「赦して、力づける」
週報
聖書個所 コリントの信徒への手紙二2章5節から11節
讃 美 歌 403(54年版)
教会を教会たらしめているものは何か?それは赦しの愛を告げることです。落ち込んで元気を失っている人、あるいは自分は罪にまみれようが何をしようが構わないと、自分を捨ててしまっている人を励まし、再び立てるようにすることです。罪人を愛するために教会が存在しています。
教会は純粋で無垢で汚れのない人を、罪にまみれたこの世から守るためのシェルター、あるいは、厳重な門によって守られた山の手、下町に対する高級住宅地ではありません。罪の赦しを告げることを自分の使命とする教会は、むしろ、野戦病院のようなものです。
ある人が言いました。人間にとって最悪のこと、正確に言えば、その人は、「最大の誘惑」と言いますが、それは、「自分のようなものは救われるはずがない」と思うこと、二番目は、「救いなどというものは必要ない、と思うこと」だと言います。
このように人間に思わせるのが、サタンの働きです。これに対し、教会はこのサタンの働きに全力で反対し、闘うために神によって立てられた野戦病院です。
なぜ、素直に病院と言わず、野戦病院と、今日、私は表現するかと言えば、一つには私達人間が置かれているところが戦場真っ只中であるからです。
7節の「力づける」という言葉は、「慰める」とも訳される言葉ですが、ある時には、「兵士を慰めて励まして戦場に向かわせる」というときに用いられる言葉だと言います。失敗して、多くの人から非難されて、処罰までされた者を、赦し慰め、再び立ち直って、人生の戦いに向かわせるのです。
また野戦病院と表現する、二つ目の理由は、この病院の外と内とを分ける壁は、分厚い壁ではないと思うからです。教会は、新しい方舟に象徴されることがありますが、しかしこの方舟は、かつてのもののように、乗り込んだならしっかりと出入り口をタールで塗り固められたようなものではありません。外と内との行き来は、たやすいのです。全ての者が招かれています。誰でも入ることができます。主イエスによって分厚い神殿の垂れ幕は上から下まで真っ二つに裂けたのです。
しかし、それだけに、悪魔の策略も入り込みやすいのです。
今日読んでいる聖書個所の最後のところで、「サタンのやり口は心得ている」とパウロは言います。コリント教会とパウロとの間に起こった齟齬の背後にもサタン、悪魔がいることを、パウロが警戒している言葉であると思います。
このサタンという言葉は、第11章の12節以下にも出てきます。そこではパウロに代わっていつの間にかコリント教会の指導的位置に立った人達を、偽使徒、ずるがしこい働き手と呼び、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装っていると厳しく批判します。
コリント教会を惑わし、パウロを批判させた者たち、福音を捻じ曲げ、異なる福音としてしまった者たちを、パウロはサタンの手下と呼ぶのです。そしてそのサタンの手下に、追従し、その弟子のような者になってしまった者たちがいたのです。
けれども、パウロは、その偽使徒をサタンの手下とまで呼んで厳しく批判することはあっても、その人たちにどっぷりと影響され、一緒になってパウロを批判していた人たちを、裁いて、教会から追い出すということは決して願いませんでした。
先週までの個所でも確認できたことですが、むしろ、彼がコリント教会に訪問することによって、対立が徹底的に明らかになり、没交渉となってしまうくらいであるならば、訪問をしないということを選ぶのです。
私たちの罪のために死んで甦ってくださったキリストの喜ばしい福音の使者として、人を悲しませることは本意ではないのです。またあくまでも神の協力者である者として、私達を生かすためには御子をさえ惜しまない神に代わって、最終的な裁きを下すことは絶対にできないのです。
そんなパウロにできることは、本質的には、自分を生かしている神の福音がどんなに深い喜びであるかをその言葉と存在を持って証しすること、そして、それだから、どうか、この福音に立ち返ってほしいと、誘い、お願いすること以外にはありません。
今日の直前の個所でも、そのパウロの愛の心がよく伝わってくる言葉が記されていました。
