「パウロの涙」
週報
聖書個所 コリントの信徒への手紙二2章1節から4節
讃 美 歌 211(54年版)
聖書の語る信仰者の生き方、キリスト者になって得ることができる幸せというのはどういうものか?私たちが想像することの一つは、どんな出来事がこの身に降りかかって来ても、一喜一憂しない確かな心を得ることだということがあるかもしれません。
外の世界にはすさまじい嵐が起きていて、表面の波は大きく沸き立つことはあっても、深い心の底は、波一つない平常心を保つことができるようになる。それが、信仰の約束してくれる幸せであり、聖書の語るキリスト者のあるべき姿もまた、そういうものであるのではないかと、考えることがあるかもしれません。
信仰が深い人というのは、「いつも喜んでいなさい」という御言葉が思い浮かんでくるように、いつでも静かな微笑みを絶やさない、そんな人ではないかと思い浮かべます。神という大きな岩に、深く錨を降ろした船のような人間は、穏やかに生きられるのではないかと。
もちろん、そう思い浮かべる時、私たちは自分がそういうものであるわけではありませんから、まだまだ修行が足りない。修行という言葉が我々の信仰には馴染まなければ、信仰の深い領域にまだ自分は到達していないなあという思いを漠然と抱くのではないかと思います。
私たちが読み始めたパウロはどうか?私たちの模範とすべき彼の歩みはどうあったのか?どんな逆境にも耐えるという点に関しては、パウロもまた、どんな人生の嵐にも負けない粘り強さに生きた人だと私は思います。この人が、牢屋に閉じ込められながら、喜び続けることができた人だと私たちは知っています。
けれども、今日私たちが聴いています言葉から浮かび上がってくるパウロの姿は、だからと言って、達観して、悟りを開いた、いつもニコニコ好々爺然としたというのとは違う気がいたします。もっとぶつかりながら生きていた人だと思います。
4節に「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」とあります。パウロは、コリント教会の人々との人間関係で涙を流すほどに心揺さぶられながら、生きたのです。
私たちは信仰者の生活というのは、酸いも甘いも噛み分けた上での、達観というか、悟りというか、それこそ、抹香くさい平安に生きるようになると考えることがあるかもしれません。人間的と呼ばれる世界を捨て、浮世離れした非人間的な悟りの世界に入っていくことではないかと。そのことに憧れる部分がありつつも、人間らしくなくなっていくことではないかと、思ったり。
けれども、パウロという人は、全然そういう人ではありませんでした。とても人間臭い。とても人間らしい。パウロという人は、問題が起これば動揺します。苦しみに出会えば、生きる望みを失ってしまうこともあります。そして、自分の働きによって生まれた教会との間に、すれ違いが起これれば、熱くなり、激しくなり、また、途方に暮れ、優柔不断になり、憂鬱になり、苦痛を感じ、悲しくなり、涙を流すのです。
涙ながらに書いた手紙、これは通称「涙の手紙」と呼ばれます。何週か前に申し上げましたように、この第Ⅱの手紙は、コリント教会に宛てた複数の手紙が、バラバラに組み合わせて、一つになっているという説があるとご紹介しました。その仮説によると、ここで言う「涙の手紙」とは、やがてここでも読むことになります、第10~13章がその一部だろうと言われます。
その説が正しいかどうかは、学者間で色々な意見があります。だからはっきりとしたことは分かりません。少なくとも、第10章以下に記されたような激しい調子の手紙を、パウロは、コリント教会宛に送ったということです。
そこではたとえば、「あなたがたを愛すれば愛するほど、わたしの方はますます愛されなくなるのでしょうか」などという、パウロが自分の胸を掻きむしりながら書いているような言葉が語られています。
こういうパウロの姿に悪口を言う聖書学者もいますが、私はなんだかほっとするような思いになります。信仰に生きるということは、いつもニコニコしなければ嘘だということではない。信じてたって悩みます。迷います。鬱になります。涙が流れます。それは正しい信仰に生きていないからだ、中途半端にこの世に足を突っ込んだままだからだというわけではありません。
今日の聖書個所を説きながら、ある牧師は、聖書は、人間離れした書物ではないと言います。救われた者たちの生活は、春の野を行くようなのどかなものでなければならないのではない。むしろ、「教会こそは、愛と悲しみの場所である」と言います。そして、「教会のように深く愛することを願っているところでは、そのことは、特に激しいはず」だと言います。
深く愛するならば、流さなければならない涙の量も自ずと増えるのです。むしろ、本物の愛がそこにあるならば、本物の悲しみも、そこに生まれるというのです。
神学校を卒業して間もないころ、こういう話を同級生から聞きました。私の同級生、一生懸命教会に仕えました。一生懸命教会に仕えれば仕えるほど、遣わされた教会の持つ問題が見えてくる。
しかし、あそこにも問題がある、ここにも問題があると、教会の問題ばかりが見えてくる、いつもそのことで心がいっぱいで、教会に仕えることに喜びがないことに、自分自身がどこかおかしいのではないかと落ち込むという負の連鎖に陥ってしまった。
そんな時、先輩の牧師に正直に自分の重い気持ちを吐露する機会があったと言います。すると、その先輩がこう言ってくれた。「あなたは本当に教会を愛しているんだね。」
私の同級生は、その言葉に救われました。悲しむのは、愁いているのは、愛に生きているからだという自分の姿を発見することができたのです。
