聖書:イザヤ書5章1節~7節
ローマの信徒への手紙3章9節~20節
説教題:罪の支配下にある人間
説教者:松原 望 牧師
※ 録音ができなかったため、礼拝音声はありません。お詫びいたします。説教要旨を以下に掲載いたします。
聖書
イザヤ書5章1~7節
1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。
わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。
2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。
その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。
しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。
3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。
4 わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。
わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
5 さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。
囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ
6 わたしはこれを見捨てる。
枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。
雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。
7 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。
主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。
正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。
ローマの信徒への手紙3章9~20節
9 では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。10 次のように書いてあるとおりです。
「正しい者はいない。一人もいない。11 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。12 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。
13 彼らののどは開いた墓のようであり、/彼らは舌で人を欺き、/その唇には蝮の毒がある。
14 口は、呪いと苦味で満ち、15 足は血を流すのに速く、16 その道には破壊と悲惨がある。
17 彼らは平和の道を知らない。18 彼らの目には神への畏れがない。」
19 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
「 説教要約 」
1 すべての人が罪の下にある
3章1~2節で「ユダヤ人の優れた点は、あらゆる面からいろいろ指摘できる」と言いながら、今日の3章9節では「(結局)優れた点は全くない」と言っています。
神は、律法と割礼と神の言葉などを、恵みとしてユダヤ人にお与えになりました。ですから、ユダヤ人に優れた点はいろいろあるように思えます。しかし、その一つ一つを見ていきますと、ユダヤ人は神を侮り、不誠実であったため、律法や割礼や神の言葉が無意味なものにされてしまっていました。「ユダヤ人のせいで、神の名が異邦人の中で汚されている」(2:24)とまで言います。
ユダヤ人の優れている点はいろいろありそうで、その実、全くないことが明らかになりました。そして、ユダヤ人には優れた所がないどころか、「罪の下にある」と断言するのです。
ここで「ギリシア人」という言葉が出てきますが、民族としてのギリシア人ということではなく、ユダヤ人でない人々、すなわち「異邦人」という意味です。このローマ書が書かれた時代はローマ帝国が支配しており、ローマ帝国はギリシアの教養と文化を継承していると認識していたので、ここでは「ギリシア人」という言葉を使っているというわけです。
2 「罪」
「罪」を表す言葉として、2章1節に「罪に定める」という言葉が出てきましたが、これは「罪」そのものを意味するというよりも罪を起こした人に対して「罪に定める、有罪判決をくだす」という意味の言葉です。
今日の3章9節に出てくる「罪」という言葉、ギリシア語では「ハマルティア」と言いますが、この言葉は聖書の中で特に重要な言葉です。これに似た言葉が2章12節で「罪を犯した者」とという言葉で出てきています。これも「罪」そのものというより、罪を犯した「人間」の方に焦点を合わせた言葉と言えます。
「罪」と訳されるハマルティアという言葉は、もともと射撃などに使われた言葉で、「的を外す」という意味です。そこから「本来すべきことをしていない」とか、「本来あるべき姿を失ってしまった」という意味になり、聖書は信仰的な意味で「罪」というようになりました。
例えば、旧約聖書の創世記には、神によって最初に造られた人間「アダム」が罪を犯したため、永遠に生きることができなくなり、その生涯の中で苦しみ、最後に死ぬことになってしまったことが記されています。聖書は、「これは神が本来意図したことではなかった」と告げています。最初の人アダムは神に造られた本来の姿と人生を失ってしまいました。このように「本来あるべき姿を失ってしまった」「本来あるべき神と人間との関係を失ってしまった」という意味で、聖書は「罪」、また「罪人」というのです。
それにしても「罪」とか「罪人」という言い方はきつすぎるのではないか、と思われるかもしれません。「的を外す」とか「本来すべきことをしていない」とか、「本来あるべき姿を失ってしまった」ということが、偶然失敗したというのではなく、それが悪いことを知っていながら、あえてそれをしてしまうという意味で「罪」という言葉を使っているのです。聖書は、「罪」という言葉と共に、「神への反逆」(詩編5:11、エゼキエル12:25、44:6)という言葉をも使っています。
「罪」とは、単なる「過失」ではなく、「故意の反逆」なのです。
3 罪人である人間の罪深さとそこから生じる悲惨
10~18節は、旧約聖書の詩編(53編2~4節、14編1~3節)からの引用です。罪の状態にある人間の悲惨さが歌われており、1章18節からパウロが語ってきたことです。いつの時代も人間は悲惨な状態に置かれてきました。
10節の「正しい者はいない。一人もいない」は旧約聖書(詩編14:3)からの引用ですが、重要な意味を持っています。ユダヤ人もギリシア人も罪の下にあるということに対して、結論になるからです。「罪とそこから生じている悲惨」はユダヤ人やギリシア人だけの問題ではなく、地上のすべての人間がおかれている状態だと指摘しているのです。
しかし、パウロがこのことを言うのは、人間の罪深さとその悲惨を語ることが目的ではありません。むしろ、すべての人間はこの罪と悲惨から救われなければならないし、また救われる道が用意されているということを言いたいのです。そのことは、このローマ書の初めのところ1章16節で「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だ」と力強く語っていることからも明らかです。そして、その「福音」はイエス・キリストであると、手紙の挨拶の部分(1:2~4)で語っています。
すなわち、イエス・キリストこそ私たちを罪とその悲惨から救い出してくださる神の力であり、救い主なのです。このキリストによる救いをパウロは語るために、これまですべての人間の罪とその悲惨とを語ってきたのです。
4 律法の証言
19~20節で再び律法について語っています。律法は神から与えられた正しさの基準です。律法を知らない異邦人はもちろんのこと、律法を与えられているユダヤ人も神の裁きを免れることはできないというのです。
律法に示された神の御心に応える生活してこそ律法が与えられた意味があります。しかも、それは「完全に」実行しなければならず、「だいたいは実行している」というのでは意味がありません。私たち人間社会であれば、それにも意味があるでしょう。しかし、パウロがこれまで語ってきた人間の罪と悲惨ということを考えると、全く不十分なのです。ユダヤ人でさえも律法を完全に実行することはできなかったというのが、これまでパウロが語ってきたことでした。それゆえ、「全世界が神の裁きに服する」とか、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」、「律法によっては、罪の自覚しか生じない」とまで言うのです。すなわち、律法は私たちが罪から救われるにはどうしたらよいかということを語りながら、私たちはそれを実行することができないし、それ故に、罪人であるという自覚しか生じないというのです。
5 信じる者すべてに救いをもたらす神の力
パウロは、3章9節以下で、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にある」、「正しい者はいない。一人もいない」と語り、すべての人間は罪の支配下にあり、だれ一人救われないと断言しました。しかし、それがパウロの結論ではありません。むしろ、ここに大逆転が起こるということを言うための布石になっているのです。
先ほども見ましたように、1章16節にあった「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力」という言葉です。この「神の力」を語るための布石として、人間の罪について語ってきたのです。
すなわち、あらゆる人間の知恵や力、努力では、誰一人自分を救えないことを明らかにしつつ、ただ神の力のみが、わたしたちを救うことができるのです。
パウロはコリントの信徒への手紙の中で次のように語っています。
「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(1:23~24)
また、次のようにも言っています。
「あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるため」(Ⅰコリント2:5)
ただ、神の力によってのみ、私たちは罪の支配から解き放たれ、救われるのです。そして、神の力によってのみ、私たちを神から遣わされた救い主イエス・キリストを信じることができるようにされているのです。
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