私はあなた方を悲しませたくないんだ。一緒に喜びたいだけだ。だから、あなた方が悲しむなら、それは私の悲しみだ。同じように、私の喜びがあなた方の喜びになってほしい。私の悲しみの中に、あなたがたへの愛を見つけてほしい。そして、本当の福音に立ち返って一緒に喜んでほしい。そうやって、コリント教会へ涙ながらの手紙を書きました。
パウロの本当の敵対者が、コリント教会員ではなく、その背後にあり、異なった福音を告げる偽使徒であり、その背後にはサタンのやり口があるとなると、パウロの戦い方と言うのは何とも、心細いもののようにも思いますが、この涙ながらの手紙がやがて功を奏したようです。
今日の5節、6節の「あなたがたすべて」あるいは、「多数の者」という言葉を読むと、コリント教会の多くの人が、パウロの涙ながらの手紙によって目を覚ますことができたようです。
すれ違いの原因はパウロではない。手紙によって厳しいやり取りを続けなければならなかったのは、パウロのせいではない。時に、パウロからの厳しい言葉を聞きながら、悲しい思いを味わわなければならなかったのは、「悲しみの原因となった人」が、自分たちの中にいたからだと悟ることができたのです。
おそらく、偽使徒、ずるがしこい働き手と呼ばれる外から来た教師を受け入れ、教会を扇動したような人のことが考えられているのだろうと思います。具体的なことは分かりません。
「悲しみの原因となった人」というのは、単数形で書かれていますから、この手紙を書き、読んだパウロとコリント教会の人々には、誰の、どんな行為を指して言っているのか、直ぐにわかったのかもしれません。しかし、今の私たちにはわかりません。
いや、むしろ、パウロは意図的にその者の名前と行状をはっきりさせることを避けようとしているのではないかと考える者も多いところです。
パウロは、たとえ、一時はパウロと真っ向から対立してしまった人、彼を罵り、その使徒としての正しさを疑問視し、攻撃した人であったとしても、その人がコリント教会にいられなくなってしまうことを、どうしても避けたいのです。
だから、パウロは、6節以下で、「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです。そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」と、勧めます。
最後通告のような裁きになってしまうことを恐れ、コリント教会への訪問を延期して、涙ながらの手紙を書いて、真の福音への立ち返りを、神に信頼し、根気強く待ち続けたパウロです。
それが功を奏し、コリント教会の大多数の人の目に、どちらが真実の福音を語っているか、明らかになったのです。偽使徒の尻馬に乗って、パウロ反対を扇動していた人、その異なる福音理解に基づいて、間違った教会生活を作ってしまっていた人たちは、立場を失ったのです。
その人が自分のあり方を悔い改めたかどうかには言及されていません。ただ、つらい立場に置かれたことは間違いありません。苦しく感じたのは間違いありません。
パウロはもうそれで十分だと言います。その人が、あなたたちとの関係において、これ以上、悲しみに打ちのめされるようなことがあってはいけないと言います。赦して、力づけようと。ただそう関わってほしいと。
しかし、パウロは決して、罪をなあなあにしてよいとは思ってはいません。間違ったことを、水に流して忘れようと言っているわけではないと思います。
一つには、6節の「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です」という言葉は、そもそも罰を与えるべきではなかったというのではなしに、もう、あなたがたが与えたあのい罰で、十分だ、ここでストップと言っていると理解できると思います。
最初の申し上げましたように、教会の使命は赦しを告げることです。倒れてしまった者、とぐろを巻いている者、その者たちを励まし、力づけ、再び立てるようにするためにキリストの赦しを告げることです。
けれども、それは、「赦す、赦す」と、鸚鵡返しのように繰り返していれば済むことではありません。
教会は野戦病院のようだと申しましたが、治療する者は時に厳しいことを言わなければならない時があります。