それは伝道者だけではないと思います。教会の内でも外でも、信仰に生きているからこそ、大きく傷つき、大きく悲しむ、愛の労苦に、私たちは生き始めるのではないかと思います。
教会に躓いたということを聞くことがあります。信仰の仲間の言葉と行動に傷ついたということを聞くことがあります。それはその人が傷つくほどに、深く教会を愛しているからだと言えるのではないかと思います。
パウロが、このような涙を流すほどの愛に生きると言うとき、それはパウロのどういう愛であったかと考える時、フィリピの信徒への手紙3:18は、是非、今日のところと合わせて読むべきところであるかもしれません。
そこでもパウロは、こう言っています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいるものが多いのです。」と。
ここもパウロが涙を流しながら手紙を書く理由について語っている箇所ですが、その涙を湧き上がらせるほどのパウロの愛は、ここではキリストの十字架に対する愛だと見ることができると思います。
私たちと神さまとの和解のために打ち立てられたキリストの十字架です。御子イエス・キリストが命を懸けて、私たちを救ってくださったのです。
しかし、その十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。そのことをパウロは悲しんでいるのです。その悲しみの涙は、当然、神さまへの申し訳なさの涙、御子を愛する愛の深さゆえの涙だと思います。
それはたとえば、先週聞いた「神を証人に立てて、命にかけて誓います」というパウロの言葉の激しさ、強さの背後にいつでもあった、神さまへの愛の深さだと思います。
パウロは自分を生かしてくださる十字架のキリストの福音に、返しても返しきれない恩を感じています。取るに足りない貧しい自分を、御子の命によってまで、買い取り、御自身のものとしてくださった父なる神様への愛に燃えています。
そのキリストの十字架に敵対して歩む者がいる。教会が教会らしからぬ歩みをしている。キリスト者が自分がキリスト者であることを裏切るような罪に生きている。同じ人間として、神さまに申し訳ないのです。申し訳なさ、歯がゆさに涙を流さずにはおれないのです。人間仲間に向かっては、そんな愚かな真似はやめて、神の恵みの前に、頭を垂れて跪くようにと、強く勧めずにはおれないことです。
だから、愛に生きるゆえのパウロの涙とはまずは、神さまへの愛ゆえの涙、神の恵みが、乱暴に扱われていること、福音が捻じ曲げられていることに対する悲しみであると言えます。
だから、このパウロの悲しみが癒える為には、誤った福音からコリント教会の人々が立ち直ること、また教会の中で神の恵みを無駄にするような罪に生きている者があるならば、その者たちが、悔い改めて生きるようになることであると思います。
そのためには、パウロは、コリント教会の人々のことを、ある程度悲しませることになることはやむを得ないことだと思っていると思います。
2節に、「もしあなたがたを悲しませるとすれば、わたしが悲しませる人以外のいったいだれが、わたしを喜ばせてくれるでしょう。」という言葉は、パウロの圧のある言葉によって、人が悲しむことがあったとしても、むしろ、それで目覚めて、立ち直ってもらいたいんだ、神の恵みを無駄にすることなく、それを謹んで受け取ってほしいということでしょう。
しかし、パウロの涙に結び付くほどの愛は、ただ神様に対する愛の深さに尽きてはいないと思います。パウロの愛は、パウロのために、命を懸けてくださったキリストに注がれるのみならず、このキリストの福音を捻じ曲げてしまいそうになっているコリント教会の人々自身に向かうものでもあります。
いや、むしろ、今日の個所では、直接的には、キリストへの愛は語られず、真っ直ぐに、「あなたがた」への愛、コリント教会の人々への愛が語られています。
まさに、4節で、「悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書」いたのは、「あなたがたを悲しませるためではなく、わたしがあなたがたに対してあふれるほどに抱いている愛を知ってもらうため」だったとさえ言うのです。
パウロが優柔不断と思えるほどに、一方では強い調子の手紙を書き送りながら、もう一方では、コリント教会を再訪問して、悪いものは悪いと裁きを決定的な者にしてしまうことに躊躇し、訪問を差し控えるという態度を取ります。
これは、考えようによっては、神への愛と、コリント教会の人々への愛の間で引き裂かれているというような状況だと理解されてしまうかもしれません。
キリストへの愛を思えば、主イエス・キリストが、命を懸けて、打ち立ててくださった十字架の福音に反するようなことが、教会の中にまかり通ることは許しがたいことです。その福音が捻じ曲げられるならば、キリストの福音に泥を塗るような真似が起こるならば、断固とした処置を行うことこそ、キリストへの愛を貫くことになると思えます。その意味では、今日の個所に続く5節以下では、何らかの処罰について語っています。
ところが、パウロは、手紙を通しては激しい論争を繰り広げながら、そしてそれが実際に、コリント教会の人々に、自分はパウロ先生によって裁かれたと感じさせるということがありながら、教会を再訪問して、詰め寄る、裁き切るということは避けるのです。
これは、キリストの福音から逸脱してしまい、教会が真の教会であることが疑わしくなってきてしまっていても、自分が伝道の苦労をしてようやく生み出された教会、あるいは、福音理解は違ってしまったけれども、顔を見知った親しい人だから、処罰するのは心苦しい、教会にいられなくなってしまったら忍びないという、非常に、人間的な妥協の心が働いているということなのでしょうか?
