え去るのかと言えば、この影の本当の実態である死の不安、この人生はやがて、無に引き渡されるのだという不安をかき消すことは絶対にできません。私たちは相変わらず、突然、あるいはゆっくり訪れ、私たちを飲み込もうとする滅びと縁を切ることはできないのです。それが、「あなたがたには、世で苦難がある」ということです。
しかし、十字架の御子はこれが現実のすべてではないと仰います。十字架におかかりになり、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と、誰よりもリアルに、この闇の力、死の力を味わい、恐れなければならなかったお方が、「しかし、勇気を出しなさい」と仰っている。
人間にも勝てず、だから、死などにも勝てっこないように見えるお方が、「わたしは既に世に勝っている。」、この世を既に、ご自分のものとされている。死と滅びに最後は分捕られるはずの、この世を、この私たちのことを、自分が勝利し、自分の捕虜とし、自分のものとしたこの世だと、ご自分の所有権を宣言してくださっています。「だから、勇気を出しなさい。私が血の代価を払ってあなたを買い取ったから。そのために、神の一人子である私が、あなたが味わわなければならなかったはずの死と滅びを、あなたに肩代わりして、味わいつくしたから、あなたはもう私のものなのだ。恐れるな。あなたは私のものだ。」
ある説教者は言います。主イエスがお命じになる「勇気を出せ」ということは、別のことを考えなさいということではないし、地上から飛び立ってしまいなさいということではないし、気を紛らわせなさいということでもない。「勇気を出せ」というのは、「目を開け」ということだと言います。目の前に開けている何歩か分の前を見て、自分の足でしっかり歩き出せということだと言います。見たくもない困難取り巻く世界の中でなぜ、目を開いて、歩き出すことができるかと言えば、御子が来てくださったからです。
御子イエス・キリストが、私たちと同じ、私たちと同じ体と心をまとった人間となってくださり、目を見開いて、死に取り囲まれた人間の人生を最後まで歩み通してくださった。誰も目を開いて耐えることのできない滅びの極みを、この方は、真正面からぶつかり、私たちのために、私たちに代わって味わい尽くしてくださった。そしてそれによって、私たちの困難に限界を設けてくださった。主イエスが死の不安を、不安としてではなく、現実のものとして、あるがままにそのままに、味わい尽くしてくださり、言葉そのままの意味において、私たちの分まで飲み干してくださいました。そのために、私たちの身に迫るどんな困難も、今は、その最後の言葉として、滅びを脅し文句、殺し文句として私たちに迫ることはできなくなっているのです。
なぜならば、思いもよらない仕方でキリストに負けた、神の分捕りものとなったこの世である私たちにとっての最後の言葉は、「あなたはわたしのものだ」と、告げる神の言葉であるからです。
私たちこの世のために、飼い葉桶と十字架をご自分のものとして選び取ってくださる御子を世にお送りくださった父なる神は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずはないのです。この御子にある神の愛から私たちを引き離すことのできる力は、この世の誰にも何にも与えられていないのです。
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