最近は、昔と比べて怖いお医者さんは減ったと思います。私も怖いお医者さんよりも、優しいお医者さんが好きです。けれども、厳しく怖いお医者さんが冷たいお医者さんであるとは限りません。場合によっては、「こんなことを続けていたら、死ぬぞ」と、はっきり言わなければならないケースもあると思います。「自分の体は自分が一番わかっている。自分はどこも悪くない。健康だ。」と言いながら、検査の結果を見れば、危険な状態にある人を叱りつけて、入院させるお医者さんが、必ずしも冷たいお医者さんであるわけではないと思います。
本当に健康になってもらうために、医者は病を指摘し、患者に自分が病んでいて治療を必要としていることを厳しい言葉によってでも、了解してもらわなければならないということがあるように、本当に赦しを受け取ってもらうために、罪を厳しく指摘しなければならないことがあるのです。
昔からこの教会の働きは、戒規という言葉によって言い表されてきました。そして、プロテスタント教会の中でも、私たち改革派の伝統にある教会は、これを重んじてきました。たとえば、一番知られた戒規は、教会員の中で、キリストの福音に生きる者にふさわしくない罪を犯している者があれば、聖餐に一定期間、与らないようにという陪餐停止の戒規に付しました。
聖餐は主の赦しを具体的にわかりやすく表す、神の赦しのしるしです。その聖餐に与れないことにより、どんなに自分が赦しを必要としている人間であるか、キリストの赦しがないということがどんなに恐ろしいことであるかを、身に沁みてわかるようにするための訓練です。
今の時代に、この陪餐停止の戒規がどれだけ、有意味なことになるか?それは、市民生活と、教会生活が一体であるような社会でないとあまり意味をなさないことであるかもしれません。なぜならば、現代日本においては、陪餐停止になれば、ただ教会から離れて、おしまいということになるだろうことがほとんどだろうと思われるからです。
しかも、罪を犯した者にこそ、聖餐に与るべきではないか?その者を、主の赦しを告げる見える御言葉である聖餐から遠ざけることが果たして良いことだろうかと、改めて問う必要があるからです。戒規のための戒規はなく、ただ、身は教会にあっても心は、福音から離れてしまった者を、回復させ、取り戻す手段としてそれは存在するからです。
しかし、教会はその歴史において、罪の取り扱い、戒規の執行において、度々、間違いを犯したのです。信仰の兄弟姉妹が、罪を犯すとき、無関心を装うか、得意になって裁くか、悲しみを担うということを忘れたのです。傷ついた葦を折ることなく、くすぶる灯心を消すことのない主イエスの憐み、主イエスの悲しみを忘れたのです。
いづれにせよ、パウロに従うならば、教会には、そのはじめから戒規というものがあっても、それは罰のための罰ではないのです。それによって、自らの罪に気付き、キリストの赦しを必要とする自分であることを認めてもらうためだけのものなのです。
だから、それは、何も陪餐停止に限ったものではありません。自らが福音を誤解していた。それを捻じ曲げて理解していた。あるいは、キリストが自分の罪のために十字架についてくださったのだと、はっきりと、そのことに気付かされた時に感じる、悲しみ申し訳なさ、情けなさ、それが、既に、十分な罰であると、使徒パウロは言ってくれるのです。
そして、私たちが、このようにして自分が罪を犯していることが明らかになり、福音にふさわしくない者となったと知る時に感じなければならない悲しみ、申し訳なさ、情けなさは、実は、特別な罪を犯している者だけではなく、キリスト者の誰もが、キリスト者として、当然感じるはずのものです。
その私たちのために、毎週、赦しの福音が告げられる。聖餐の食卓が備えられています。だからこそ、礼拝が慕わしいのです。
このような神から頂く赦しの愛が教会にとっての生命線であることは、8節の言葉によって明らかです。
「そこで、ぜひともその人を愛するようにしてください。」
ここで使われる「愛するようにしてください」という言葉は、教会に集う者たち相互の個人的な愛情表現を勧める言葉のように感じるかもしれませんが、原文を見るともう少し違ったニュアンスがあるようです。
原文では、「愛を発行しなさい」という意味の言葉が使われています。法を発布するというような、堅い法律用語が使われているのです。
つまり、「愛するようにしなさい」というのは、罪を犯した人を優しく受け入れるような単に愛の雰囲気、愛の空気が教会の中に満ちることが願わしいというようなことではないようです。