そうではありません。パウロを生かし、パウロが生きる福音自身が、裁き切ることをさせないのです。それがそもそも神の福音の性質なのです。
つまり、パウロが自分の全存在をかけて真剣に語る福音、それに敵対することは、パウロのみならず、神さまに敵対して歩むことになる福音は、私たち人間に対する神の憐みを告げる言葉です。
主イエスが下さる救いとは、主が十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです。」とご自分を十字架につける敵に向かって与えられる赦しです。福音とは、神の敵である人間に、与えられる救いです。
神さまは、敵が滅びるのをお喜びにならないのです。
人間は、自分を恵みによって生かそうとする、その神に後ろ足で砂をかけ、神などいらないと言うのです。それが聖書の語る人間の姿です。その神の恵みから自ら落ちていくならば、神は、「もうお前たちなど知らない。勝手に滅べ」と言えば本当はいいはずです。
けれども、勝手に滅びに落ちていく人間を見るといてもたってもいられなくなる。憐みに胸が焼かれてしまう。敵対して歩む者を捨ててしまうことができません。
この神の憐みが、主イエス・キリストの十字架に至るほどの激しさを持つ憐みです。
この神の憐み、私たちが決して忘れることのできない表現が福音書の中にはあります。やがて、御子の十字架に至る神の憐みとは、私たち人間が飼う者のない羊のように右往左往としている姿を、主イエスがご覧になった時にお感じになる憐みです。それは、腸がよじれるほどの憐み、お腹が痛くなってしまうほどの憐みだと言われています。
パウロが、告げるように神から託された福音とは、この神の憐みを語ることでしかありません。神に敵対して歩む者にも差し控えることなく、告げるように託されている福音です。福音から自ら離れて行こうとするならば、勝手に離れて行けという風にはなりようがない。福音自身がさらに徹底した憐みを告げるように、パウロを促します。
この神の憐みから落ちている者は誰一人いません。前回の個所、前々回の個所に語られているように、キリストの霊は、私たち人間の心に住まいを定め、私たちのために父への祈りと信頼に生きてくださる。私たちの不信仰の代わりにご自分の信仰を、父の元に届けてくださる。
腸のよじれるほどの憐みのゆえに、この地上に降り、十字架にまで至り、陰府にまで降り、そして、今は、この私たちの貧しい心を住まいと定めてくださったキリストです。そのキリストの憐み、神の憐みは、必ず私たちを立ち直らせ、この愛に生きる者としてくださる。
その時、この幻に生きるパウロの心も、コリント教会の人々に対するあふれるほどの愛に生きざるを得ません。彼の個人的な親しみと同情のゆえに手心を加えるのではなく、キリストの愛に迫られて、裁き切ることができない。裁き切る代わりに、キリスト御自身の後をなぞるように、彼も、愛の労苦、すなわち、コリント教会の人々のために悲しみと涙を流しながら、生きることを選ぶのです。
しかし、一人で背負う労苦ではなく、キリストと共に背負う労苦です。しかも、彼はただ、このキリストの協力者として、キリストの愛の熱気に当てられた者として、愛の労苦に生きるのです。
この後、待ちに待った聖餐に与ります。この聖餐は、キリストの十字架で裂かれたからだと、流された血を表す食卓であり、この聖餐は、私たちに、キリストの体に加えられ、キリストの体と一つであることを確かなことと教えてくださるための神の恵みのしるしです。
と同時に、聖餐に与ることは、洗礼と共に、私たちが自分事としてキリストの体に加わり、キリストのお働きに加わる喜びの応答と決断でもあります。
全ての人がこの応答に生きるように、だから、悪い夢から立ち返り、キリストの憐みの中にある自分であることに目覚めることができるように、そのキリストの働きに私たちも喜んで加わるのです。
そのキリストの憐みの広がりの中で、キリストの悲しみ、キリストの涙のほんの一端を映し出す者として、愛に生きさせて頂くのです。
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