教会の最も正式な行いとして、教会の公式な宣言として、罪を犯した者を愛し、赦すのです。だから、やはり、ここで説教と聖餐を思い起こすことは、適切なことだと思います。
罪を犯した者への教会の愛の業は、いよいよ説教と聖餐、また洗礼によって、罪の赦しの宣言を目の前にいる人に、明確に告げるということによるということになると思います。
それはもう一度申しますが、罪を犯していない大多数の者が、特別な罪を犯した人を、上から目線で赦してやろう、罪人も受け入れてやろうというようなことではありません。
なぜならば、教会自身が毎週罪の赦しを慕わしい言葉として、自分自身が生きるのに欠かせない言葉として聞いているからです。
罪の赦しを宣言する教会の使命は、教会の語る使命として託されながらも、私たちは医者のようにそれを語るのではなく、ただ患者仲間として、患者に向かって語ることができるだけです。
私たちの医者、私たちを赦してくださる方は、イエス・キリストこの方だけです。私たちは、治療中の病人として、病人の傍らに寄りそい、一緒に主イエスの御前に行くのです。
つまり、私たちは、誰かの罪を扱うとき、主人とはならないのです。9節にあるように、この点においても、いやこの点においてこそ、従順に、神を主人とし、この愛と赦しを賜ることをその御心としてくださる主人に従順な者として、罪を取り扱うのです。
そしてそれは、説教と聖礼典に具体化されるような教会の公式な業だからと言って、パウロのような教師に託された特別な権威ではなく、キリスト者すべてに与えられ、求められている働きです。
むしろ、教師の担う赦しの御言葉は、教会共同体から託された教会全体の業、教会の使命です。
今月、金沢教会で、牧師の按手礼があります。三年以上の伝道師期間を終え、試験に合格し、輪島教会、恵泉教会の二人の教師が、牧師とされる按手礼を受けます。この按手により、二人の教師は、洗礼と聖餐の聖礼典を執行できるようになります。
けれども、これは、ライセンスのようなものとは違います。というのも、説教も聖礼典も、牧師の資格を持つ者が、自由自在に行うことができるものではなく、事前に、あるいは緊急の場合は事後に、必ず、教会共同体の許可を必要とするものだからです。
按手を受けて牧師と呼ばれるようになった者が、聖礼典を執行できるのも、その牧師を自分たちの教会に招いた群れが、自分達教会に与えられた毎週の説教と聖礼典の使命を、その人に委託するから行うことが出来ることなのです。だから、お世辞でも謙遜でも何でもなく、たとえば私の説教は、この金沢元町教会皆さんの語っている説教です。
それが10節で、パウロが、「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。」という言葉で言わんとしていることだと思います。
私たちは皆、キリストの前に置かれている者です。第一に、キリストの前にあるとは、この自分自身が、キリストの赦しに罪覆われて、生きることが赦された者だということです。第二に、私たちがキリストの御前にあるというのは、私たちに使命が与えられているということです。そしてそのような二重な者として、このキリストの御前にあるわたしたちが、この世に向かって、兄弟姉妹に向かって、隣人に向かって、語れる言葉は、赦し以外にはありません。
罪をきちんと取り扱うことは難しく、いつでも教会は、途方に暮れる思いになるかもしれません。しかし、キリストは、我々全ての者の罪を、もう既に十字架で担われたのです。すべての罪は、もうそこで決着をつけられ、キリストが御自分と共に墓に葬ってくださいました。そして、キリストは、三日目に死からお甦りになり、神の愛が、罪と死、サタンの力よりも強いことをお示しになりました。
それゆえ、私たちは安心して主イエスに服従したいと思います。教会に罪が入り込む余地がないかのように目をつぶってしまうことからも、自分たちの清潔を保つために、罪を犯した兄弟を追い出すことからも自由でありたいと願います。
そして、本当に赦しを告げ合う赦された罪人の群れである教会を、人間の側からは、神への捧げものとして、神の立てられた教会という側面からは、全ての人間への贈り物とさせて頂きたいと願います。
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